盲金魚ー水泡眼
ーネェ、あれは何?
子供は、人だかりに向かって指をさした。
ーアァあれは盲金魚売りだよ。
姉は、弟の指した指先を窘めるように、己の手で包んだ。
ー盲金魚ってなぁに、普通のお魚とは違うの
弟の純粋な疑問に、少し困ったような顔をして、姉は答えた。
ー盲金魚って言うのは、お人形のように綺麗な女の人達のことだよ
弟はそれだけではさっぱり分からない、という顔をして、姉を見た。
ー女の人達を一体どうするの? お父さんと他のおじさん達が話していたような、『 いい事』をするの?
もちろん、弟はその『 いい事』の意味もさっぱりわからなかった。
亀にお酒を飲ませて、競走させるようなお巫山戯の遊びでもするのかしら、と思っていた。
けれども、姉の方はその様な事柄がわかってくる年頃なので、顔を少し赤めながら、弟に言った。
ー違うよ、そういう『 いい事』をするんじゃなくて、ただ見て、愛でるんだって。
ー愛でるってなぁに
ーええと、つまりそれはー、
弟は、姉のその言葉がよく聞き取れなかった。
というのも、姉と手を繋いだまま、その人だかりの前を通るところだったから。
子供は、人と人の間から、何とかその盲金魚の姿を見ようと、うんと、首を伸ばした。
子供の硝子玉のような目に、ひどく艶やかで、煌びやかな着物が映った。
ーなぁんだ、この人たちみんな、金魚のおべへのような、真っ赤な着物を来ているだけぢゃないか……
子供には、前に見かけた遊女のように着飾って、髪も鶏の鶏冠のように盛り上がった美女達がいるのが見えた。
美女達は、年格好も様々だったが、誰しもが紅い装いで、何となく統一感のようなものが感じられる。
けれども、幼い子供の目にも不可思議に映るところがあった。
ーどうして、あの人たち目隠しを、されているんだろう?どこかに目を落っことしてしまったのかしら
きんきんきらきらとした、金魚の化粧姿のような美女達は、誰も彼もが、赤い布や外国製のレェスの布で瞼を塞がれていた。それに、手拭いを頭に被り、法被を着崩した、祭りの屋台でよく見るような姿の男に、皆が皆、紐で繋がれていた。
紐は、全員帯や腰のベルトに結ばれて、長く伸びたその束の端を、やくざな男が、固く握っている。
幼い子供でも、見ただけで、これは真っ当なものではないー、母親がよく言うお天道様に顔向けが出来ないような、商売だと分かった。
子供は、何となく見てはいけないものを見てしまったような気がして、禁忌を破ったせいで落ち着かない気持ちを、自身の手を握ってくれている姉の手を握り返すことで、多い隠そうとした。
ーサァサ、皆様お立会い、世にも稀なる盲金魚だヨ
元締め男の野次が、子供の鼓膜に入り込んできた。
ーこれなる娘は、水泡眼。この世に生まれ落ちた時、龍神様の鱗を目に宿してしまった娘サァ、
前世は、金鯱(きんしゃち)御殿に住む龍神様の侍女であったが、叶わぬ恋と知りながら、龍神様に恋慕して、せめてもの慰みに、と鱗一枚剥ぎ取った重罪人!
