孤独の吸血姫:~第三幕~醒める夢 Chapter.5
普段は不必要なほど静寂に祝福された大広間が、現在は殺伐とした決闘場へと一転していた!
黒が攻め、白が避わす!
白が攻め、黒が弾く!
カリナ・ノヴェールとカーミラ・カルンスタインの攻防は、拮抗した実力故に一進一退を刻み続けた!
「そうか……キサマか! キサマだな! キサマがレマリアを!」
少女城主を睨めつける目に沸々とした憎悪が宿る。
虚ろう魂が見定めた新たな獲物だ。
然れど、それは最大に手強い。
「いまにして思えば、最初からレマリアを狙っていたな! だからこそ、私の滞在を周到に約束させた! そうだろう!」
「とうとう〈レマリア〉は消えたのね」
「とぼけるな! 恥知らずの〈女吸血卑〉が!」
ついに来るべき瞬間を迎えた──それを覚悟したカーミラの表情は、儚げな悲哀を含んでいた。
(消す手間は省けた。後は、どう納得させるか)
カーミラの哀れみが自分へと向けられたものだと、カリナが悟れるはずもない。激情へと呑まれた現状の彼女には……。
「狡猾に友情を装い! まやかしの共感を抱かせ! 虎視眈々と舌なめずりをしていたのか!」
怒り任せに紅い弧を生む!
その軌跡は鋭利ながらも、相変わらず乱雑であった。
他の吸血鬼ならいざ知らず、カーミラに避けられぬ道理はない。
「……墜ちたわね、カリナ・ノヴェール」
「上から言うかよ! その高貴ぶった態度、常々気に食わなかったさ!」
紅い閃光と繰り出される突き!
白き外套がカーミラの円舞に併せ、敵意の牙を纏わり呑んだ!
自身が常套とする回避動作を真似され、カリナは癪を咬む。
「よくも、その動きをっ!」
「貴女だけの専売特許じゃなくってよ」
生んだ勢いを殺さぬまま、カーミラは回転の余力に舞った。
その遠心力を活かした反撃に、茨の双鞭が襲い伸びる!
眼寸前まで襲い迫る双蛇を、カリナは紙一重の後方跳びに退けた!
「所作が似ても当たり前。同じ〈血〉が、そうさせるのだから」
「何が〈血〉だ! 馬鹿にしてくれる!」
足裏が地面の感触を踏んだと同時に、カリナは屈伸態勢をバネと転化する!
「レマリアを返せぇぇぇーーーーっ!」
地を蹴る間合いに繰り出される突き!
勢いと全体重を乗せた渾身の一撃!
が、紅の切っ先は金髪を梳き貫いただけ。
標的と定めた憂いは残像が滑るかのように脇へと避けた。
紙一重で為す技量もまた、先刻のカリナ宜しくだ。
「また猿真似か!」
「言ったでしょう? 同じ〈血〉が、そうさせる……と」
「虚言に惑わすかよ!」
苛立ちを吼えつつも、せっかく得た好機は逃さない!
まだ剣の間合いだ!
そのまま刃を凪ぎ払い、虚を突いた斬撃を狙う!
「もらった!」
手応えを確信するもカリナが捕らえた像は霞!
刃が裂くと同時に、カーミラは白く霧散していた!
「チィ……霧化かよ!」
カーミラほどの技量ならば、交戦下で行使できて当然。
だがしかし、精神集中の行程すらも踏まえぬ対応の早さと魔力底値は、正直、予想を上回っていた。白外套による〈魔力増幅〉の効力も大きいのだろうが。
「何処から来る」
鋭敏な警戒心を鳴子と張り巡らせ、潜伏した気配を周囲に追い睨む。
霧と化した〈吸血鬼〉は、その場に存在しながらも存在しない。或いは、存在しないながらも存在する。見渡す空間そのものが〈潜伏する敵〉だ。
(とはいえ、霧化状態のままでは、アチラも手が出せまいよ)
物理攻撃へと転じるには再実体化の必要がある。
(双方が下手に動けぬ以上、襲撃時に実体化する気配を捕らえるしかない──一瞬の賭けではあるが)
瞼を綴じ、静寂に身を委ねた。
感覚を細く尖らせ、カリナは精神世界の闇へと浸る。
落ち弾ける滴の音……大気の流動……先刻の死に損ないが乱す息遣い…………総ての微音が索敵の邪魔であった。
黙想に立ち尽くすカリナは、一見には無防備だ。
しかし、秘めたる応戦意識に隙は無い。
大気拡散した霧──即ち〝カーミラ〟は、素直に感嘆を覚えていた。
(天賦ね。先程まで理不尽な激情に溺れながらも、局面では冷静な対応判断を下せるなんて)
荒んだ流浪に磨かれた〈戦士〉としての素養だろう。こればかりはカリナの優位性だ。自分では遠く及ばない。
(はてさて、何処から攻めたものかしら?)
