孤独の吸血姫:~第三幕~醒める夢 Chapter.3
どれほどの街並を見たかは覚えていない。
如何ほどの廃墟に出会したかも覚えてはいない。
ただ、事実を情報へと更新すべく、紅い蝙蝠は飛び続けていた。
「この有り様では、一八〇体では利かぬやも知れぬな」
屍軍の未だ見えぬ実態を懸念する。
A区画──B区画──C区画────行く先々は、悉く虐殺の跡地であった。
そして、D区画。メアリーにとっても、特別な感情移入が生じた居住区画である。即ち、リック親子が住まう街だ。
「やはり、此処も……」
降り立つと本来の姿に戻り、メアリー一世は周囲を展望する。
同じであった。
建物や壁は暴力に崩れ、夥しい血痕が悲痛な嘆きと断末魔の恐怖を彩る。
「宛ら内乱か暴動の痕だな」
死体は無い……一体も。
在るはずがなかった。
それこそが敵の欲した〝素材〟であり、襲撃目的なのだから。
「この分では、あの親子も……」
自然と足取りは、例のボロアパートへと向いていた。
辿り着いた懐かしい掃き溜まりは、やはり廃墟然と化けている。
軋む音に割れ朽ちた扉を開くと、安っぽいロビーへ足を踏み入れる。
静寂──荒涼とした霊気が、建物内部を蹂躙していた。
「耳障りで下世話な喧噪に感じたが、現在となっては微笑ましい生活臭であったな」
階段を登り、馴染みの部屋へと向かった。親子の無事な姿を切望しつつ……。
だが、奥に見えた戸口にゾッと観念を抱く。辛うじて扉と機能しているものの、やはり襲撃の痕が刻まれていた。
重い気持ちに立ち入る。
少年の姿は無い。
床に割れ落ちたランタンに面影を思い起こし、そっと卓上へと拾い置いた。
「……不憫な」
幼き身に苦労を課せられながらも、明るく乗り越えていた健気な生命力を偲ぶ。
「こほっこほっ」
「っ!」
不意に咳込む声を聞いた!
隣の部屋──つまり、母親の寝室だ!
一縷の希望を再燃させ、その部屋へと駆け込む!
ベッドの上に半身を起こした病姿を確認した!
「母君、無事であったか!」
喜びに寄り支える。
「ああ……ああ! リャム様!」
「……そうか、そうであったな」
カリナが悪戯心に付けた偽名を思い出した。
とはいえ疎ましくも、それはもういい。
いまは母親の無事が何よりだ。
「リックは、どうされた?」
「うう、あの子は……あの子は!」
母は泣き咽び、声を詰まらせるばかりであった。
そこからメアリーは、少年の末路を察する。
「どうやら遅かったようであるな……許されよ」
再襲撃を予見できなかった己の迂闊さが恨めしい。
(カーミラ様には盟主として日々追われる責務がある。そして、カリナ殿は客人……居住区管轄の義務は無い。だが、せめて我だけでも警戒に目を光らせていれば、未然に防げたはず!)
ひたすらに甘さを悔いる。
が、母から聞かされたのは、予想外の顛末であった。
「こほっ……あの子は浚われました……浚われたのです」
「何と!」
驚きを隠せない。
敵の目的は〝死体確保〟にある。
なればこそ多くの犠牲者を出しさえすれ、拐かす意図が読めない。
「母君、詳しく聞かせてはくれまいか? 今回の襲撃、どのような経緯であった?」
「襲撃の惨状については、私も詳しくは存知ません──何せ病床の身ですから、表の様子を見に行く事が叶いませんので」
「御存知の範囲で構わぬ」
「二日前の事です……リャム様も既に御承知の事とは思いますが、突如として死者の軍勢が襲撃してきたのです」
(二日前? それではバートリー夫人の謀反後日ではないか。そんな直後から、ゾンビ増産へ胎動していたというのか)
確かに盲点ではあった。あれほど大きな謀反劇の直後では、誰しも再襲撃など思いも寄らないだろう。
「老若男女問わず一人残さず殺され、そして、その死体を〝動く死者〟が区画外へと運び出して行きました。私が無事でいられたのは、おそらく此処が〝隠れ部屋〟のような構造だったからでしょう。私はリックと一緒に部屋へと籠もり、息を潜めておりました」
「では、その時点ではリックも?」
「無事でした。けれど程なくして、他者の気配を感じたのです」
「この部屋に直接……か?」
「はい。それは前触れも無く、まるで湧き出るかのように部屋の隅へと現れたのです。女でした──黒いローブを纏った浅黒い女でした」
その容姿と出現経緯から、メアリーは直感する!
