孤独の吸血姫:~第三幕~醒める夢 Chapter.6
ロンドン塔敷地内には幾つかの城搭が聳えている。
双色の吸血姫が連れられた場所は、その内の一つ〝ブラッディ・タワー〟であった。
「ずいぶんとカビ臭い場所だな」
カリナの毒突きを拾い、カーミラが簡潔な説明を挟む。
「この塔は、かつて拷問処刑場でもあったの。故に現在でも、多くの拷問器具が眠っている。闇暦現在では利用されてないけれどね」
「ィェッヘッヘッ……そいつは、どうかねぇ? ま、お楽しみって事で……おおっと、此処だ此処だ」
ようやく目的の部屋へと到着し、卑しい案内人は軋み鳴く扉を開いた。
「こ……これは!」
あまりの惨状に言葉を失う吸血姫達!
霊気と冷気が滞る蒼い石室──時代の眠りから再利用された痕跡を赤々と刻む拷問器具の数々──そして、処狭しと散乱する死体の山!
子供! 子供! 子供! 子供! 子供!
吸血鬼ですら噎せるかと思える血腥さが部屋中に充満していた!
「これは……まさか、ジル・ド・レ卿が?」
思い当たる吸血騎士の性癖に、カーミラは絶句した!
「ま、そういう事らしいな。いつから再発したかは知らねぇが……おっと、コイツだコイツ」
室内を慣れて探る死神が一人の子供の前で止まる。
見覚えのある少年であった!
「この子は……っ!」
驚愕するカーミラ!
居住区で出会った少年だ!
「何故、この子が此処に?」
「ィェッヘッヘッ……浚ったのは〝魔女ドロテア〟さ」
「まさか、ジル・ド・レ卿と魔女は通じていたの?」
「いんや? あのショタコン騎士と魔女は通じてねぇよ。けど、まあ〈魔女〉とは通じてねぇが〈魔術師〉とは通じていたってトコかねえ? ィェッヘッヘッ」
ゲデの示唆は意味が判らない。
判らないが……少年を守れなかったという後悔の念だけは、獄刑のように彼女達を痛ぶった。
この少年だけではない。惨たらしい部屋で弄ばれた幼き命──その全てに対する懺悔だ。
虫の息で喘ぎながら少年の瞳は縋っていた。
自責に拘束されたカーミラを余所に、カリナが少年の脇へと歩み寄る。
「何が言いたい?」
片膝着きに覗き込み、優しい瞳で訊ねた。
「ゼェ……があ……ちゃ……」
言葉を紡げぬもどかしさに幼い腕が伸びる。体を動かす事など叶わないというのに……。
懸命に訴えようと震える手を、黒姫の両手が柔らかく包み込んだ。
「心配するな、オマエの母は無事だ」
苦しみ喘ぐ少年の顔が安堵を覚える。
母親が死んでいるか生きているか──真実は知らない。
それでもカリナは、そう告げた。
「オイ……ラ……どうじで……ごんな……?」
「……私の強さは知っているな?」
「う……ん」
「なら、安心して待っていろ。吸血鬼如き、敵ではない」
「……うん」
苦しそうに、嬉しそうに、命が微笑んだ。
慣れた母性が優しく撫でる。
直後、少年が吐血に咳込んだ。
最期は近い──だからこそ、カリナは呈する。
「ひとつだけ選ばせてやる……私と共に生きるか?」
「ぎゅ……げづぎ?」
「ああ」
事の成り行きをカーミラは黙して見守る。
その確固たる眼差しは、この後の展開を信じているかのようであった。
「どうする? 私と共に来れば、そんな苦しみからは永遠に解放されるぞ?」
されども、少年は困ったように首を振る。
「ううん……があちゃ……の……子……いい……」
「……そうか」
黒の吸血姫は慈愛に微笑んだ。
予想通りの返事であった。
望んだ答えであった。
少年の瞼をそっと綴じると、凛然とした所作にカリナは立ち上がる。
厳かに引き抜いた紅き刃が小さな胸へと切っ先を定めた。
