孤独の吸血姫:~第三幕~醒める夢 Chapter.7
ジル・ド・レは黙想する。
思えば、信仰を棄てたのは──神に敵意を抱いたのは、いつであっただろうか。
愚劣な政略によって、心酔する聖少女が処刑された日であろうか。
或いは、流れ者の魔術師によって〈吸血鬼〉へと貶められた時からであろうか。
否、そうではない。
根元は、もっと以前だ。
幼き頃の悲劇が発端だ。
母を失った。最愛の母を……。
神への祈りは無駄であった。
そして、信仰を棄てた。
無力感に苛まされた。
やがて、また取り戻した。
神の御使い〝ジャンヌ・ダルク〟との邂逅だ。
されど、また棄てた。
幼少期の無力感が甦る。
闇に堕ちた。
神への敵対者と堕ちた。
そして、現在に至る──。
軋み開く城門の音に現実へと呼び起こされ、ジルは静かに瞼を開いた。
十中八九、降伏は無い……それは承知の上だ。
が、迎え出て来た決闘相手は予想外であった。
カーミラ・カルンスタインではない。
たった一人で出陣したのは、不遜なる流浪者だ。
白ではなく黒が現れた。
どちらでも構わない。
己が選択の是非を確められるのならば……。
「よう、髭面」不敵な笑みを浮かべ、柘榴齧りに挑発してくる。「相変わらず黙祷が長いな」
「フッ……捧げる相手など、もはやおらぬ」
自嘲を交わす猛者二人。
互いに望んでいた──いつぞやの決着を!
「さて、始めるとするか……カリナ・ノヴェール!」
今度は横槍など入らない。
否、入れさせない!
心行くまで殺し合おう!
ロンドン塔城門前──多勢のゾンビが犇めく渦中で、激しい剣舞が繰り広げられた!
周囲の屍兵など歯牙にも掛けず、カリナとジルはぶつかり合う!
「「おおおぉぉぉぉぉーーーーーーっ!」」
暴れる双刃に巻き込まれ、無頓着な屍が捌かれていく!
腐肉が破片と飛び、死血が霧と弾けた!
この決闘の瞬間に立ち会ったのが、彼等の不運だ。
もっとも嘆く自我など有りはしないが……。
「失せろ!」
「邪魔だ!」
互いに好敵手を狙いつつ、片手間で障害物たる屍兵を排除する!
剣舞を踊る足場を広く確保せねばならない!
黒集りに拓いていく決闘場──それは滞空に戦況を見定める魔術師の目にも留まった。
「アレは……カリナ・ノヴェール? またしても邪魔をするか!」
プレラーティは疎ましく睨み、呪文を詠唱した。
早口の呪言が意味する内容は不明だ。
どちらにせよ敵意を帯びた攻撃には違いあるまい。
獲物へと向けた掌に種火が収束していく!
圧縮された炎塊が一際勢いを増した焔球と荒ぶる!
「……消えよ」
気取られぬ狙撃が放たれようとした瞬間、予期せぬ一撃が焔を破壊した!
茨鞭だ!
奇襲方向を追い睨む。
白い麗姿が滞空していた!