おそらく安全且つ有利な方角など無いだろう。
霧は僅かながらにも勝算を考えて、獲物の周囲を漂い始めた。
足の腱を斬られたジョンには身動きすら叶わない。引きずる痛みを庇いつつ、その場で座り倒れるしかなかった。
「な……なんて戦いだ」無力な傍観に、驚嘆の息を呑んだ。改めて介入の余地が無い事を自覚する。正直、矛先の推移に命拾いした気持ちだ。「カーミラ様も、カリナ・ノヴェールも、桁外れた実力じゃないか! 完全に僕等とは格違いだ!」
「で、あろうな」
不意に聞こえた声に振り向く。
彼の背後に立っていたのは、真紅のロイヤルドレスの吸血妃──メアリー一世であった。気高き淑女は、険しい面持ちで戦いの成り行きを見守り続ける。
「貴女から見ても、やはり一線を画するのですか? メアリー?」
「次元が違い過ぎる」
観察視を動かす事もなく、メアリーは淡々と答えた。
その場に座り込むジョンは、斜め下よりメアリーを仰ぐ姿勢となっていた。そのアングルから窺う彼女の目鼻立ちは荘厳に美しい。元〝イングランド女王〟の肩書きは伊達ではない──ジョンは内心思った。彼女ならば〝吸血貴族〟という称号さえも、違和感無く受け入れられる……と。
「僕から見れば、貴女やジル・ド・レ卿だって相当なものですが」
「恐縮だが買い被り過ぎだな……ジル・ド・レ卿は、ともかくとして」
「そうでしょうか?」
認識不足の格下が漏らす甘さに、ようやくメアリーは一瞥を向けた。
「確かに、私の魔力底値は〈不死十字軍〉の中でも高い方であろうな。だが、活かすべき実戦技能が皆無だ。カーミラ様と、カリナ殿──そして、ジル卿には、その両側面が不備無く備わっている。いざ一対一の決闘とでもなれば、私など相手にならぬだろう」
結論を述べて、再び交戦へと見入る。
重みを持て余したジョンも、彼女に倣った。
「どう見ますか? 有利な方は……」
「判らぬな。純粋に戦闘技能ならば、カリナ殿に分があるが……現状は正気を欠いている。普段の冷静な判断力を発揮できていない」
「それは幸いだ。なら、カーミラ様が負けるはずがない」
「カーミラ様とて万全ではないぞ」
「え?」
「重傷を押しての応戦だ。先程、再生休眠を終えたばかりとはいえ、ダメージ完治には遠い」
「じゃあ、どちらも不利な条件を?」
「だから言っている……判らぬ、と」抱く不安を噛み殺して、メアリーは苦い見解を紡ぐ。「付け入るとすれば、カリナ殿が平常心を欠いている事だが……あのような対応力を見せられてはな。どうやら戦闘に関しては、従来の技量が心髄から滲み出るらしい」
「自我の損失に関係なく……ですか?」
「筋金入りの〈戦士〉という事だろう」
交わす言葉が尽き、二人は黙して見入った。
ややあって、ジョンは異なる疑問を訊ねる。
「あの……〈レマリア〉とは何ですか? いや、或いは〝誰〟なのかもしれませんが」
「何? 何故、そなたが〈それ〉を?」
「先程、カリナ・ノヴェールが襲い来る際に口にしました──『レマリアを殺したな?』と……それから『私のレマリアを返せ』とも」
「ふむ?」メアリーは居住区での一波乱を想起する。「生憎と、私も〈それ〉は判らぬ。名前だけは聞いた事があるが……」
介入を制された事柄ではあるが、そもそも真相すらメアリーは把握していない。
だが、カーミラは〈それ〉が〈何か〉を確信している。
そして、あの時に少女盟主が秘めていた決意が、迎えるべく瞬間を迎えたのだ──と。
カリナの瞑想は続く。
微かに霊気が流れた。
瞬間は近い──そう確信した刹那!