「私を信じろ。痛みなど無い」
そして、魔剣は墓標となり、幼い命を生き地獄から解放した。
約束通り、一瞬たりとも痛みなど与えずに……。
暗い静寂──。
またひとつ命が逝った。
たった数時間で、尊き魂が続けて逝った。
重い現実だ。
「さて……と、じゃあ約束通り教えてやるかね。お嬢の過去を──」
頃合いを見計らい、ゲデが切り出す。
「アンタはカルンスタイン令嬢が言う通り〈ジェラルダインの血統〉だ……って、それはいいか。聞きてぇのは、そっから先だろうからよ。ま、百聞は一見にしかずってな。直接見た方が早ぇ。オレの手間も省ける」
「直接見る? どうやって?」
怪訝を浮かべるカーミラに、酒瓶呷りの優越が答える。
「霊視を共有してやるって話よ。コイツもまた、出血大サービスだ……ィェッヘッヘッ」
そして、ゲデの卑しい目は目映くも毒々しい赤光を垂れ放ち、吸血姫達を悪夢へと呑み込んだ。
旧暦中世、イギリス・ウェールズ地方に存在したしがない田舎村──。
風そよぐ小高い丘にカリナ達は降り立った。
空は清々しいほど青く、萌える草花は健全な生を息吹いている。足下の緑が風に撫でられる度に、仄かに甘い香りが鼻腔を擽った。ラベンダーの香りだ。見渡せば遠景に山々が見え、丘陵を越えた先には質素な集落が日常を営んでいた。
「なんだか懐かしいわね、この正常な光景は……」
周囲の情景を展望したカーミラが、しみじみと懐古に浸る。
「どうやら村の外れか」
呟いたカリナは奇妙な違和感を覚えた。
己の両手を視認し、更に全身を眺め回す。
まるで幽霊のように自分自身が透けていた。
いや、彼女だけではない。カーミラも、ゲデも──全員が霊体化しているではないか。
「幽体化した覚えはないが……」
途惑いを察知した案内役が、安い優越感で教示する。
「現状のオレ達は〝時空を越えた意識体〟そのものだ。ただ眼前の出来事を鑑賞するだけ……どう逆立ちしても史実に介入できないようになってるのさ。つまりは〝時空の摂理〟ってヤツだ。ま、アチラさんもコチラを見る事が出来ねぇがな……おおっと、来た来た」
急に身構えるゲデの注視を追った。
一人の娘が丘を登って来るのが見える。
純白ドレスに、花摘みのバスケットケース。赤い髪はツインテールに纏められていた
その少女を見るなり、吸血姫達に衝撃が走る!
とりわけ、カリナの驚愕は殊更に強い!
「アレは……私?」
「この村の領主〝アンカース家〟の娘──それが生前のアンタだよ」
「なるほどな。だから、キサマは〝お嬢〟と呼ぶ……か」
「まあな」
「に、しても──」過去の〝自分〟を、まじまじと観察する。「──まるで真逆だな。実感が涌かん」
自嘲に苦笑う。
どちらかと言えば、カーミラ寄りのお嬢様だ。
血腥い生き方に身を投じる自分と同一人物には思えない。世間知らずが滲み出た雰囲気は、むしろイケ好かないぐらいだ。
花摘みに座るアンカース令嬢が、ふと背後へと気を取られる。誰かを待っているかのようだ。
小さな人影が、せっせと駈けて来た。
その姿を視認した瞬間、カリナは絶句に固まる!
「まさか……レマリア?」
絞り出した声が震えていた。
懐かしさと、寂しさと、愛しさと、哀しみ──鎮静化していた総ての感情が息を吹き返す。
「レマリアーーーーッ!」
思わず駆け出していた!
感情に支配されるままに!
ただ愛しさのままに!
「ああっと! 待てよ、お嬢!」
制止の声など知った事ではない!
歴史の改変が、どうした!
あの温もりと安らぎが再び得られるなら、時空神にさえ唾を吐こう!