ーしからば、今世は人の身に落とされて、両親から捨てられるという罰を受けー
弟は、初めて行ったひよこ売りの屋台で、似たような文句を真に受けて、鳳凰の雛、鳳雛(ほうすう)であるという紅い羽毛の雛を買ったことを思い出した。
なけなしのお小遣いでギリギリ足りた鳳雛は、雨に濡れた時に、赤い塗料で染められていただけだと知った。
それから、野菜屑や穀物の挽いた残りを与えて大きく育てたものの、卵の生みが悪い穀潰しの鶏に与える余裕はうちにはない、と父に絞められ、母に夕餉のおかずにされてしまった。
まだ珍しい外灯の火の下に、襤褸雑巾のような姿の少女がいた。少女は、酷くやつれて目も落ちくぼみ、誰が見ても乞食だろうと分かった。
少女は、生まれた時から両親の記憶はなく、ただひたすらに近くの同じような境遇の子供たちの真似をして、今日まで生きのびてきた。
鴉と鼠が荒らすような残飯を一緒になって漁り、金持ちそうな人間に近寄っては、哀れっぽい顔と演技で何とか今日生き延びるだけの食べ物を恵んでもらおうとしていた。
けれども、身分の立派な人間達の中には、慈悲を与えるどころか、汚らしいものを見る目付きで少女見て、犬を追い払う時の仕草で、少女に接した。
ゴミ漁りも、ここでそんなことをするんじゃない、うちの店の品位に関わる、という大声とともに水をかけられる事も多かった。
少女には、生きる希望はこれっぽっちもなかったけれども、何となく死ぬのは嫌で、今日まで生きてきた。
少女は、外灯のぼんやりとした光に、蛾のように惹かれて、冷たい石畳の地面に腰を下ろした。
外はまだ冷たい風が吹き、それに震えてもいいのだろうけど、少女にはもはやそれをする体力も残されていなかった。
この外灯の下にいれば、死んだとしても誰かが見つけて、自分を手厚く葬ってくれるかもしれない、と微かな希望を抱いて、外灯の下に佇んでいた。
天使に、幼い魂を導かれるのを待つ、病気の子供のように。
少女の意識が、ぼんやりしてきた頃に、一台の馬車が走ってきた音が、聞こえた。
少女は、早くどかなければ轢かれるか、大声でどやされて怖い思いをすると分かっていたが、もう体どころか小指一本、動かせなかった。
少女は、そのままどうしようもなくそこに留まっていたが、近くで馬車は、止まったようだった。
少女の耳の中に、馬車の扉が開く音と、馬車に乗っていた人らしい足音が、響いてきて、こちらに近づいてきたことが分かった。
音だけでも、高い革靴を履いている事がわかる足音が、少女のすぐ近くで止まった。
馬車から出てきたのは、黒いコート姿の紳士だった。
黒い紳士は馬車の窓から、外灯の下に縮こまって座っている影を見つけ、御者に命じて近くに止めさせたのだ。
「おお、可哀想に……」
黒い紳士のその声には、他の大人の安っぽい憐れみが含まれたような声ではなく、本当に心から少女を気の毒に思う気持ちがあった。
少女は最初、死神が自分の魂を奪いに来たと思っていたが、その優しい声を聞いた瞬間に、天の神が自分の元へ遣わしたお方だと思った。
黒い紳士は、服が汚れるのも厭わずに、少女を抱き上げて馬車に載せた。
困惑した様子の御者を目線で黙らせて、自身の屋敷へ向かうように指示した。
少女は、あぁ自分はこのまま、神の国へ行くのだ、と思っていた。暖かい馬車に揺られて、飢えを凌ぐ事も無い、寒さに身を凍えさせる事も無い、愛と優しさが詰まった神の国へ、行くのだ、と。
少女が目を覚ましたのは、雲上の神の国ではなく、壁紙に至るまで豪華な部屋の、ベッドの上だった。
少女は、ゆっくり体を起こして、周りの状況を確認した。
部屋には、蔦と花が絡んだ見事な模様の壁紙が貼られ、少女が横たわっていたベッドの四隅には、真鍮製で頑丈かつ美しい柱が生えている。
少女は、ベッドの上で寝たことなど一度もなかったが、それでも敷布団も掛けられた毛布も、高価なものだとわかった。
どれも、ふわふわとしていて暖かく、手触りが良い。まるで、親鳥の柔い羽毛に、優しく包まれている、卵か雛鳥の気分であった。