「そこかよ!」
振り向き様に魔剣を凪ぐ!
奇襲に飛び掛かる双蛇を、紅玉石の刃が弾き逸らした!
後方頭上!
そこからカーミラは現れた!
「カリナ・ノヴェール!」
「カーミラ・カルンスタイン!」
愛用の武器を弾かれたカーミラが、強襲の勢い任せに近接態勢へと取り付く。
茨鞭の柄と紅剣の柄が、一歩も引かずに鍔迫り合った!
「カリナ・ノヴェール! いい加減に目を醒ましなさい! 貴女が追い求めているのは、永遠の白昼夢に過ぎないのよ!」
「何を意味不明な事をホザいている! 脳味噌でも逝ったかよ!」
ギリギリと攻めぎ合う押し比べ!
「かつて貴女は言った──わたしがロンドンに見ているのは、自尊的な幻想だと! 結局は己の奉仕行為に酔った〝自己愛〟だと!」
「言ったがどうしたよ! 事実は事実だろうが!」吼え返す中、カリナはハッと思い当たった。「そうか、だからか! その腹いせに、レマリアを殺したのか!」
「まだ不毛を続けるというの! カリナ・ノヴェール!」
叶わぬ疎通に歯痒さを咬む。
哀れみと悲しさが堰を切り、カーミラは激情を叫んだ!
「ならば、ハッキリと言ってあげる! 最初から存在しないのよ! 貴女の言う〈レマリア〉なんてね!」
「なっ?」
一瞬、カリナが動揺に染まった。
想像すらしていなかった言葉だ。
そして、彼女の根幹を破壊するほどの暴言だ。
放心に怯んだ隙が、力の均衡を崩し掛けた。
カーミラには好機である!
だが、それも一瞬──。
「言うに……事欠いてぇぇぇーーーーっ!」
カリナが憤怒を爆発させた!
激情が力と転じ、拮抗していた対立を弾き跳ばす!
「あう!」
床へと転げ滑るカーミラ!
直接的な肉弾戦となれば、全開状態のカリナに勝るわけがない!
すかさず半身を立て直し、難敵に身構える!
痛みを感じている余裕などない!
それほどの相手だ!
(霧化を!)
「させるかよ!」
瞬間的に回避を意識したにも関わらず、既にカリナが踏み込んで来ていた!
捕食の如き瞬発力が赤い閃きを突き出す!
「っあああああーーーー!」
非情の凶牙が腹を貫いた!
ジル・ド・レが負わせた致命箇所だ!
「妙だとは思ったが……キサマ、手傷を負っていたな」
「っくう!」
「隠していても、微かに血の匂いがするんだよ。私はキサマ等よりも鋭敏なんだ。普段から絶食しているからな」
「やっ……ぱり、あの〝柘榴〟は……そういう事なのね」
苦悶に堪えながら、白の吸血姫が指摘する。
「古代ギリシアの神話に於いて、柘榴は〈冥府の果実〉として伝わる。貴女は、それを代用品とした──糧である吸血行為のね!」
「ああ、そうさ。レマリアと──あの子と共に生きるために、私は吸血行為を捨てる必要があった。己の生命と魔力を維持するために、新たな糧を模索したのさ。常若の国の〈妖精の林檎〉や日本神話の〈黄泉戸喰〉、人間共が創り出した〈人工血液〉──あらゆる神話や科学産物を模索し続けた。だが、どれもこれも糧に代わる効用は無い。そうした模索の中で辿り着いたのが〈柘榴〉だ!」
カーミラは言葉に含まれていた重みを噛む──此処にもいた……人間との理想的共存を模索する〈吸血鬼〉が!
奇しくも、それは自分の姉妹──ジェラルダインの血統であった。
原初の血が、そうさせる。
哀しき呪縛が、同じ宿命を課す。
それでも、自分とカリナには決定的な差があった。
それを思うと笑わずにはいられない。
どこまでも哀れみを帯びた笑いであった。
「フフ……フフフ」
「何だ? 何が可笑しい!」
「だって、可笑しいわ……可笑しくて、滑稽で、哀れだもの。存在しない存在を溺愛するなんてね!」
「キサマァァァアアーーーーッ!」
逆上が力を込める!
それに呼応するが如く、紅い刃が輝きを帯び始めた!