駈けて来る我が子を片膝着きに待ち、抱擁せんと両腕を広げた。
「此処だ! 私は此処にいるぞ、レマリア!」
されど屈託のない笑顔は、待ち詫びる母性を擦り抜けていく。
「もう! わたし、まってっていったのよ!」
満面の笑顔で幼女が抱きついたのは〝忌まわしき吸血姫〟ではなく、清廉貞淑な〝アンカース令嬢〟であった。
「おねえちゃん、ズルい! わたし、こどもなのよ! おそいんですからねーだ!」
「うふふ、ごめんなさいね。さあ、膨れてないでこっちへいらっしゃいな。ダリヤやラベンダーが一杯よ?」
「わあ、ほんとなの! これ〝おはなばたけ〟なのよ?」
「そうよ? 綺麗でしょう」
「うん、きえいね」
噛み締める虚無感には、背後から聞こえる微笑ましい戯れが残酷だった。あまりにも残酷過ぎた。
現実の無情を突きつけられた黒外套を、ゲデが嘲笑う。
「ィェッヘッヘッ……だから言ったじゃねぇかよ? オレ達ァ〝時空を越えた意識体〟そのもの。過去には介入できねぇんだよ」
「……分かっている」
「意識体が抱擁しようなんざ笑っちまわぁ。況してや相手は過去の史実に過ぎねぇ。金縛りにすら出来ねぇよ」
「分かっていると言っている!」
癇癪のままに吠えた!
さぞかし失意に沈んでいる事だろう──卑しい下衆根性は、それを期待してほくそ笑む。
しかし、立ち上がった美姫は、意外にも気丈を保っていた。
「そうか……あの子供が〈レマリア〉の前身か」
「ありゃ? 思ったよりも平然としてやがらぁ」
「意のままにならぬ現実など、とっくに受け入れている」
「クソッタレなタフさな事で」
正直、カリナにしても平気なわけではない。
傷心は癒えてなどいなかった。
むしろ一生拭えぬ。
それでも、受け止めるだけの強さを学んだ──いや、ふたつの尊き命によって授けられた。
後は〈現実〉に呑まれるか否か……それだけの話だ。
無論、言うほど簡単ではないが。
「……あの二人、姉妹なのか?」
「ああ、あのチビスケはアンカース令嬢の妹──つまり〝生前のアンタ〟の妹さ」
「……そうか」
実感を伴わない思い出を眺め続けた。
心を満たしてくるのが〝嬉しさ〟なのか〝寂しさ〟なのかは、彼女自身にも判らない。
月明かりがテラスから射し込む。
穏やかな気候だ。寝苦しさは無い。
にも拘わらず、アンカース令嬢は寝汗に蝕まれ苦しんでいた。ネグリジェを乱し、苦悶に喘ぎ続ける。
「ぅぅ……ぁぁ……ハァ……やめ……て」
艶めかしく悩ましい様は、まるで夢魔の夜這いに遭っているかのようであった。
その辱めを、カリナ達はベッドの傍に佇んで眺めた。
「……どういう事?」
「それはどちらの意味だ、カーミラ?」
「どちらも……よ、カリナ。わたし達はさっきまで花香る丘陵に居た。けれど、気がつけば此処にいる──時間帯も変わってね。それに……」苦しみ悶え続ける寝姿を心配そうに見つめる。「生前の貴女、とても苦しそう。この苦しみ方、ただの〝悪夢〟じゃなくってよ?」
「ああ、微弱ながら魔力を感じる。残り香にも近いものだがな」
彼女達〈吸血鬼〉が吸血行為に通う際、似たような事象を獲物へと課す事がある。相手に催眠効果を及ぼし、夢幻の中で貪るのだ。常套手段のひとつだ。
眼前の痴態は、それと同じ臭いがした。
「さて……と、まずは軽く説明してやるかねぇ?」
耳障りな濁声が、揚々と解説を名乗り出る。
「まずは〝時間と場所の推移〟だが、コイツは自然と生じるのさ。時間軸は〝生前のお嬢〟で、観察対象は〝吸血姫へと変貌した経緯〟だ。それを基準として眺めているわけだから、関係事象だけをピックアップして過ぎていくって寸法さな。そうでもなきゃ、一生分の時間経過を付き合わなきゃならねえ。クソ長ぇ駄作映画の垂れ流しみてぇなモンだ。とてもじゃねぇが、オレでさえ御免だね」
実体無き葉巻を深く吐いた。
「で、お嬢を気持ちよ~く悶えさせている──」カリナの殺気を感じ、愉しげに言い直す。「──苦しめている〝悪夢〟だが、いまは野暮に語らねぇよ。それこそが今回の〝肝〟だしな。ただし、相手はチンケな〈夢魔〉なんかじゃねぇ。それだけは教えといてやらぁ」
「ハァ……ぃゃ……ぃゃ……」
「この現象は毎夜続き、日毎に強くなっている。今晩で五日目辺りかねぇ?」
「ぅぁぁぁあああーーーーっ!」
突然、アンカース嬢が絶叫に反り跳ねた!