(おそらく、カーミラ様から聞き及んでいた〝魔女ドロテア〟に違いあるまい。此処を見つけたのは探知魔法か、或いは……我等の妖気が残り香となってしまったか)
しかし、目的が『死体集め』ならば、何故ゾンビに襲撃させず、自らが赴いたのか?
疑問は深まる。
黙考へと耽るメアリーに、母親は続けた。
「その者は怯える私達親子を見て、意地悪く薄ら笑いを浮かべました。そして、こう言ったのです──此処にも手土産があったか──と」
「手土産 ?」
「最初は意味が分かりませんでした。ただただ死者の襲撃と、目の前の怪異に怯え震えるばかりだったのです。やがて、その者は抱き庇う私から剥ぎ取るかのように、リックを奪いました」
「外道な。して、目的らしき事は言わなかったか?」
「どうやら襲撃に乗じて、子供や赤子を浚っているようでした。そして、私に対して、こうも言っておりました──キサマは不要だ。どうせ直に死ぬ。病に冒された体など、役には立たん──と」
「……なんと心無き暴言よ」
おそらく母は短命を自覚している──だがしかし、斯様に追い打ちのような言葉を吐いて許されるはずがない!
メアリーの胸中に、非道へ対する怒りが沸々と込み上げた!
独白吐露で堰が切れたか……母親はメアリーの手へと縋ると、必死に懇願する。
「リャム様、どうかカリナ様に御伝え下さい! あの御方なら、きっとリックを御救い下さるはず! 何卒!」
「相分かった。そなたは何も案ずる事はない。カリナ殿には必ずや伝えよう。そして、私も尽力を惜しまぬ」
「ああ、有り難うございます」
ようやく安心したのか、母親の白い手から力が抜け落ちた。
「これは……」
一瞬、メアリーは違和感を覚える。
半身起こしだった母親の姿は、直後の眠り姿と重なり合って消えた。
まるでフェードアウトするかのように……。
幻視的な感覚ではあった。
そして気付けば、ベッドに横たわっていたのだ。
母親の頬へと、そっと触れてみる。
体温は無い。
「そうであったか……既に」
おそらくメアリーが来る前には亡くなっていた──何時かは断定できないが。
それでも息子の身を案じ続け、救いの手を求めていたのだ。
深き母性が縛った幽霊である。
「何も心配する事はない。神は心正しいそなたを必ずや御導き下さる。安らかに逝くがいい」
神に許されぬ〈魔〉は、それでも福音を説いた。
優しくも不憫な魂の為に……。
カーミラは、たゆとう。
無限に広がる赤き波へと……。
鮮血の大海は裸身を優しく包み、深淵なる癒しを与え給うた。
微睡みにも似た緩和感覚は、彼女の〈個〉としての境界線すらも融解するかのようである。
もしもそうなったら、はたして主導権を握るのは〝自分〟か〝赤〟か──そんな黙想に戯れた。
仰向けの視野へと映り込む大空は、夕暮れの如く淡い朱に染まる。赤海の反射によるものだろうか。
「フフ……フフフ…………」
思わず細く零れた。
その声音は小悪魔的に愛らしい。
「赤く染まる空か……なんだか懐かしいわね」
旧暦時代に眺めた夕景を想起させる。
愛しい〝ローラ〟と眺めた情景を……。
闇暦では久しく見ていない光景に、カーミラは懐古的な安堵感を抱いた。
「貴女は、どうなのかしら? わたしと同じく、そう思えて?」
無造作に投げた訊い掛けは、けれども独り言ではない。
頭側に立つ人影へと向けたものである。
カーミラは視線だけを動かし、相手を見定めた。