「クッ……ァァァアアアアア!」
堪えきれず絶叫に悶えるカーミラ!
彼女の中でカリナが暴れ狂っていた!
「吸え! 吸い尽くせ〈ジェラルダインの牙〉! 総てを糧と喰らい尽くせ!」
深い憎悪が、けしかける!
ますます光を輝かせる魔剣──と、その輝きは程なくして鎮静化していった。
「何だ? 何故止まった〈ジェラルダインの牙〉よ!」
「ハァハァ……フ……フフフ」九死に一生を得た贄が、脂汗ながらに含み笑う。「……どうやら〝ジェラルダイン〟は、わたしの考え方に味方したみたい」
「な……何だと?」
「魔剣の中で邂逅して以降、演繹し続けたわ。何故〝ジェラルダイン〟が魔剣内に存在していたのか──何故、貴女が〝ジェラルダイン〟の棲む魔剣を所有しているのか」
「な……何だ? 何を言っている!」
「この魔剣は〝ジェラルダイン〟そのもの──おそらく〝魂の転生体〟か、或いは〝残留思念の具象化〟なのよ。そして、そんな禍々しい代物を愛剣としている以上、貴女自身も無関係ではない」
「だから、何を……!」
「わたし達は共に〈ジェラルダインの血統〉という事──因果的な〝姉妹〟という事よ! カリナ・ノヴェール!」
驚愕すべき指摘に、黒の吸血姫が固まる。
確かに自身の生い立ちは何一つ知らない。
さりとも、あまりに予想外の指摘であった。
「た……戯言を言うな! 何を根拠に!」
「だからこそ、貴女は〈レマリア〉に異常固執する。かつて、わたしが〝ローラ〟を愛したように──元凶たるジェラルダインが〝クリスタベル〟という名の少女に焦がれたように──わたし達〈ジェラルダインの血統〉は、自身の愛を注げる対象を強く求める性なのよ。無償の愛を傾ける存在を求め続けるの。貴女にとっては〈レマリア〉が、そうだったようにね。それは無限の虚無から脱したいが故かもしれない。孤独に対する精神的自衛かもしれない。けれど、貴女の悲劇は〝自らが創り出した幻影〟に依存してしまった事。それは、とても哀しい事ではなくて?」
「幻影……だと!」
またも逆鱗へと触れられ、憎悪に歯噛みする!
「私のレマリアが……あの子が幻影だと言うか!」
「貴女が来訪して今日まで、城内に〈レマリア〉を見た者なんて一人もいないのよ」
「ふざけるな! 現にキサマは──」
「──見てないわ」
頑とした目力に、カリナは言葉を呑む。
いいや、コイツは見ていたはずだ。
初めて顔合わせをした時も、まじまじと外套の内を──いや待て、まじまじと〈何〉を見た?
あの時の怪訝そうな表情は何だ?
直後の意味深な一考は?
まじまじと〝何も存在しない外套〟へと見入ったのではないか?
私の奇行を……。
「わたしだけじゃなくてよ。城内の者は誰一人として〈レマリア〉なんて見ていない」
「……黙れ」
「メアリーも、エリザベートも、ジル・ド・レ卿も……リック親子でさえもね!」
「黙れと言っている!」
思い返せば、レマリアへの対応を見せるのは、他ならぬカーミラだけだったのではないか?
メアリー一世も、リックも、その場にいるはずの女児には無関心だった……無関心過ぎた!
「そもそも思い出して御覧なさい! 貴女自身〝一人の瞬間〟が、多々あったのではなくて?」
ジル・ド・レと対峙した時、あの子は何処にいた?
居住区でのゾンビ退治から戻った時、カーミラに促されるまで何処にいた?
リックの母親と対面した時には?
自分が揺らぐ。
だが、ようやくカリナは反論の種を見出した。
「いいや、サリーだ……サリーがいる! サリーは、私とレマリアを見続けてきた!」
一縷の希望に縋るような思いであった。
しかし、無情なる現実は、それさえも否定する。
「……優しいのよ、彼女は。だからこそ、貴女へと宛がった」
「なっ?」
「彼女の半生は聞き及んでいるでしょう? おそらく貴女の母性を、自分自身と重ね合わせた……だからこそ、口裏を合わせていたに過ぎないわ。貴女を──貴女の〝心〟を守ろうと」
サリーの言い訳を想起した──「なにせレマリア様は、おとなしゅうて、おとなしゅうて」
いまにして思えば、あれは〝見えていない事〟への取り繕いだったのではないか?