そうやって、しみじみ布団を眺めていると、自分の身なりも、綺麗になっているのが分かった。
臭いは、完全には取れていないが、身体の汚れがおおよそ取られている。少女が寝ている間に、誰かが体を拭いてくれたのだろうか。
着ているものも、襤褸布から、素肌に優しく触れる綿のブラウスに、変わっている。
真っ白なブラウスは、申し訳程度にレェスの飾りがついており、可憐というよりも、素朴な雰囲気のものだった。
少女がいる部屋には、燃えている薪を口の中に入れた暖炉もあり、その暖炉の近くには、実用的なものには似つかわしくないほど、華美な細工の火かき棒や、暖炉の手入れ道具があった。
まだ未使用の薪も、束の紐を解いて置かれており、その薪を乗せてある台も、ただ乗せるだけの台に必要ないほど豪華なものだった。
少女が、何も言わずに、子鼠のようにあたりをきょろきょろ見回していたら、部屋のドアの取っ手が、がちゃり、となった。
音の主は、黒いおかっぱ頭に、すらりとした朱い着物を着こなした少女で、歳は少女と比べると、1つ2つ上ぐらいに見える。
おかっぱ頭の少女は、猫のような感じで音もなく部屋へ入ってきた。
そして、ベッドの上の少女に気づき、
「あ、起きてる」
と確認するように短く呟いた。
すると、まだドアを少し開け、廊下かどこかにいる誰かに、大きな声で言い放った。
「お土佐姐さん、鼠っ子が起きたよぅ、黒出目さん、旦那様に知らせて下さい」
それだけ言ったおかっぱ頭の少女は、ベットの近くまで足音も立てずに寄ってきた。
「よろしく、アタシは和金だ。これからアンタを、拾った旦那様のところまで、連れていかなきゃならないんだけど、立てる?」
ベッドの上の少女は、素直に、ゆっくりと布団をめくった。
足をベッド枠から外に出し、硬い床の感触を確かめると、そのまま足に体重を任せた。
少しふらついたが、それも最初だけで、少女は全快とはいかなくとも、街灯の下で蹲っていた自分が信じられないほど、体に力が残っているのを感じた。
少女は、あの黒い紳士に拾われたあと、誰かが介抱してくれたのだろうか、と思った。
和金と名乗ったおかっぱ少女は、近くに置いてあった上着を
「寒いならこれを着な」
と言いながら少女に手渡して、塞がってない方の少女の手を握って、旦那様のところまで案内をした。
少女が通された部屋は、大広間で、既に例の旦那様も、あと幾人かの女性達が集まっていた。
女性達は、みんな年齢も格好も様々だった。
若い娘もいれば、妙齢のもの、目の下に貫録がある皺を持った女もいた。
旦那様、と呼ばれた人は、間違いなくあの襤褸姿の少女を拾った、馬車の黒い紳士だった。
旦那様は、後ろから和金の
「拾った娘を連れてきました」
という声を聞き取ると、ごく落ち着いた動作で読んでいた本を閉じ、一番近くにいた、これまた黒ずくめの女に、本を手渡した。
その女は、目を完全に隠されていた。黒いフリル飾りが着いた布が、頭の後ろで結ばれ、その上から、葬式で被るような、薄く厳かなヴェールを被り、ゴシックなドレスを見に纏っている。
唇に塗ってある紅の色さえも、不気味な黒であった。どうして見えているのか不思議であったが、本を受け取った両方の手の薬指に、一つづつ、義眼の飾りが着いた指輪しているのが見て取れた。
旦那様は、少女の方へと向き直り、優しい瞳を向けて、話しかけた。
「もう、身体の具合はよろしいかな」
少女が頷いて答えると、女たちの中の一人が、少し厳しい口調で言った。
「口がきけるのなら、きちんとお話しなさい。お前はその方に対して恩義があるのだよ」
その女は、五十あたりに見えた。顔に老け始めた気配はあるが、それでさえも、魅力の一部にしてしまっている。目の若い輝きは、失われず、昔は余程の美人であっただろうと、思わせる顔立ちをしていた。
「土佐錦、良いのです」
土佐錦と呼ばれた、鋭い目の女は口を噤んで、旦那様に向かって一礼をした。