「……カーミラ・カルンスタイン!」
「まさか〈魔女ドロテア〉の他に暗躍者がいたとはね……確か〝プレラーティ〟とか言ったかしら?」
「ィェッヘッヘッ……その名で正解だよ」
虚空より下卑た濁声が肯定する。
直後、カーミラの背後に男が出現した。
見窄らしい品性に黒いジャケットスーツ──卑しいニタリ顔に飄々とした態度──プレラーティが見た事も無い怪人物だ。
「ィェッヘッヘッ……お初だねぇ? オレァ〝ゲデ〟──ハイチはブードゥー教の〈死神〉さ」
太々しく葉巻を蒸かしながら卑俗な嘲笑が名乗った。
魔術師が睨めつけに訊う。
「その〈死神〉とやらが、何故ハイチから出た?」
「愚問だねぇ? ダークエーテルが蔓延した闇暦じゃあ、世界中が超自然的な魔界環境だ。生地に縛られる柵は無ぇっての。だったらよぉ──」深い邪悪を含み笑う道化者。「──広い餌場へと出歩いて、テメェから満喫した方が面白ぇじゃねぇかよ? ィェッヘッヘッ……」
さしものプレラーティですら忌避感を覚えた。
この〝ゲデ〟なる〈死神〉は、純粋に負念を楽しんでいる。理念も理想も情も無い。ただ悪意のままに貪りたいだけだ。
「ま、そう警戒しなさんな。オレ自身が何かする気は無ぇよ。アンタを相手取るのは──」
ゲデが一瞥で示すのは、臨戦意思の白外套。
双鞭を構えたカーミラが毅然とした誇りに宣誓する。
「悪いけど邪魔はさせない。カリナの邪魔も、ジル・ド・レ卿の邪魔もね」
ジルの剛剣が重い突きを放つ!
初戦の再現宜しく、カリナは黒外套の回転に纏わり呑もうと転じた……が!
「二の轍を踏むと思うか!」
力任せに横へと凪ぎ、無理矢理に太刀筋を変える!
「かはっ?」
瞬時に魔剣を盾として遮るも、頑強な刃はカリナの脇腹を浅く抉った!
その衝撃を緊急離脱の慣性へと転化し、黒の吸血姫は間合いを取る。
片膝着きの体勢に着地すると、吸血騎士を睨み据えた。
押さえた傷口から零れ落ちる熱い感触──久しく味わってなかった痛みだ。
「少しは学習したかよ、髭面」
「先の決闘で貴様の傾向は覚えた。如何に戦い慣れしていようと、女の身では非力……それを補うべく俊敏さを軸とした奇襲へと転じるのであろう。されど読めてしまえば、どうという事はない!」
「そうかよ」
カリナは軽く嘲笑を含み、静かに立ち上がる。
と、徐に紅い刃を傷口へと当てた。
「吸え」紅刃が仄かに光り、溢れる赤を啜り呑んだ。やがて、次第に血が止まる。「……ふう」
「血を吸う魔剣……だと?」
「物珍しいかよ」
「なるほど。わざと適量を吸わせて、止血の仮手段としたか」
「傷そのものは負ったままだがな。それよりも──」挑発と皮肉を込めて、吸血姫は不敵な蔑笑を浮かべた。「──よくも処女の身体を傷物にしてくれる」
刀身に残る滑りを払い拭う。
「おい、髭面。地獄へ叩き落とす前に訊いておきたい事がある」
「何だ」
互いに反目して佇み、静かな敵意を交わした。
「確か〝ブラッディ・タワー〟と言ったか──あの城塔での拷問は何だ?」
「フッ、どうやら見つけたか」
吸血騎士が乾いた感情に口角を上げる。
「児童偏愛癖か? 或いは子供に怨みでもあるのかよ?」
「……分からぬ」遠い目を虚空へと投げ、ジルは愁訴を吐露した。「現在に始まった事ではない。かと言って〈吸血鬼〉と堕ちたからでもない。生前からの隠匿すべき悪癖だ」
「何人殺ったよ」
「一過の犠牲など数えておらぬ」
「偏愛の歪み……ではないな? あの容赦ない拷問痕からして、苦しめ抜いて殺す事自体が目的だ」
「確かに異常な性癖だと自覚する。が、我にも自制は利かぬのだ」
「狂気者は、皆そう言う」
「理解されぬは百も承知。俗論観念とは永遠に平行線だろう」
「それも言うのさ」
子供の存在に依存しなければ自己確立が出来ぬ者──その点では、両者共に同じかもしれない。
だがしかし、その在り様は対極過ぎた。
ジル・ド・レは、幼き命を悦楽の贄とする。
カリナは、無垢な魂を道標と背負う。
相入れるはずがない。
「子供には罪が無い──などと綺麗事は言わん。偽善者共の利己的詭弁は反吐が出る。されど、理不尽に命奪われる謂われも無いだろうさ」
「母性が言わせるか……やはり〈女〉よ」
「さてな──」満たされぬ想いに柘榴を齧る。「──ただ、私の〈レマリア〉が泣くのさ」
「……レマリア?」
「気にするな。オマエにも殺せぬ子だ」
吸血姫は静寂を破り、黒い魔翼を息吹かせた!