それは絶頂にも悲痛にも似た叫び!
呼応するように、吸血姫達は真っ赤な波動を感じる!
カーミラは身に覚えがあった。
魔剣を手にした時の荒れ狂う波動だ。
ただし圧迫感は、あの時の比ではない。
「こ……この波動は?」
「まさか〝ジェラルダイン〟か?」
「イヤ……イヤァァァアアーーーーッ!」
悪夢の餌食が激しく乱れ苦しむ!
と、赤き圧迫が次第に鎮まっていった。
汗塗れに紅潮したアンカース嬢は、荒息ながらに軽く痙攣している。
「ィェッヘッヘッ……果ててやんの」
「……殺すぞ、キサマ」
いつもよりも気色悪く感じるニタリ顔を、カリナが殺気任せに睨めつけた。
「けれど、これでハッキリしたわね。生前の貴女を魅入っていたのは──」
「──ああ、間違いなく〝ジェラルダイン〟だ」
カーミラの演繹を、カリナが忌々しげに噛む。
ややあって、アンカース令嬢が起き上がった。
その表情に自我は窺えず、虚ろな瞳は仄かに赤く灯っている。
「やはり〝催眠効果〟を植え付けたかよ」
「いいえ、カリナ。どちらかと言えば、これは〝遠隔支配〟だわ。何故なら〝ジェラルダイン〟自身は訪れていないのですからね」
「さすがは〈原初吸血姫〉だ。たいした〈怪物〉だよ」
皮肉を吐き、柘榴を齧った。
アンカース令嬢が虚脱的に滑り出たのは、夜風吹き抜けるテラス。
「いよいよ迎えに来るのかしら?」
「オマエなら、そんな面倒を敷くか?」
カリナの指摘に、カーミラは苦笑いで首を振る。
「いいえ、あそこまで操れるなら、呼ぶわね」
観察対象が芝庭へと跳んだ!
まるで猫のように、しなやかな身のこなしで!
二階の高さから物音一つ立てずに!