「お土佐、もうちょっと優しく振舞ってあげなよ、あの子は餓死寸前だったんだからさ」
腹がでっぷりとしていて、割腹のいい女が、土佐錦と呼ばれた女に向かって、怒る声を上げた。
大きく盛った前髪と、そこに少しだけ乗った髪飾りが揺れる。
お土佐というのは、おそらく仲間内での愛称だろう。
「ふん、あんたは子供に甘すぎるんだよ、らんちう。売り物として並ぶのなら、最初から礼儀を弁えさせなきゃ」
らんちうと呼ばれた太った女は、少女から見るとかなり年上だが、土佐錦よりは年下で、言うなれば、母親の世代くらいの年齢に見えた。
土佐錦とらんちうは、しばらくがみがみやっていたが、その喧嘩が、熱烈になる前に、旦那様が手で双方を制した。
「「失礼しました」」
主人の鶴の一声に、二人とも、すぐに静まり返って、一礼をした。
「さて、蝶尾。どうだろうこの子は売り物になりそうかな?」
そう呼ばれて、女達の中から蝶を腰に絡めとったような、ふんわりとした立派な帯を締めた女が、いそいそと出てきた。少女や和金より、年上に見えるが、先程の土佐錦やらんちうよりは、年下に見える。
大人になりたての、二十歳弱の年齢、と言うべきか。
蝶尾は、何も言わずに、帯の中から、煙管を取り出し、それを少女の顎に当てて、検分するように眺めた。煙管をくいっ、くいっと動かし、少女の首や鎖骨のあたりを、品定めするように見渡す。
しばらくして、蝶尾は、煙管を少女の顎の下から外し、また帯の中にしまい込んで、旦那様の方へ向き直った。
「少し痩せているようですが、この屋敷で養生させて、健康になれば、問題ないかと思われます。長い間ろくなものを食べていなかった様なので、まずは粥や煮た野菜から与えた方が宜しいかと」
「そうか、有難う」
旦那様の言葉に蝶尾も一礼を返し、女達の中へと戻った。
「という事だそうだ、和金。その子は起きたばかりだから、まず風呂へと連れて行っておあげ。あとの話は、それからだ」
「畏まりました。旦那様」
と言うと和金は、少女の手をまた握って、部屋を出ようとした。
その時に、和金が小さい声で、
「旦那様に一礼を」
と言うので、少女もそれに倣った。
「うん、ゆっくり浸かっておいで」
低いけれども、慈愛に満ちた優しい声が、少女の耳の中へ届いた。
和金は年の割に、歩くのが早く、手を引かれて行く少女は、何回かつまづきそうになった。
風呂場は、今の日本では滅多に見ないような西洋式の浴室だった。
広い床には白いタイルが敷かれ、人目を遮るようにパイン素材のパーテーションが置いてある。
その向こうには、金の猫足で支えられている白いバスタブが置いてあった。
和金は、少女に着ているブラウスを脱いで、籠の中に入れるように、と支持すると、自身も着ていたものを脱ぎ始めた。
和金が、着物と一枚の襦袢を脱いだ下は、丈が短く生地も薄い、外国製のキャミソールとパンツだった。
和金自身のスタイルの良さもあるだろうけれど、だから、和金は着物を着ていても、すらりとした姿だったのだ。と少女は一人で納得した。
「これも、旦那様からもらったんだ。外国だとみんな、こういう下着を付けているんだって。お偉いさんとかは、まだ下着とかもゴテゴテしているらしいんだけど。これを着るともう前のには戻れないよ、この下着でも、着物が綺麗に見えるように着付けを覚えるのが大変だったけど」
そう言いながら、和金は、隅に置いてあっだ浴室用の椅子を、バスタブの近くまで持ってきて、
「アタシが洗ってやるから、これに座って、大人しくしていて」
と少女に指示した。裸になった少女は、初めて体を洗われる子犬のように少し緊張したような顔つきで、椅子へと座った。和金は、外国製のバスタブと同じくらい白いタライを、金の蛇口の下に置いて、お湯を貯めた。
少女は、幼い子供が親にそうされるように、頭から暖かいお湯をざぱーっとかけられた。
「これぐらいの温度でいいかい?」
少女は、お湯で垂れてきた前髪が瞼を塞ぐ、この初めての感触が何だか好きになれなかったが、
「うん、大丈夫」