憂いと虚無感を等しく宿した少女──見た目の年齢は自分と変わるものではない。
それなりの身分を主張している黒いドレスは、しかしながら端々が煤け破れていた。無情なる歳月の刻印だろう。
緩やかに波掛かった金髪は、所々に赤の宝石が散りばめられている。
深雪のように白い肌だが、かといって少女自身は病弱な心象にない。むしろ硝子細工のように繊細な美貌からは、底知れぬ不敵さすら孕んだ冷徹な貫禄も感じられた。
不思議な少女ではある。
外見の可憐さとは不釣り合いな貫禄が醸し出されながらも、それが破綻無く同一化していた。
だからこそ、カーミラは親近感を覚える。
永遠の処女性と、悠久を噛み締めた末に至る達観──それは彼女自身が持つものと同質だからだ。
「ようやく会えたわね、ジェラルダイン──我が血統の始祖」
ジェラルダインは何も語らず、ただ淡々と子孫へと見入っていた。
意思の疎通は、それで充分だ。
ジェラルダインの瞳が語り掛け、カーミラが無言の意図を汲む。
「ええ、そうだと確信はしていたわ。あの剣を手にした時から。やはりカリナ・ノヴェールは、私と同じ──貴女の血統なのね。わたし達は〈ジェラルダインの牙〉を組敷いたわけじゃない……貴女自身の意思で助力をしたのでしょう?」
古の魂が淡い黙視に慈しんだ。
アイコンタクトでもテレパシーでもない。血の系譜のみが可能とした魂の共鳴であった。
「不思議なものね。貴女は、わたしの〝親〟ではない。けれども、実の親より強い絆を課している」
医学的には〈隔世遺伝〉というものがある。父母よりも祖父母からの遺伝が強く出る現象だ。
カーミラとジェラルダインの関係も、それに近しい。
ただし、祖父母などという近親的距離ではない。原初吸血姫は、遙か昔に血脈の礎を築いたのだから。カルンスタイン家の発端よりも、遙か昔に……。
「貴女達〈原初吸血鬼〉は人間と交わり、その〝呪われし血〟──即ち〝呪血〟を脈々と受け継がせてきた。そうした交配種が歴史の中で分岐していき、やがて各地で家系となる……我が〝カルンスタイン家〟や〝バートリー家〟のように。俗に言う〝呪われし家系〟かしらね。ただし〝呪血〟は次第に希釈化し、系譜者からも〈吸血鬼〉の特性が失われてしまう。永い歴史に於いて人間の血が濃くなるのだから当然ね。そうした中で、稀に〈先祖返り〉を覚醒する異端が現れる──わたしみたいに」
カーミラ──いや〝マーカラ〟以外には、カルンスタインの家系に〈吸血鬼〉は存在しない。彼女の両親も、数代後の子孫である〝ローラ〟も、純然たる〈人間〉だ。
「転生プロセスに他者の介入が無いだけに、貴女達〈原初吸血鬼〉の魔力素質がダイレクトに遺伝するのよ。これが〈血統〉と呼ばれる所以──云わば貴女は、私にとって〝会った事すら無い母親〟なのよ。或いは〝歴史の彼方に存在した母体〟かしらね」
カーミラの結論通り〈原初吸血鬼〉と〈血統〉の関係性は、それに尽きる。
生体的な柵は関係ない。悠久なる時代の隔たりすらも意味がない。ヘソの緒や家庭の群像が刻み示す関係性ですらない。
純粋に〝潜在因子によって直系的覚醒を果たした魂〟が全てである。
そして、これが鼠算的に増産同属化する〈覚醒型〉以降とは一線を画する理由でもあった。仮に第三者たる吸血鬼によって同属化させられたのならば、カーミラとて〈覚醒型〉に属する存在となっていただろう。それは吸血行為を経て、呪血が不純化するからだ。