「これで分かったでしょう?」
突きつけるカーミラに反論ができない。
それでもカリナは虚脱に呟く。
「レマリアは……いるんだ。いまでも私を待っている」
「闇暦年号になってから、三〇年間……何故〈レマリア〉は〝成長〟しなかったの?」
「──っ!」
「悪夢から解放される瞬間が来たのよ! カリナ・ノヴェール!」
「まだ……言うかよぉぉぉーーーー!」
役立たずとなった愛剣を放り捨て、拳で殴り掛かった!
薄々と認め始めた真実から目を逸らすべく……。
己の保身にしがみつくべく…………。
「レマリアが……アイツが、いないだと! 存在しないだと! よくも言える! あの子と私が過ごした日々も知らずに! よくも!」
無抵抗な仰向けを、カリナは容赦なく殴りつけた!
「アイツはな、整った環境でないと寝れないんだ! 川魚は食わない! 生臭さがイヤなんだとよ! 野菜嫌いを克服させるために、柘榴ジュースに混ぜ忍ばせた事もある! それでも見抜いて飲まなかった! 鼻が利くヤツだよ! まったく手が焼ける!」
沸き立つ感情の総てを拳に乗せる!
「機嫌がいい時は、うろ覚えの『オーバー・ザ・レインボー』を口ずさんだ! 舌足らずでな! 好奇心が強過ぎるから、片時も目が離せない! ムカデを手掴みにしそうになった時は、慌てて引き離したものさ!」
拳を振る!
振り抜く!
振るい続ける!
カーミラは殴打されるままに金糸を乱すも、絶対的な勝者であった。
認め始めている──そう思えばこそ、この痛みは〝痛み〟ではない。
これは〝カリナの痛み〟だ。
愛しい妹の……。
「いつも寝顔を撫でてやった! そうすると夢の中で安心するんだ! 私に摘んだ花をくれた事もある! 雑草だったがな! まだまだ思い出は、たくさんあるぞ! これだけ聞いても、まだ存在しないなどと言えるか! どうだ!」
拳に込められる力が、徐々に抜けていくのが分かった。
次第に勢いも失速する。
やがて完全に鎮まった暴力は、相手の胸鞍を掴んで蹲まった。
「……どうなんだ……なんとか……なんとか言えよ!」
咽ぶように絞り出した声は、完全に拠を見失っていた。
「カリナ・ノヴェール……」
カーミラには、ただ抱きしめるしか術がない。
咬み殺す嗚咽に震える頭を優しき細指が撫で宥める。
まるで子供をあやすかのように……。
反目の決着は覚悟していた以上に心痛かった。
と、不意に聞き慣れた下品な濁声が二人を嘲る!
「ィェッヘッヘッヘッ……吸血姫同士のキャットファイトたぁ、イイモンを見せてもらったぜ。アンタ等〝百合〟だったのかよ? ィェッヘッヘッヘッ……」
耳にした途端、カリナの内で再燃する希望!
「ゲデか!」
その姿を周囲に捜した!
自分と傍観者達との間に黒い靄が集結し始める。
それは次第に人の形を成した。
普段なら見たくもない腰巾着だ。
「よぉ、お嬢……こりゃまたご機嫌そうだな? ィェッヘッヘッ」
死神は山高帽子を摘んだ会釈を向けると、葉巻と酒瓶を嗜み浸る。
相変わらずの太々しさだ。
だが現状では、どうでもいい。
カリナは疎むべき下衆へと歩み、普段の気丈さで確固たる助言を命じた。
「ちょうどいい! キサマ、証言しろ! レマリアは実在する──とな!」
「なんでぇ? おチビちゃん、いなくなったのか?」
飄々と露骨に驚いて見せる。
いつも通りの茶化しぶり──けれども、カリナは安堵すら覚えた。叩き落とされた非情な指摘から、ようやく現実へと還れる足掛かりだ。
「それをいい事に、コイツ等は『レマリアが実在しない』などと言いやがる!」
「そりゃ無慈悲だねぇ?」
「キサマは知っているはずだ! レマリアは幻想なんかじゃないと! 証言してやれ! 実在すると!」
「ああ、そういう事ね。了解了解」
カーミラは初めて会った卑俗を睨めつける。
(何処の誰かは知らないけれど、余計な事を……せっかくカリナが現実を受け入れ始めたというのに)
そうした疎みも、生来の嫌われ者は承知だった。優越に吸血令嬢を一瞥するのも心地いい。
ゲデは葉巻を深く噴かすと、向けられた敵意に酔う。
「さあ、真実を言ってやれ! ゲデ!」
「あいよ」
意気を甦らせたカリナが急いた。
ゲデは物臭そうに従い、大きく口角を歪ませる。
そして、ヌッとカリナへ顔を近付けて、こう言うのだ。
「レマリアだぁ? そんなヤツァ、いねぇよ」
「なっ?」
思いも掛けぬ残酷な裏切り!
