老人と白鳥

老人の財産と言えるものは、一枚の白鳥の羽根と、長年連れ添り、毛がぼさぼさになっている一匹の驢馬しかいなかった。
元々、農民出の老人は、あまり金に価値を見い出せなかったし、家も小さかった。
けれども、いつも小綺麗にしてあって、老人が一人で生活する分には申し分なかった。
老人は月夜になると必ず、月がよく映る湖へ、驢馬と一緒に散歩に出かける。
その水面に、笹舟を浮かばせるようにして、白鳥の羽根を置いてやるのだ。
すると、羽根が自然と月を映し出す所まで、見えない推進力のようなもので運ばれる。
月明かりに照らされて、ぼんやり光る羽根からは、気体のような白いベールを纏った美女が躍り出てくるのだ。
浮世に出てきた美女は、老人に見つめられているのは知ってか知らずか、まるでその場に一人しかいないように、踊りに熱中する。
美女の手が弧を描く度、足が遊び出る度、白いベールが美しい鰭雲のようになって美女にまとわりつく。
老人は、これは羽根に宿った白鳥か、雪の精霊だと思っていた。
幼い頃から貧しく、働きどうしで、満足に学校にも行けなかった老人は、恋というものを知らなかった。成長してからも、周りが伴侶を迎え、一人また一人と子供を産むのを遠くで、ただ見つめていた。
老人は、人当たりもよく、その年にしてはよく働くので、村では決して邪険には扱われてはなかった。
しかし、どうしても心の中に、何か僅かな、渇望しているものがあった。
日々働く中で、どうしようもなくそれを感じる時は、こうやって湖までやって来て、存分に精霊を踊らせてやる。
月明かりを照明に、水面の月の板を舞台にして、精霊は、一心不乱に踊り狂う。
精霊の、命を喜びを表現しているような、とてものびのびとした楽しそうな踊りを見物していると、老人の年老いた皺くちゃな心も、丁寧に引き伸ばされて、馬油を大事に塗りこまれているような気分になるのだ。
この、不思議極まる白鳥の羽根を、どうやって手に入れたのかは、老人は覚えてはいなかった。
何かを思い出そうとしても、羽根に関する記憶の片鱗さえ掴めない。
老人は、自分の年のせいだろうと心に言い聞かせていたが、そんな気持ちもこの素敵な白い踊り子を見ている内に、煙のようにかき消された。
しなかやな体の踊り子を何百人も寵愛している王が、もしこの光景を見たら、金貨千枚はたいてでも、羽根を譲り受けようとするだろう。
けれども、老人はたとえ何枚金を積まれても、世界中の何よりも、この羽根が大事であった。
雲がかかってしまうと、月光で体を得ていた精霊も、消えてしまう。
けれども、今日はそんな心配が全くない快晴の夜だった。
ふと、老人は驢馬が水を求めて、湖の近くにやってきたのをみとめた。
普段はこんなことが無いように、ここに来るまでたらふく水も飼葉も与えてやるのだが、今日だけはなぜだか、喉の渇きを抑えられないようだ。
前に、泣き女(バンシー)の悲鳴のような狐の鳴き声で邪魔された時は、精霊も驚いたようで、すぐに羽根の中に戻ってしまい、老人はかなりがっかりしてしまった。
が、この驢馬は良くしつけてあるため、いたずらに人を驚かすような事はしないだろう、と判断し水辺に近寄るのを許してしまった。
驢馬は、当たり前のように湖の淵に口をつけて、ごくごくと飲みだした。
驢馬の口の動きが、波紋となって湖全体へと伝わる。
それで初めて、精霊は近くに四足の獣がいるのに気づいた。
精霊は、物珍しいものを見た子供のように驢馬に近づき、その水を飲む動きを愛おしそうに見つめた。
老人は、てっきり精霊は踊りにしか興味が無いものだと思い込んでいた。この時になって初めて、動物好きの少女のような素振りを見せたので、驚いたどころの話ではない。
飲みたいだけ水を飲んだのか、やっと驢馬は顔を上げた。
そこで、精霊の美しい顔と目が合った。
驢馬も精霊も世界にまるで二人しかいないように、見つめあい、硬直しあっていた。
老人が、これはどういう事だ、と二人の方へ近づこうとして、足元の草から小人の耳にも入らないような小さい、ざっ、とした音を鳴らした。
衣擦れよりも微かな音に驚いた精霊は、ひとたび身を翻したと思うと、みるみるうちに羽根の中に吸い込まれて消えてしまった。
驢馬は、名残惜しそうに精霊がいたところに、何度も、欠けたオカリナの音色のような呼び声をかけた。

その後、老人は乱暴な手つきで驢馬の手網を引っ張り、家に戻った。
それから、自分が年老いたつまらない驢馬に嫉妬しているのが分かり、悔しさと自虐のあまり、思わず笑いだしそうになっていた。
老人が、どれほど精霊に恋焦がれても、見つめているだけしか許されなかったというのに、この年老いた驢馬は、一目見られただけで、気に入られたのだ。
老人は、ナタを手に取って近づき、それで驢馬を殺してしまった。
そして、死体から皮を剥ぎ取って、鞣し自分が着られるように仕立てあげた。
老人は、自分が驢馬になれば精霊に見初められると思っていた。

また新たな月夜の晩。
虚ろな目をして湖の岸辺に立っている老人を見た精霊は、嘆きの絶叫と共に霞のようにかき消えてしまった。
白い精霊は、前に見た、可愛らしく素朴な動物が、目の前の恐ろしい気持ちを覆い隠した人間に、毛皮も生命も奪い取られてしまったのだ、とすぐに悟ったのど。
老人の耳の中に、雷鳴よりもつんざく音がして、思わず耳を抑えた。
頭の中で、金属が叩かれたような高く冷えた耳鳴りが、止まなかった。
やっと耳やりがおさまってから、手を外しだが、全くもって、周囲の音が聞き取れない。
精霊は、呪いの絶叫で老人の鼓膜を破っていた。
老人は、いよいよ精霊に見捨てられ、罰として音が抜き取られたのだ、と分かった。
老人は、悲しみのあまり狂乱したように、大声を出しながら、森の中に駆け出していった。
醜い声でなんども精霊を呼ぶが、もはやそれは人間の言葉でも、声でもなくなってしまった。

老人は、本当の驢馬(愚か者)になってしまっていた。

広大な湖近くの村で、 一人暮らしの老人が行方知れずとなった。捜索隊が組まれたのだが、その後すぐ子供を攫う恐ろしい声の化け物が出るという噂が流行り、皆の頭の中は老人を探すどころではなくなってしまった。
誰も、親族でもない老人の見つけるためだけに、家を留守にして、森の暗闇からやってきた化け物に子供を襲われたくなどない
やがて孤独に暮らしていた老人の事など、綺麗さっぱり忘れ去られてしまった。
それから長い年月が経ち、老人の小さい家は、もはや廃墟とも呼べない、煉瓦と木の板の集まりになっているだけだった。

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