先程、土佐錦に言われたことを思い出し、慌てて和金に返事をした。そのおかげでぬるい湯が器官に少しばかり入り、咳き込むことになってしまった。
「はは、別に、風呂の間ぐらい、首ふったりして返事をしてもいいんだよ。慣れなくて口や鼻に入って大変だろ?」
和金は、カラカラと笑いながら、少女の背を、軽く叩いた。少女の咳が止むのを確認してから、またゆっくりと暖かい湯をかけた。
少女の髪と体全体が、濡れた事が分かると石鹸を手に取って、泡立て始める。
「うーん、面倒くさいから全部一緒に洗っちまうか」
そう言うと手に、石鹸のこんもりと立った白い泡を、少女の髪の上にちょこんと乗せ、少女の手にもそれを移した。
「アタシは、背中と髪を洗ってやるから、自分の体の前の方は、アンタ自分で洗いな」
和金は、ゴシゴシと音を立てて、少女の髪を洗い出した。少女は、頭皮が引っ張られる慣れない感覚に戸惑いながらも、言われた通りに、自分の手が届く範囲のところを、泡で何度も擦った。
「アンタ、意外と髪はやわっこいんだねぇ」
少女の緊張を解きほぐすように、和金が声をかけたが、少女は今度こそ、なんと答えていいか分からなかったので、黙っているしかなかった。
別に和金はそれを咎めずにいてくれたので、二人は沈黙しながら、泡と格闘していたが、居心地の悪い感じではなかった。
「もういいかい、湯をかけるよ」
また、少女は頭から、体全体に湯をかけられた。
何回かそれを繰り返し、完全に泡を流し落とされた。
少女の濡れた髪が邪魔にならないように、和金が厚地の手拭いで頭をおおってくれた。
「今度から、お湯に入る前には、ちゃんと自分で洗ってくれよ。」
和金のその言葉で、少女はいつまでこの屋敷に居ていいのだろうか、と思ったが、和金がバスタブに入って体を温めるように行ったので、言う通りにした。
暖かいお湯の中に入ると、さっきまで考えていたことが、綺麗さっぱり溶けるように、無くなってしまった。
「アンタがこれからどうするかは、そのうち決めればいいけど、蝶尾姐さんの言うように、しばらくこの屋敷で英気を養わなくちゃならないから、紹介は必要そうだね」
和金は、少女が今まで座っていた椅子を、足でバスタブの近くに引き寄せて、それに座った。
「アンタに、口煩く言った、鷹みたいな目の人は、土佐錦って言うんだ。アタシらの中で一番年上で、偉い人だよ。アタシらはみんな、お土佐姐さんって呼んでる。」
「まぁ、あの人の言ってることは最もだからね。口答えはしない方がいいよ。」
「前は、どっかの遊郭で、遊女をやってたらしいんだけど、聞いても答えてくれないんだ、いっつもはぐらかされちまう。けど、とっても別嬪さんだったって、噂だよ」
「その、お土佐姐さんと口喧嘩していた太っちょの人がいただろ?その人は、らんちう姐さんって言うんだ。お土佐姐さんとは、真反対に子供好きで、私たちにとっても優しいだよ。たまぁに内緒でおやつをくれる時もあるんだ。」
「なんだかんだ言いつつ、お土佐姐さんとは、仲がいいよ。なんでも言い合える仲ってやつかな」
「汚ったないアンタを、泣きながら体を吹いてくれたのもらんちう姐さんだ。他の誰よりも、様子を見ててくれたのもね、後で礼を言っとくんだよ」
少女は、こくりと頷いた。
「アンタをじろじろ見ていたのは、蝶尾姐さんだ。姐さんは、前は看護婦だったんだって」
「蝶尾姐さんも、放っておけば死ぬところだったアンタに、点滴してくれたり、採血やらで検査をしてくれたんだよ。この人にもお礼を忘れずにね」
「だから、体の具合が悪くなったら、必ず蝶尾姐さんに言うんだよ。必要なら、姐さんを通じて旦那様が薬も準備してくださるからね」
「あとは、今出ていて屋敷にいないけれど、獅子頭っていう奴がいる。真っ赤なもふもふした襟巻をつけているからすぐに分かるよ。年はアタシ達と同じくらいのやつなんだけど。」
「そいつは、生まれつき上手く喋れないんだ。言っても、獣みたいに唸り声を挙げるだけなんだけど、悪いやつじゃないから、びっくりないでおくれよ。」