「あら、この頃から体術に覚えがあって?」
「……なワケあるかよ。どう見ても、アレは運動音痴な箱庭飼いだ」過去の自分を誹謗するのは、なんとも奇妙な感覚だ。「遠隔支配で身体能力までコントロールしてやがる。まさに〈怪物〉だな」
思わず腰の魔剣へと警戒心を向けていた。
白い夢遊病が辿り着いたのは、閑散とした石造りの間であった。奥には祭壇のような角石が祭られており、一振りの剣が気高く突き刺さっている。
魔剣〈ジェラルダインの牙〉だ。
その前まで進むと、アンカース嬢は崩れ落ちた。
様子を見る意識体が気配すら生まずに会話する。
「おい、ゲデ……此処は何だ」
「此処は〝ジェラルダインの墓〟だな」
「……何?」
「人も寄りつかねぇ墓地裏の雑木林──そこには見つけにくい祠があってな。ま、或いは魔力で見つからねぇようにしてるのかもしれねぇが……ともかく、その中だ」
「じゃあ〝ジェラルダイン〟は、この村で最期を?」
食いついてきたカーミラを一瞥すると、葉巻蒸かしの物臭が答える。
「さあねぇ? 或いは此処で一度死んで、また復活した可能性はあるが……相手は〈伝説上の怪物〉だ。オレ等とは存在自体が格違い。その真相詳細なんか把握出来ねぇよ。何にせよ、此処に〝ジェラルダインの想い〟が強く遺されているのは事実だがな」
アンカース嬢が朦朧とする意識を起こした。
眼前に構える剣を認識した途端、その表情が強ばる。
「アナタなのね……毎晩、私を苦しめているのは!」
わなわなと抗議の声音を震わせているのが、怒りか恐怖かは定かにない。
「何故? 何故、私を苦しめるの? アナタとは会った事すら無いというのに!」
傍目に不可解な状況であった。
彼女の反発は魔剣へと向けられたものではある。
しかしながら、その口調や態度は明らかに〝物〟へと向けられたものではない。目の前に居る〝何者か〟へと向けられたものだ。
「どういう事かしら?」
「おそらく見えているのさ。いや、見えるようにされているのかもな」
「それって〝ジェラルダイン〟の魂?」
「或いは魔剣に巣食う残留思念だ。どちらにせよ〝選ばれた〟って事さ……クソ忌々しいがな」
哀れな贄の抵抗が続く。
「なんでよ! なんで毎晩『血を吸え』と強いるの! そんな異常で恐ろしい事を、私にさせようとするの!」
愁訴が涙を含んでいた。表情も感極まりつつある。
「アナタは恐ろしい精神異常者よ! そして、私にも一線を越えさせようとしている! 悪い仲間に引き込もうとしている!」
必死な無力を眺め、黒の実力者が零した。
「どうやら相手を〈吸血姫〉とまでは認識していないようだ。まだ〈人間の異常癖性者〉だと勘違いしてやがる」
我ながら馬鹿らしい白痴さだ。情けなくて笑えてくる。
「私は狂ってなんかいない! 血を飲みたいなんて思ってない!」
一心不乱に頭を振って、否定し続けた。
それが何にもならぬ事を〝カリナ・ノヴェール〟は知っている。
「血液嗜好症は無かったのかしら? 強引に〝ジェラルダイン〟から植え付けられた?」
「いや、潜在的に有ったはずだ──何せ〈血統の覚醒〉だからな。さもなくば、魂の共鳴など起きん。その現実を直視出来ず、駄々に拒絶しているだけさ」
とはいえ、それは〈人〉で在り続けるには大事な線だ。
屈した者こそ〈外道〉へと堕落する。
「もう、やめてよ! 父様も、母様も、村の人達も……そして、レマリアさえ──大事な人が、みんな美味しそうに見えるの! その肌の下に熱く赤い物が流れていると思うと、食らいつきたくなるほど渇くのよ!」
アンカース嬢は蹲まり、苦しみの吐露に啜り泣いた。
「それを理性で組み敷くのが、どれほど苦しい事か! アナタに分かって? 猟奇を美徳とするアナタに〈人間〉であろうとする心が理解出来て?」
魔剣は黙したまま語らない。
