【一粒の思考】東京オリンピックの反省②:人件費を抑制して余裕を失った
第1回記事に引き続き、東京2020組織委員会の職員として働いた私個人の視点から、東京オリンピックの反省点を書いています。
第2回目の投稿は、東京オリンピック・パラリンピックのお金の使い道についてです。
すでにいろいろなところで「無駄遣い」を指摘されていますし、これからもっと細かく検証しなければならないと思います。検証のための資料はきちんと残し、廃棄されるようなことはあってはなりません。私もそのように声を上げ続けています。
本稿では、少し違う視点から考えてみたいと思います。競技団体という外部から、そして組織委員会職員として内部から、5年にわたって私が見ていて感じたことで、単純に数字に表れてこない感想です。
大会運営の支出は大幅に切り詰めた
大会の支出を大きく2つに分けると、ハード関係(競技会場の整備)とソフト関係(競技大会の運営)に分けることができます。大会のために新たに建設した競技会場の建設費用などはハード関係の支出です。他方で、大会を運営するための輸送、広報、食事、医療、セキュリティなど、様々なオペレーション費用はソフト関係支出です。
組織委員会は、過去5年間、コスト削減の努力をしていました。巨額の支出を容認していたわけではありません。スポンサー収入など、得られる収入の範囲内で大会を運営しようと努力しました。
きっかけは、2016年7月の小池都知事の「一兆、二兆、三兆、お豆腐屋じゃありません」発言です。組織委員会が、コスト削減に向けて動きだした転換点となりました(参考記事)。予算規模の膨張に対して一気にブレーキを踏んだ感がありました。
ただ惜しいのは、大幅な見直しに着手したものの、すでに大半の競技会場の整備が決まった後だったので、ハード関係支出を削減するには至らなかったことです。
他方で、ソフト関係支出の総額は、2016年12月時点の予算の8200億円から、コロナ前の2019年12月時点の予算では6160億円となり、25%減少しています。大会運営のためのソフト関係支出をコロナ前に25%も切り詰めつつあったことは特筆に値します。
ただ、その後にコロナによって追加の運営費用が発生し、2020年12月時点の予算でソフト関係支出は7310億円であり、2016年比で11%の減少となりました。
コスト削減の代わりに失ったもの
本稿で私が指摘したいのは、過去5年間で、大会運営の支出を削減しように努力したことの評価ではありません。その努力の「しわ寄せ」がどこに行ったのかです。
私は、運営費用の切り詰めは、究極的には「人件費の抑制」だったと考えます。
大会の規模を縮小せずに、大会運営のコストを切り詰めるということは、人件費を抑制するしかありません。委託費という名目の削減であっても、それは委託先のスタッフの人件費の抑制に跳ね返ります。もちろん、調達する資材の個数を減らしたりした部分もあります。しかし、大会の規模が25%縮小しないのに、支出を25%も削減できるとしたら、それは資材の調達費用の削減だけでは不可能です。
ロジスティックスとは人が動くことであり、オペレーション費用とは内実は人件費なのです。
では、組織委員会は、どうやって人件費を抑制したのか。もちろん、職員の給料の一律カットとかはできません。
それは、「人を増やさないこと」です。一般企業には真似できない手法で、組織委員会の特殊性はここにあります。
組織委員会は、2014年の発足時には数十名の職員で始まり、大会本番を8000名の職員で迎える計画でした。8000名という数字は、過去のロンドン大会(2012年)やリオデジャネイロ大会(2016年)を参考にしているので、それなりに根拠がある数字です。西新宿から虎ノ門、晴海へとオフィスを移しながら、6年半で職員数が200倍に成長する予定でした。
大会の準備には、計画があり、計画に沿って着実に進める必要があります。人員も着実に採用し、増やさなければ追いつきません。
2016年以降の5年間でやったことは、職員の雇用(増員)を遅らせることと、委託先への発注を遅らせることと、物品の調達を遅らせることでした。計画を後ろ倒しにすることで、人件費も、委託費(すなわち委託先の人件費)も、調達品の管理費も削減でき、結果としてコスト削減に大きく寄与しました。
もともと200倍に増える予定のものを、増加のペースを抑制することによって人件費の支出総額を抑えたように思います。これは、公開されている数字からはなかなか見えないのですが。
また、コロナによる1年延期もあって、コロナ感染対策などのために、職員の業務量は確実に増えました。それに見合うだけの人件費の増加も抑制されたと感じます。
職員(スタッフ)の心の「余裕」を失った
これによって犠牲になったのは、組織委員会の現場の職員(スタッフ)です。いつまで待っても補充されない人員(結局7000名程度で本番を迎え、人員計画は達成されませんでした)、準備が後ろ倒しとなって短期集中になることのストレス、ひとつひとつは小さいかもしれませんが、組織全体としては「余裕」を失いました。
職員(スタッフ)たちは、近視眼的に、自分の担当業務にのみ執着せざるを得なくなり、イノベーティブなことやクリエイティブなことを考える余裕や、自分の業務をオリンピズムにアラインさせる余裕も失いました。
例えば、大量の弁当廃棄の問題も、「弁当の調達」に手いっぱいで、そこから生じる廃棄ロス(余剰)の問題にまで手が回りきらなかったことから生じたのであり、これも業務の「余裕」の無さの表れです。
そのほかにも、杜撰な勤怠管理で給与計算ができなくて給与支払遅延が発生したり、輸送システムや予約システムが崩壊したり、現場での様々な阿鼻叫喚があったのですが、ほとんど表に出ていません。心の「余裕」がない中で、猛烈な世論の逆風の中で、職員(スタッフ)たちは疲弊していました。
戦場の最前線で、待ち続けても補給が届かない兵士の心境でした。
ハード投資からソフト投資への転換を
東京オリンピックがコスト削減と安全運転を重視し、「日本らしい、大人たちが仕切ったイベント」になってしまったのは、会場整備(ハード)にお金を使い、競技運営(ソフト)にお金を使わなかったからだと思うのです。
言い古されていることですが、ハード投資からソフト投資への転換を。
ソフト(人)を犠牲にしてハード(施設)を支える構造を、これからの万博(2025年)やアジア大会(2026年)を含む全てのイベントで変えていきませんか。