「えーと、あと花房って言う人もいて、この人は頭に花の飾りや簪を沢山つけている人だ。もう一人、丹頂って言う人は、着ている物は真っ白で、頭にだけ赤い飾りをつけてる」
「うぅん、あと言ってない人は……」
和金がそう言いかけた時、浴室のドアが、トントンと鳴った。
「あぁ、そうそうあとコイツ」
言うなり、和金はドアを開けて、ドアを鳴らした張本人を中に招き入れた。
「コイツは、玉真珠。アタシよりちょっと歳上なんだけど、ぼやっとしてるから、単にお玉って呼んでる」
玉真珠と呼ばれた、音の主は、ぽやぽやとした雰囲気の美少女だった。
玉真珠は、外国でも珍しいような銀髪で、着ているものも昼間の幻か、幽霊のように白い。どこもかしこも、フリルとレェスの飾りが着いた白いワンピースに、見えないくらい透明な糸で、小さい真珠光沢の玉が縫い付けられている。
まるで、亡霊か白昼夢の少女だ。
「旦那様が、この子の着るものが用意できるまで、
私のを貸してあげなさいって」
玉真珠は、妖精のようなほわほわとした声でそう言いながら、手に持っていたものを差し出した。
「どれどれ、そいつぁ、有難い」
和金が、大袈裟に言いながら、玉真珠の持ってきたものを、全部揃っているか、確かめるように検分した。
「アンタ、せっかく立派な服を持ってきても、下に履く下着が無かったら、意味無いでしょ」
和金が中指で、玉真珠の額をぴんと弾いた。
「あれ……ごめん、ちゃんと確かめたはずなんだけど。今持ってくるね」
玉真珠が慌てて振り返った時に、思い切り壁にぶつかった。
玉真珠は、少しの間だけ手で顔を抑えて、痛みが引くと、大急ぎで引き返して行った。
「まったく……」
和金は、注意散漫な幼い妹を、眺める姉のような目付きで、玉真珠の後ろ姿を見つめた。
「アイツはさ、アタシの一つ上なんだけど、あんな風にどこかぼんやりしてるっていうか、抜けてるんだよね」
「……元の家で、かなり酷い扱いを受けていたらしい。食べるもんも満足なもんを出されずに、いつでも殴られたり、罵られたりしたんだって、旦那様が言ってた」
「だからさ、少しぐらいさっきみたいな間抜けをやらかしても、許してやってよ。これでも、この屋敷に来てから少しずつ人間らしくなってきたんだよ。最初の頃は、本当に生き人形みたいな感じだったんだ」
少女は、これには頷くだけだった。
和金は、ドアの向こうからパタパタと走ってくる足音を聞いて、口を閉じた。
その駆けてくる、足音が急に止んだと思ったら、今度は何かに、盛大にぶつかった音がした。
和金はしょうがないな、というように、ため息を漏らした。
玉真珠は、今度は額を手で抑えながら、浴室の中までやってきた。
和金に確認してもらうように、荷物を差し出すと
「あ、そうだ。和金、黒出目さんの事は言ったの?」
と言った。
「あぁ、そうだったすっかり忘れてた」
和金は、この私が忘れるとは、というように頭を搔いた。
「旦那様の一番近くにいた、黒い女の人には気づいた?」
少女は、こくりと頷いた。
「あの人が、黒出目さん。旦那様の側付きみたいな事もやってるけど、書類仕事とかもこなしてる。なんでも出来る人だ。旦那様にお話したい事があるなら、前もって黒出目さんに知らせる必要がある」
「なんで見えてるかは分からないけど、前聞いたら旦那様の不思議な術がかかった指輪のおかげで、目がなくても大丈夫なんだって言ってたよ。多分冗談だと思うけど」
そう言いながら、和金は玉真珠が持ってきたものを、今度こそ欠けているものがないか、と確認する。
「なんか、前のことは、はっきり分からないけど、見世物小屋にいたんだって、ことだけは聞いた。」
そこまで和金が言ったところで、玉真珠は用を為したのか、とほっとした顔で浴室を出ていった。
「うん、これでとりあえず全員の紹介はしたね」
「一気に全員覚えるなんて無理だろうけど、一緒に暮らすうちにだんだんと覚えるよ」
和金は、浴室の棚から大きいタオルを取り出して、少女の前で広げた。