超人的跳躍に生じた風を孕み、空中からの強襲戦法へと転じる!
命削る輪舞の再開だ!
「飛ぶか! カリナ・ノヴェール!」
ジル・ド・レは腰を落とし、安定した重心に構えた。
(鎧装束の重量では飛行など叶わぬ。なれば、攻撃に接近した瞬間を返り討ちにするしかなかろう)
この戦術に於いては、カリナの軽装が利点と活きた。
前から、背後から、右から、左から、休む暇も無く黒翼が襲い来る!
一撃離脱の攪乱戦法だ!
彼女の軌道取りは、優美なカーミラに比べて鋭利で素速い!
「燕と化すか!」
忌々しく追い睨みながらも、ジルは刃応えに高揚する。
四方八方から縦横無尽に襲い来る紅い嘴!
突撃の勢いを帯びるため、軽い体重であっても一撃が重い!
加えて、レイピア形状の魔剣も相性が良かった。
突きを肝とした攻撃は、まさに迅速の槍の如し!
戦人として培った感覚で、騎士は強襲方向を予測する!
愛剣を盾に紅い突尖を弾き続けた!
言うは簡単だが、それを為すジル・ド・レの技量は並々ならぬものである。
そして、重々しい反撃を繰り出した!
「むぅん!」
「当たると思うか!」
直進軸を僅かに浮かせた黒外套は、剛刃の軌道から擦れ擦れ上を滑る!
すぐさま直角上昇による離脱へと移行!
が、浴びた剣圧には違和感を覚える。
あまりにも標的への捕捉がアマい。
(当たらぬは承知の上で……か。手数を減らすための牽制だったかよ)
小賢しさを見極めた。
だがしかし、その流れすら敵の思惑通りだ。
易い化かし合いに過ぎない。
「二度手間を掛けさせてくれる!」
滞空静止から方向転換し、急速降下で再強襲を試みる!
ジル・ド・レが上空を睨み構えた!
今度は確実にカリナを捕捉している!
(クソッ! 軌道を強制させるためだったかよ!)
降下の勢いに呑まれ軌道変更は難しい。
なれば、最早突っ込むしかなかった。
「髭面ァァァーーーーっ!」
「カリナ・ノヴェーーーール!」
鋭利な紅刃と剛剣の突き上げが、互いの顔脇を掠めて擦れ違う!
間髪入れずに、またも強引な凪払い!
カリナは開脚後転に反動を生み、ジルの間合いから跳び離れた。その華麗な回避動作は、ジプシーの踊り子を連想させる。
慣性のままに滑る路面を踏み止まるカリナ。
上げる瞳に睨んだ吸血騎士は、平然とした態度を崩していない。
「……腹立たしいヤツだ」
頬に刻まれた赤い筋を親指で拭った。
同様に、騎士も拳で拭う。
両者が繰り出した一撃は、惜しくも敵を貫く事は出来なかった。掠り傷の痛み分けだ。
(剣技は互角か……いま一歩で埒が開かんな)
かつてカーミラが示唆した通り、なかなか厄介な実力者であった。
表層では苛立ちながらも、カリナは冷静に思索を巡らせる。朧気ながら状況打開の妙案が見え始めた。
「カーミラに出来て、私に出来ぬ道理はあるまいよ」
そう、同じ血ならば……。
薄く勝算を含む。
その瞬間、不意に背後から右腕を掴まれた!
「何!」
ゾンビの捕縛である。
それを皮切りに、次々と亡者共が少女の四肢を封じ始めた!