だが、カーミラは自発的覚醒を果たした。原初世代たるジェラルダインの血を、高純度のまま受け継いだのである。
そして、カリナ・ノヴェールもまた、そうした希有な存在の一人であった。
「初見から感じてはいたのよ……それが〝何か〟までは判らなかったのだけれど。だから〝親密な友達〟になれそうな気がしていたのね」
独り合点を呟き漏らす。
「けれどね、ジェラルダイン。カリナは自分の出生すら知らないのよ。これって奇妙だと思わなくて? 愛剣として守り続けてきた貴女なら、何か知っているのじゃないかしら?」
上目遣いで真意を求めるも、始祖たる娘は沈黙に見つめ返すだけであった。威風と慈愛を宿す瞳には有益情報が何も込められていない。
「自分で確かめろ……か。それって意地悪な試練よ?」
意向を汲んだカーミラは、それ以上の追求を諦める。
とはいえ、一つだけ確信も抱けた。
ジェラルダインは慈しみ、見守っているという事実だ。
自らの血を受け継ぐ娘達を……。
その深い母性に嘘偽りは無い。
「度重なる謀反に、貴女との邂逅──次々と転機が表層化している。だとしたら、そろそろ潮時かしらね……カリナを〈レマリア〉と決別させるにも」
重い気持ちを、目の前に広がる朱へと投げた。
憎まれるのは勿論、場合によっては一戦交える覚悟も必要となるだろう。
「それは〝姉妹〟たる〝わたし〟の役目でしょうね」
静かに含まれた決意を、ジェラルダインが穏やかな微笑で受け取った。
やがて赤の世界は揺らぎ、怒濤が全てを溶かし呑んだ。
「っ!」
覚醒に眼を見開き、カーミラは棺から半身を起こす!
なみなみと注がれた鮮血を波飛沫と零して!
白の吸血姫は、魂の最深層から帰還を果たした。
未成熟な裸身が毒々しい滑りに照り染まる。
彼女専用の棺は、生命の赤に満ち溢れていた。
「此処は……」瞬間的な一瞥で必要な情報を吸収し、自らの状況を把握する。無惨に半壊しながらも豪奢な室内装飾が、謀略の痕を刻んでいた。吹き抜けとなった壁からは熱風が侵入し、赤いビロードカーテンを弄ぶ。おそらく投石機等によるダメージだろうが、悉く見慣れた部屋の面影が残っていた。「わたしの部屋?」
「カーミラ様! 御無事で!」
聞き慣れた声が安堵に駆け寄る。
「メアリー?」
「心配致しました。発見した時は、既に意識の無い状態でしたから」
「では、これは貴女が?」
「はい。調査から帰ってみると、血の海に倒れる貴女を発見致しましたので。適切な再生処置さえ行えば蘇生するとは思いましたが、賭けでもありました。何せ、経過時間が分かりませんでしたから」
「そう……心配を掛けたわね」
淡い微笑みで安心を授け、棺から起き出た。
装束を用意するメアリーが、事の真相を訊ねる。
「それにしても、いったい何があったのですか?」
「謀反です」
手伝われながら袖を通し、カーミラは簡潔に伝える。
「謀反? この交戦下にですか?」
「逆に好機だったのかもしれないわね」
「カーミラ様相手に誰が? よもや、カリナ殿が?」
「いいえ、ジル・ド・レ卿です」
「ジル・ド・レ卿? まさか?」
「本当よ。もっとも油断を突かれた形ではあるけれど」
事実を伝えながらも、カーミラの胸中には拭えぬ疑問が芽生える。
(何故、ジル・ド・レ卿は止めを刺さなかったのかしら)
腹部を貫いた程度では死なない──それはジル・ド・レ卿も重々承知のはず。
そして、無抵抗と化したカーミラを〝吸血鬼殺し〟の手段に下すのは他易い。
にも関わらず、何故?