「さぁ、もう上がりな。アタシの長話で、蛸みたいに、真っ赤に茹で上がってないといいけど」
和金は、悪戯っぽく笑った。
少女が和金から受け取った大きいタオルで体を拭いている間に、和金は小さいタオルで少女の髪を拭いてくれた。
その時に、少女は思い切って和金に聞いた。
「ねェ、和金はどうして旦那様に拾われたの?」
和金は、その声で髪を拭く動作を止めた。
嫌な話題だったのだろうか、と少女が瞬時に思ったが、
「アタシの親はさ、ろくでなしだったんだよ。」
和金は、もう一度髪を拭きながら、答えた。
「でも、玉真珠ほど酷い親って訳じゃなかった。愛ってやつが無かったんだろうさ。アタシは、いないも同然に扱われてね」
「でも、そうやって手前のことは手前でできるようになってても、食べ物は出てこないから盗みをやってたんだ。そこを旦那様に見つかって、ここの屋敷に来たってわけ」
それまで聞いて、少女はすまなさそうに頭を下げて、謝った。
「ごめんなさい。辛いことを聞いてしまって」
「いいんだよ、アタシの境遇が辛いなんて言ったら、他の姐さんから、バチが当たっちまう。」
「それにね、ここに来てからは、まるで天国みたいだよ、寝床もちゃんとしたもので暖かいし、出てくる食べ物は、どれも美味しいし、旦那様に言えばどんな着物も揃えてもらえる。」
「さ、もう髪はだいたい乾いたね。手拭いで拭いたあとは、ドライヤァっていう風を吹かせる機械で乾かすんだけど、あんた腰を抜かしちゃダメだよ」
湯から上がった少女は、玉真珠が持ってきてくれた新しい下着と服を着た。
和金が、濡れた下着を変えてくると言うので、浴室の出口で待った。
途中、廊下の向こうから、下着姿で出歩くなんて、なんてみっともない、という土佐錦の大声が響いてきて、大慌てて和金が部屋に駆け込む音も聞こえた。
乾いた髪に新しい服を着た少女は、また和金に、同じ大広間へと連れられた。
旦那様は、さっきと違う、シャツに黒いベスト、黒くぴっちりとしたスラックスという出で立ちで、少女を待っていた。
「では、まず説明しようか。」
旦那様は、少女の目の中を見つめて、話し出した。
「私は、拾った女を人に売るという商売をしている。」
「それだけ言うと、聞こえが悪いだろうが、淫らな行為のために売っている訳では無い。確かに、売るのは女ばかりであるから、男の顧客の方が多いのだが、買う方は男ばかりでもない。子供がいない老夫婦に、養子として娘を売る事などもある」
少女は、黙って話に聞き入った。
「売る方は、身分もちゃんとしていて、信頼できる人にしか、私は商品を渡さない」
「まぁ、中にはうちの商品を騙って、道端で女達に目隠しをして、商いをしている半端者もいるが……」
「君は、商品として私のものになるか、それともこの屋敷で暮らしたいのなら、そう出来るように取り計ろう。学校に行きたいのなら、そうしてもいい」
「もし、幸せな家庭で暮したいのなら、知り合いの夫婦に預けて、世話をしてもらうことも出来る」
「拾われた事を恩義に感じて、無理に承諾する事は全くない。君の正直な気持ちを聞かせてくれ」
少女の答えは、決まっていた。
「旦那様のお好きなようにしてください。こんな私を拾って助けてくれたのは、旦那様だけしか、おりません。だから、私はどうなっても旦那様の言う通りに、振る舞います」
少女は、はっきりとそう言った。
その答えを受け取った旦那様は、少し困ったように笑い、そうかい、と言った。
「どっちにしろ暫くは、この屋敷に居なければならないからね。じゃあ、お前の名前は、水泡眼にしよう。」
少女は、和金や他の女達のように、一礼をした。
「でももし、心変わりをしたら、いつでも言ってくれていいんだよ。」
旦那様のその一言で、この人は本当に暖かい心の持ち主なんだ、と生まれたばかりの、水泡眼は思った。
そうして、私はこの人に一生ついていく。
この人に救われた私の時間分、
一生をかけてでも、この御恩を返すのだ、と。