「クッ?」
腕一本に一体ではない!
足一本に一体ではない!
凡そ、しがみつけるだけの死体数が、四肢の枷と化して拘束を強いる!
如何に〈吸血鬼〉が剛力とは言っても、とてもではないが振り解く事など不可能であった!
「クソッ! 命令を変更したか!」
焦燥に足掻くも動けない!
まるで磔刑だ!
正面からは剣を携えたジル・ド・レが、ゆらりと歩いて来る。
(さて、どうするか……)
この窮地を脱出する手段は──ある。
しかし、それは閃いたばかりの策を用いるという事だ。
(ネタバレした手品では、ヤツの虚は突けまいよ)
とはいえ、このままでは〝なます斬り〟だ。
(やはり秘策を先出しするしかない……か)
本音では渋りながらも、カリナは決心する。
眼前まで来たジルが仰々しく剣を振り上げた。
(チィ……背に腹は代えられぬ!)
不本意ながらも秘策を披露しようと覚悟した──直後、彼女を拘束する屍が一体崩れ倒れる!
「何?」
予想外の展開に動揺を浮かべるカリナ。
振り下ろされた刃が捌いたのは、吸血姫ではなく屍兵であった!
宿敵の疑問を余所に、ジルは次々と戒めを潰していく!
愚鈍な加勢を一頻り捌き終えると、騎士は背後の闇空へと怒号を吼えた!
「プレラァァァティィィーーーーッ!」
地の底から響いてくるような獅子の猛り!
「出過ぎた真似をするでないわ! これは我とカリナ・ノヴェールの決闘! 何人たりとて邪魔立てする事はまかりならん!」
心底からの激昂であった!
それは大気を震わせるかの如く、テムズ川上空にて戦う従者の耳にも届く。
「……ですって」
相見えるカーミラが愛らしく小首を傾けた。
「チッ!」
舌を鳴らす黒魔術師。
大局よりも些末な騎士道に囚われる傀儡に、貞淑ぶった余裕に挑発を織り交ぜる実力者──全てが彼の意にそぐわない。
さりとて、ジル・ド・レの機嫌を損なっては 万事が水泡だ。エリザベートのような失態は避けたい。
彼は眼前の難敵だけに標的を絞り込んだ。
「それで? 今度は、どうなさるのかしら?」
「……頭に乗るなよ、カーミラ・カルンスタイン」
平然を崩さぬ白き麗姿を睨めつける。
「コライサラム・エキシサラム・シューサラム──」
早口の詠唱に呼応し、掌へと火元素が収束していく。
「──ファイアーボール!」
火種は炎球と育ち、焔と吼えた!
さりながら、白き吸血姫には動じる素振りもない。
僅かに立ち位置をずらして、滞空のままに回避するだけだ。まるで地を踊り滑るように……。
「リスペルサラム」
再発動の簡略詠唱を唱える!
多数の焔が生まれ襲った!
炎球魔法の連射攻撃!
しかし、それさえもカーミラは避わし続ける。
時折、避けきれぬ数発があったが、それは茨鞭の的と砕いた。
小気味良く舞い踊る白き麗影──存在しないはずの足場が存在している。
万能的に魔術を発現出来るとはいえ、魔術師や魔女は大別的な種族分類では〈人間〉だ。根本から〈魔物〉たる吸血鬼とは異なる。ただ超自然的な行使術に長けているに過ぎない。
魔術によって飛行能力を得ていても、それは仮付随の能力──不可視の翼上に縋り立っているのと変わらぬ。
対して吸血鬼のそれは、地上を歩行するのと大差ない通常動作だ。存在自体が〈翼〉と言ってもいい。
結局〝鳥の翼〟と〝イカロスの翼〟では、根本的に雲泥差があるという事だ。
「……素より空中戦で渡り合おうとは思っていない」
邪瞳が策謀に歪んだ。
「サラムプリズモルグ!」
二指を立てた手を肘折に突き上げる!