が、傍観する魔姫達は意思意向を感じる事が出来た。
「……次だな」
カリナが確信を呟いた直後、それは現実の展開となる。
「い……いや!」
アンカース嬢の身体が、本人の意思とは関係無く動かされ始めた。
「これって、まさか強制支配を?」
「ああ、遠隔支配の延長だろう。まったく……強引な手に出てくれる」
魔剣が強いたにせよ〈原初吸血姫〉が強いたにせよ、己が〈吸血姫〉と化す瞬間を見るのは気分がいいものではない。
「いや……やめて……いやよ!」
理性を振り絞って抵抗するも、少女の細腕は不可視の剛腕で無理矢理動かされた。
「私は、アナタの〈娘〉なんかじゃない! 私は〝アンカース家〟の娘よ! 御父様と御母様の娘なのよ! 絶対に〈吸血姫〉になんかならない! なりたくない!」
クシャクシャに泣き崩れた顔で、それでも〈人間〉としての尊厳に縋り続ける。
されど、強大な〈魔〉の前では、小鳥の囀りに過ぎなかった。
震える手が着実に柄へと伸び、そして──。
「いやあぁぁぁーーーーっ!」
彼女は呪われし魔剣を引き抜いた。
血塗られた業と共に……。
夜風は穏やかだった。
窓から吹き込む風精霊が踊る度に、幼き寝顔は髪や頬を撫でられて笑う。
夢現で、いい匂いがした。
レマリアが大好きな人の匂いだ。
だから、ゆっくりと意識が覚める。
お姉ちゃんが胸へと沈めてくれていた。
髪を撫でる優しさは、いつからか風の戯れではなかったようだ。
「……ん、おねえちゃん?」
寝ぼけ眼で見た表情は、優しく、寂しく、何処か冷たい。
これから起こる事を確信しながらも、カリナは傍観するしかない。それが、とても歯痒かった。
「……ゲデ、いま一度訊う。過去は変えられぬのだな?」
「ああ、無理だね」
喜色に酒の小瓶を呷る。
「例外的な措置法も無いのか?」
「無いね」
「……そうか」
それ以上は抗わなかった。
覚悟を決めて直視するだけだ。
確定された哀しみを強く抱き締める。
堪え難い展開に心折れぬように。
「おねえちゃん、どうしたの?」
「どうもしないわ、レマリア」
魔性の成り掛けは、優しく髪を撫で続けた。
幼い妹は、未だ本性を見抜けていない。
軽く感じた違和感さえも、警戒心へ直結させる事が出来なかった。
「ねむねむできないの?」
「そうね。ちょっと眠れないの」
「イタいイタいなの?」
「ううん、もう苦しくないわ」
「うん?」
親指吸いにコテンと頭を委ねる。
姉は──姉だった者は、愛しさのままに細指を動かし続けた。時折、髪を梳いてやりつつ。
感情を浮かべぬ冷たい表情が、若干寂しそうな儚さを含んだ。けれども、それは仮面ではなかっただろう。
「ねえ、レマリア──」
「うん?」
「──大好きよ」
「わたしも、おねえちゃんだいすきなのよ?」
「……有り難う」
悲しみを微笑んだ。
「ずっと大好き……ずっとずっと一緒だからね」
「うん。ずっといっしょなの」
幼さが嬉しそうに染まる。
深く顔を埋めた愛を、幻夢はあやし続けた。
「さあ、もう眠りなさい……それまで、こうしていてあげるから」
「うん」
約束通り、幼き癒しが寝付くまで続けた。
穏やかな寝息が聞こえると、ようやく魔性が行動を起こす。
静かに──そして、ゆっくりと喉笛に牙を刺した。
起こさぬように──声を上げさせぬように──痛くないように──そして、恐怖を与えないように。
気品に愛された麗しき令嬢は、血を啜る卑しい獣畜生と堕ちた。
咥内が生温かさで満たされていく。鉄分の臭いが鼻を抜けていく。
愛しい生命を自分の中へと受け入れた瞬間、彼女の脳内で赤が弾けた。
それを契機に満たされぬ渇きが暴れ出す。
爛々と血走った目から零れ堕ちた涙は、彼女が哀しみに遺した〈人間〉の一滴であった。
旧暦中世──かつてウェールズ地方には、しがない田舎村が存在した。