呆然と立ち尽くすカリナが見たのは、普段以上に卑しい喜悦面であった。
予想外の衝撃に絶句したのは、彼女だけではない。カーミラも、メアリーも、ジョンも……あまりに冷酷なゲデの対応に言葉を失っていた。思わせぶりな素振りで希望を抱かせ、奈落へと叩き落とす──あまりな嬲り方である。
やるせない憤りが、外道への怒りと転化する。
が、集中する憎悪さえも、ゲデには享楽に過ぎない。
「まったく面倒だったんだぜぇ? アンタに合わせた道化芝居は。ま、幻影とはいえ〈意識の結晶〉だからな、本質は〈魂〉と似たよなモンだ。おかげで、オレの幻視で見る事は出来たがな……ィェッヘッヘッ」
「嘘を……嘘を言うな!」絞り出した否定は、わなわなと震えていた。「現にキサマは、レマリアと会話しているではないか! その品性の無さに嫌われていたのを忘れたか!」
「だからよぉ、そいつは〝お嬢の潜在意識〟ってヤツだ。アンタ自身の感情を、ガキの幻に投影行動させていたに過ぎねぇよ。ガキなら、こう言動するだろう……ってな」
「な……何?」
「この国に着いて早々にデッドが群がったのもよ、アンタ自身が喚いて呼び寄せたのさ。ガキの幻影を現実的に体感したくってな。傍目にゃ狂ってたぜ……ィェッヘッヘッ」
「う……そだ」
「ィェッヘッヘッ……ま、どちらにせよオレ様がエラく嫌われてるのは間違いねぇがな」噴かす紫煙に優越を乗せる。「で、どうだったよ? 自己満足の母親ごっこは? アンタの〈レマリア〉は、いい子ちゃんだったかい? ィェッヘッヘッ」
最早、嘲りすら耳に入らない。
ただ虚ろな拒絶だけが呟き漏れた。
「う……嘘だ」
「嘘じゃねぇよ。ぜーんぶ、アンタの妄想だ」
「嘘だ……嘘だ!」
一心不乱に首を振る。
直視させられた現実に怯え、頑なに拒むかのように。
目に見えぬ悪魔が小娘の心を鷲掴みにしていた。
非力な抵抗を容赦なく握り潰さんと……。
「嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ!」
「オイオイ、お嬢ともあろう者が。往生際が悪ィねぇ」
「嘘だァァァァーーーーーーッ!」
「ありゃりゃ、もう壊れてやんの。チッ、案外思ったよりもヤワだったな」
孤高は崩れた。
頭を抱えて慟哭に沈む姿は、凡百な存在の一つに過ぎない。
「つまらねぇ……こんなオチのために付き纏ってたワケじゃねぇんだぜ? オラ、還って来いよ? お嬢には、もっともっと楽しい展開を見せて貰わねぇとな。ィェッヘッヘッィェッヘッヘッィェッヘッヘッヘッヘッ──ィェッ?」
遠慮なく嘲笑う下衆の首が跳ね飛ぶ!
カーミラ・カルンスタインの茨鞭であった!
傷を押して立ち上がった麗姿が、静かなる怒りを孕む!
「ゲデとやら、そこまでにしておくのね」
首無し紳士は転げ落ちた一部を探り拾い、有るべき箇所に据え直した。その様は滑稽ながらもグロテスクだ。
「オイオイ、カルンスタイン令嬢よォ? オレァ、アンタの手助けをしたようなもんだぜ? 聞き分けないワガママ娘に、物の分別を教えただけさ……ィェッヘッヘッ」
「口を慎みなさい。わたしと貴方では、カリナへ向ける想いが違うわ。これ以上、まだ彼女を苦しめるというのならば──」
「ハァ? どうするってのよ?」
「──その薄汚い口から全身を八つ裂きにしてくれる! 二度と再生が叶わぬほど完全消滅させてやるから、そう思え! わたしは〈妹〉ほどアマくはないぞ!」
誰も見た事のない〈鬼〉としての側面が露呈した!