カーミラの周囲に砕けた残り火達が、一際大きく息吹を甦らせた!
「何ですって?」
炎は柱と昇り、小鳥を捕らえる!
灼熱の檻だ!
「茨鞭では……無理そうね」
実体無き元素を斬り裂けるわけがない。
下手をすれば、武器の方が焼け朽ちてしまう。
魔術師が焔格子前まで滑り来た。
「……対決早々に動き回るべきだったのだ、キサマは」
「あら、今頃御忠告かしら?」
「エリザベート戦で見せた戦法は知っている。その機動力を封じれば、脆弱な金糸雀だ。それに──」眼下の決闘を一瞥する。「──今回はカリナ・ノヴェールの助力も期待出来ない」
唯一の不確定要素があるとすれば例の〈死神〉だが、ニタリ顔は向けられた視線に戯けて肩を竦めるだけ。宣言通り、介入する意思は無さそうだ。
関心を虜囚へと戻す。
「キサマを屠り、ジル・ド・レへと荷担すれば事が終わる」
「ジル・ド・レ卿は、それを望んではいなくってよ?」
「……関係無い」プレラーティの冷酷なる真意。「我が思惑は〈吸血鬼勢力の壊滅〉にある。あの男の意向など眼中に無い」
「体よく利用したってトコかしら?」
「……如何にも」
「ひとつだけ訊いてもいいかしら? できるだけ疑問は残したくないの」
「……何だ?」
虜囚が無力化したと踏んだか、返す抑揚は高圧的だ。
「貴方の同胞〈魔女ドロテア〉は何処かしら?」
名を聞いた途端途端、プレラーティは嘲笑を含む。
「クックックッ……まだ気付かんのか、カーミラ・カルンスタイン」
直後、魔術師が幻像と霞んだ。
宛ら残像効果のように姿形が歪み、一回り小さな体躯が重なる。
やがて陽炎が収まると、実体となったのは小柄な身体の方であった。
「貴女は──魔女ドロテア!」
仇敵を前にしたカーミラが、思わず驚愕の声を上げる。
同時に、万事合点がいった。
何故、こうも続けて謀反が生じたのか?
何故、魔女と魔術師の手口が似ていたのか?
策謀者は二人ではない──最初から一人だったのだ!
「暗躍が為の〈性転換魔法〉だ。我は〝プレラーティ〟であり〝ドロテア〟でもある」
「どちらが〈正体〉なのかしら?」
「さてな……あまりにも永い歳月を掛け持ちした。最早、我にも判らぬ」
「ジル卿やエリザベートの生前から、今回の根回しを? そうは思えないけれど?」
「生前の奴等に接近したのは、単に〈魂〉を堕落させる為だ。さすれば、契約悪魔への献上品となる。おかげで多彩な魔術も授かった。されど〈一級魔術師〉には後一歩といったところか……まだまだ足りぬ」
「あ……貴女は……自身の魔力向上の為だけに、彼等の〈魂〉を魔界へと貶めたと言うの!」
「我等〈魔女〉にとっては〈魔術〉こそが総て。行使魔術が強大であればあるほど、その地位と権限は大きくなる」
カーミラの胸中に嫌悪が募る!
「他人の〈魂〉を何だと! その〈命〉と〈生〉を!」
「愚直だな。我は奴等の内に燻る闇を解放させてやったに過ぎん」
「もう、いいわ」
「……辞世は満足したか」
「ええ。もう何も語らなくていい。聞くに耐えない醜さですもの」
我慢していた憤りを解放し、白い外套が踊り狂う!
優美な回転に舞う白い波!
自らを軸とした吸血姫の円心は、みるみる加速を上げていった!
「な……何をしようという! カーミラ・カルンスタイン!」
高速自転が続く!
既に実像が捕らえられない!
炎の牢獄には白き竜巻が暴れ育っているだけだ!
「辞世は済んだ──けれど、それは貴女の辞世よ!」
気流の暴力が膨れていく!