一夜にして地図から消えた〈呪われし村〉だ。
紅蓮に染まる灼熱と、阿鼻叫喚を木霊させる殺戮の赤き刃──血に飢えた狂気の麗獣が、総てを根絶やしに終わらせた。
墓地裏に在る祠は発見される事も無く、錆びた鉄扉を硬く閉ざし続ける。
その奥深くで、魔性は眠りに就いた。
忌むべき牙を抱きかかえ、いつ目覚めるかも判らぬ眠りに……。
激情任せの虐殺を忘却したかった。
己の存在さえも消し去りたかった。
されど──。
「──レマリア」
愛しい存在だけは忘れたくない。
魂が疲れ果てた。
その心労が誘眠を植え付ける。
そして、彼女は石の如く眠った。
運命の目覚めまで──。
気がつけば、カリナ達は例の拷問場に居た。
状況が動いた形跡は無い。
現実時間は数秒しか経過していなかった……という事だろう。
「そう……そうだったの」
カーミラは独り納得する。
闇暦以前の記憶が無い──カリナの奇妙な経歴が、ようやく説明付いた。
同時に、彼女が〈レマリア〉という幻像を生み出し、狂気的固執を抱いていた理由も。
(けれど、彼女は〝同属化〟をしなかった──妹を始めとして、村人の誰一人として)
カーミラの慈しみを掻き消すように、下衆な死神が声高に雄弁を演じる。
「最愛の妹をテメェで殺めた罪悪感に堪えきれず、理性がブッ壊れた。コレが惨劇の幕開けだ。血に飢えた魔獣と堕ち、一晩で村を全滅させちまいやがった。家族も、村人達も、それこそ女子供も、一人残らずな。ま、それさえも魔剣の支配意志かもしれねぇが……さすがのオレ様も、そこまでは判らねぇ」
聞いているのかいないのか……カリナは無反応だ。
少年の亡骸へと黙祷を捧げるだけである。
「何にせよ、それからお嬢は永い眠りに就いた。忘却の眠りってトコか──ま、オレから言わせりゃ現実逃避だわな……ィェッヘッヘッ。ところが目覚めの時が訪れる。旧暦一九九九年七の月にな」
「それって〈終末の日〉で?」
「御名答さ、カルンスタイン令嬢。ダークエーテルが呼び起こしたのは〈デッド〉だけじゃなかったって事だ。夥しい負念を魔剣が吸い、お嬢の糧へと転じた。眠りながらにして、吸血行為に等しい魔力吸収が行われていったのさ。もっとも暫くは蓄えて眠るだけ……準備万端に目覚めるのは、闇暦年号が始まってからだ」
またひとつ、カーミラの疑問が氷解した。
(柘榴偏食ながらも、衰えを感じさせない魔力底値の高さ──それは魔剣の性質によるものだったのね。吸血行為を自粛するカリナにとって、魔剣は〈武器〉であり〈牙〉なんだわ。つまり敵を斬り捨てれば斬り捨てるほど、吸血行為に等しい糧が得られるという事……)
「斯くして最強最悪の〈怪物〉たる〝カリナ・ノヴェール〟の誕生でござ~いってな……どうよ? 御満足頂ける御伽話だったかい?」
沈思に浸るカリナへと、ゲデの値踏みが投げられる。今度こそ、さぞかし失望しているであろう──ゲデは内心ほくそ笑んでいた。
「三文役者、聞くに堪えん狂言は終わったか?」
期待を裏切り、カリナは平然と憎まれ口を返す。
目の前で眠る少年の顔を眺めていると、何故か〝レマリア〟が重なった。
見渡す限りの未熟な命──約束された未来を奪われた不条理。その哀れさを思うと、己の過去など些末にさえ思えた。
「生憎、もはや過去などに興味は無い」
「はあ? お嬢が説明しろって言うから、わざわざ──」
「結局、現在の私は〝カリナ・ノヴェール〟だという事だ。それよりも優先すべき事がある」
腹立たしさを噛むゲデ。
とはいえ、結局は折れるしかない。
癪だが、それが両者の力関係だ。
「チッ! 何だよ、優先すべき事ってのは?」
「この部屋で息絶えた子供達の無念──一人遺さず、私に伝えろ! 一人遺さずだ!」
激情露わに立ち上がり、孤高なる愛が吼えた!