爛々と吊り上がった目に宿るのは、氷の如き殺意!
その鬼気は圧倒的であった!
彼女を中心として渦巻く黒き台流は、カリナとの反目で見せた魔力の解放である!
初めて見る主君の苛烈さには、メアリー達ですら畏怖を覚えずにいられない。
カーミラ自身にしても、潜む残虐性を露にしたのは数百年ぶりだ。
「チッ……へいへい、承知しましたよ」
ゲデは忌々しそうに舌を鳴らした。
肌で感じる魔力の底深さは、さすがにカリナと同格である。
ややあって自らを鎮めたカーミラは、虚空を仰いで慟哭する放心を慈しみに抱きしめた。
「レマリアは……私の〈レマリア〉は……」視界が滲む。漏れる声が涙を帯びる。「……レマリアが……いない?」
「御聞きなさい、カリナ・ノヴェール。貴女の行為は、祖先の呪血が歩ませた宿命──わたし達〈ジェラルダインの娘〉が踏襲する性なのよ」
「ジェラルダインの……娘?」
虚ろに鸚鵡返しを零す。
「ええ、そうよ。わたしも貴女も、原初吸血姫〈ジェラルダイン〉の血統なの。貴女とわたしが不確かな共感を見出し、更には魔剣〈ジェラルダインの牙〉を従える事ができたのが証明よ」
カーミラは優しく諭し続ける。
きっと想いは届く……清水が石へと染み入るように。
「貴女だけじゃないのよ、カリナ・ノヴェール。わたし達は、皆〈孤独〉なの。誰かを愛するのは、誰かに愛されたいから。けれど、叶わないのよ。不老不死を宿した瞬間から、常命とは相入れないの。それでも、愛し続けるの。それが〈人間〉としての性だから。例え〈不死の怪物〉だとしても……〈吸血鬼〉だとしても、わたし達は根幹的に〈人間〉なのよ。だからこそ足掻く。温もりを求め続ける。気高くあろうともすれば、逆に慢心や悪徳にも溺れるの。それもこれも根が〈人間〉だからよ。心宿さない〈デッド〉や〈ゾンビ〉とは違うわ」
「人……間……?」
「それは夢幻の虚無から脱したいが故かもしれない。孤独に対する自衛かもしれない。けれど、貴女の悲劇は〈自らが創り出した幻影〉に依存してしまった事。それは、とても哀しい事ではなくて?」
「私には……私には何も無い。最早、何も……」
「何も無いわけないでしょう!」
此処が正念場だ!
いまのカリナは境界線の手前にいる!
往かせてはならない!
「レマリアが……レマリアが、いないんだ」
「わたしがいる! わたしが貴女の〝レマリア〟となり、貴女がわたしの〝ローラ〟となるの! 世界中が敵になっても、わたしは貴女を愛し続けるわ!」
「レマ……リア……」
愛する名を口にするだけで熱いものが零れ落ちた。充足に培った歳月が、総て雫と消えていく。
「しっかりなさい! いつもの貴女は、どうしたの! 誇り高く、不敵で、気丈で、何事にも媚びない──そんな孤高の吸血姫は何処へ行ったの!」
脆く壊れそうな心を強く抱きしめる!
