裏と表、神と紙。

ここに究極太極図があるとしよう。その中央線の右が表であり、左側が裏と仮定する、これは時計回りに回転しているとし、ちょうど黒い勾玉の白い点と、白い勾玉の黒い点が裏と表の境に来たとき、寂滅と誕生が同時に起きる、と推測する。


白い点を霊の神とし、黒い点を虚の神としよう。そして白い勾玉は黒い勾玉の白い点と共有、黒い勾玉は白い勾玉の黒い点と共有、つまりリンクしていると仮定する。白い勾玉が表に出ているときは白い点、つまり霊の神が舞台裏で操作できるとし、その逆もまたしかりとする。あるいは、虚は霊界に作用し、霊は顕界(物質世界)に作用するといってもいい。この交代が起きるとき、この世になにかが起きるのではないか?という一種の希望的観測である。


江本雨薙が思うに、神とは紙である。形は楕円でもスクエアでもなんもいいのであるが、その神(紙)に書かれた紙の中の文章、言葉、絵が、宇宙や地球や人々であるとしたら、当然その紙からは出られないはずである。精神世界で言われる神の中からは出られないとは、そういうことなのかもしれない。


しかし、穴空き目から見たものは、黒い世界であった。だが、感覚でない感覚が感じられたのである。そのときは意識はなかった。しかし、寒さ、風、静寂、優しい光、白い点、などがあった。それがおかしいことに、動いているように見えて、その象形は動いていなかったのである。


あのとき見た(見てない)あれこそが、裏ではなかったのかと憶測する。ようするになにが言いたいのかというと、神(紙(世界)は一枚だけではないのかと思った次第なのである。


そこで考えるのは、例としてコピー用紙一枚があったとする。それを宇宙(神)だとしよう。その下に大きく黒い台紙(大神)があったとするなら、それだけでなく、他にも紙があったとするならば、と考えると、この世界や宇宙の構造がいくらわかったとしても、外はわかるまい。なぜなら、わたしたちは神の中に書かれたキャラクターにすぎないのだから。


あるとすれば、その一枚のコピー用紙の神そのものの意識がその神(紙)の外側にあって、他の神と交流をする、とかであろう。もはや人型であるかどうかもわからないが、それは神型と言えるものなのだろう。


キリスト教の神の概念においては、神は有と無を越えた先にあるという。一方で仏教、特に無門関において、有と無を超越した先にあるものを、絶対無と言うらしい。


あの真っ黒な世界は、意識が戻ってから、ものすごく綺麗な、そう、それはまるで地面に倒れて、夜空を見ているかのような絶景だということに気がついたのは、そう遅くはなかった。


考えるに、物質世界は有の有、霊界は有の無、裏の世界は無の無と推定したい。


――しかし、現状では、人々があの裏の世界に行くという手立てはないのかもしれない。そも、存在が存在として存在できるのかも疑問である。


信じるか信じないかは、あなた次第😉

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