「……レマ……リア……」
感触は感じている──状況も把握している────それでも、カリナの心は還って来なかった。
「お願いよ、カリナ……わたしと共に生きて…………」
「う……うう……」
顔を埋めた孤高は声を殺して泣き濡れた。白い胸が熱く湿る。
カーミラは慈母の如く、その全てを包み込む。
されど──瓦解しそうな自我──残酷な現実に弄ばれた傷心──それは、カーミラにも繋ぎ留められるかは定かにないものであった。
その時、聞き覚えのある老声がカリナの耳に届く。
「カリナ様ーーーーっ!」
この場に居るはずのない声だ。
油断ならない魔城にて唯一心許した声だ。
虚脱の瞳が、その存在を見定める。
「サ……リー?」
広間の一角──重傷を押した老婆が駆けつけていた。
「カリナ様! ああ、おいたわしや!」
よろつく足取りに駆け寄る。
荒い息遣いからカリナは察した。
サリーは四肢こそ復活していたが、ダメージが完治したわけではない。むしろ、逆だ。
自分の腕へと崩れ抱かれる老婆を困惑に見つめる。
「サリー……何故?」
「お許し下さい! レマリア様を……カリナ様の大切なレマリア様を守れませんでした! されど、生きておりますとも……きっと! このサリーが保証致します!」
老婆が宥めようとすればするほど、少女の心は痛みを増した。
だが、その痛みが本来の冷静さを取り戻させる。
現実を直視させる鎧へと変わっていく。
「サリー……もう、いい……もう、いいんだ」
「いいえ、よくありません! レマリア様は生きておられる! カリナ様のレマリア様は生きておられる! ですから、決して夜叉羅殺に成り下がってはなりませんぞ! 左様な事になっては、レマリア様が泣かれます! このサリーも悲しゅうてなりません! ぐっ……うう……」胸を押さえて苦悶を堪える妖婆は、ようやく訪れた最期を心静かに自覚した。「はぁ……はぁ……カリナ様は、お優しい方。本当に心優しい方……サリーは……知って……おり……──」
老体から静かに力が抜けた。
「なんだ、それは……私が心優しい……だと? とんだ勘違いだ……迷惑な誤解だぞ。私は拈れ者なんだ。嫌われ者の疫病神なんだよ。おい、起きろ。オマエには懇々と説明してやらねばならん。起きろよ、サリー……」
呼び起こそうと揺らし続ける。
されど最早、答える事はない。
眠りから覚める事はない。
「起きろと言っている! サリー!」
やがて、腕の中から黒い塵が消えていった。
抱く重みが無へと還っていく。
「サリィィィイイーーーーーーッ!」
老塵が拡散する虚空を仰ぎ、少女は悲嘆を叫び染めた。
悲しみを噛み締めた瞬間から、どれくらいの時間が経っただろうか──。
数分か?
数時間か?
或いは、数秒だろうか?
存在すら消えた亡骸を抱き続け、カリナは深く沈んでいた。項垂れた表情を覗き窺う事は叶わない。
その場に居る誰もが彼女の胸中を察して佇む──品性下劣なゲデを除いて。
「ケッ……御涙頂戴の安物劇なんざ、阿呆らしくて笑えもしねぇぜ」
蚊帳の外の死神は、露骨な興醒めを持て余していた。
「……カリナ」
神妙な面持ちで、カーミラが呼び掛ける。
続ける言葉など見つからない。
けれど、このままにしてはおけなかった。
身命を擲ったサリーの為にも……。
「カーミラか……要らぬ気遣いをするなよ」
「え?」
意表を突かれる。
カリナから返ってきた抑揚は、予想に反して泰然としていた。
「……上から目線の同情など癪に障るだけだからな」
憎まれ口に上げた表情からは狂気が消えていた。
脆さが消えていた。
そこに存在するのは、気高き拈れ者だ。
「大丈夫……なの?」
「それが癪に障ると言っている」
レマリアを失った。
サリーを失った。
だが不思議な事に、彼女の心は以前より強く在った。
静かに呪縛から立ち上がると、カリナは冷ややかな蔑視に言い放つ。
「おい、下衆野郎」
「か~? 正気に戻った途端、コレかよ」
久々となる無碍な対応に、山高帽子を潰して嘆いた。
「オマエ、霊視ができるんだったな」
「そりゃあ、オレ様の固有能力だからな」
「ならば、私の素性と経緯も見通せるはずだな」
「それを知った上で付き纏ってるんだよ」
「……だろうさ」
自嘲と侮蔑を等しく浮かべる。
ようやく悟った──何故、この異教の死神が、固執的に付き纏うのか……を。
根深い闇は悲劇の連鎖を呼ぶ。コイツにとっては居心地のいい享楽場だ。
いいだろう。
それさえも受け入れ、私は生きる──生き続けてやる。
「ま、お嬢の頼みとありゃあ聞いてもいいがよ。その前に少しばかり付き合ってもらうぜ? こっちも時間が無ぇんでな」
「時間?」
不機嫌と怪訝を混ぜて睨み返す。
「ああ、アンタに会いたがってるヤツがいるんだよ」