自身も呑まれそうになりながら、ドロテアは踏ん張り堪える!
そして、炎の戒めが弾けた!
「……クッ?」
鎮まる台流に佇み、白い麗姿が種を明かす。
「精霊魔法にて〈火〉を相殺するのは〈水〉のみ──その概念に捕らわれ過ぎていたようね。確かに〈風〉は〈火〉を助長する。けれど、圧倒的に過剰な暴風なら、どうかしら? 今回は暴飲暴食が過ぎた……許容量越えよ!」
「キサマ、最初から抜け出せる算段を?」
「ええ、少しでも情報を収集したかったの」
にこりと微笑む貞淑。
実力に裏打ちされた余裕であった。
「それじゃあ、先程の御忠告に従うわね!」
白い翼が疾風と舞い飛ぶ!
エリザベート戦で見せた厄介な攪乱戦法だ!
「ラジュガ・ミフェ・ディーヨ──」
早口な呪文詠唱!
「──マヴォラ!」
魔女の姿が三人と増えた!
三人が五人となり、五人が十人となる!
「分身魔術?」
「間抜けなエリザベートと同格に侮るな。みすみす標的と留まる気は無い」
「的が増えたなら、その総てを潰せばいい!」
気迫を吼えるカーミラ!
白き疾風が、茨鞭の連撃を乱発する!
次々と貫かれていく幻影!
「な……何っ? 力押しを!」
カーミラの戦闘能力を改めて脅威に感じる。
脅威?
否、これは〈恐怖〉だ!
真正の魔性と対峙した人間の〈恐怖〉だ!
「水泡に帰してなるか! 今回の戦乱は、大きなチャンスなのだ! これだけ大量の贄を捧げれば〝次期魔女王〟の座すら掌握出来るかもしれんのだぞ!」
「それが貴女の〈目的〉……そんな下らない事が!」
「キサマには分かるまい! 強大無比な魔力に恵まれたキサマに、我等〈魔女〉が苛まされる積年の渇望は!」
虐げられてきた歴史を思い起こす。
迫害の痛みを忘れてはいない。
そして、忌まわしき〈魔女狩り〉の暴虐を……。
「貴女にも〈吸血鬼〉の虚無感は判らない!」
「生まれながらにして闇に祝福されし者が! よくもほざく!」
ドロテアは更なる呪文を詠唱した!
しかし──!
「そこォーーーーッ!」
「かはっ?」
魔術発現と紙一重で、渾身の一撃が本体の腹を貫通した!
飛行魔術の集中も乱され、無様に墜ちていく!
墜落の様を滞空静止に見下し、カーミラは魔女の敗因を指摘した。
「動作は真似出来ても、呪文詠唱そのものは出来なかったようね……魔力蓄積と呪文発声は〈本体〉である貴女だけだったのよ」
同情など抱く必要は無い。
狡猾なる〈魔女〉は私利私欲の為に、あまりにも多くの犠牲を踏み躙ってきた。
エリザベート──ジル・ド・レ──そして、カーミラが温情を傾ける〈人間〉達を。
テムズ川が汚らわしい水柱を上げる。
「わたしと踊ろうなんて百年早かったようね」
「おい、従者が逝ったぞ」
「プレラーティの愚か者が……カーミラ・カルンスタインを侮ったな」
遠方に起きた黒い水柱に、カリナとジルは戦況の進展を把握する。
魔力の源泉を失い、周囲の屍兵が〈死体〉へと還っていった。
とはいえ、どうでもいい。
両者の目が捕らえているのは眼前の敵のみ!
叩き折りたい敵刃のみ!
手数は圧倒的にカリナの方が多い。
それら紅い閃光を確実に弾き防ぎつつも、ここぞとばかりに重い一撃を繰り出すジル・ド・レ。
突発的に生まれ迫る剣圧を、黒姫は輪舞の如き体捌きで避わし続けた。
目まぐるしい一進一退が刻まれる。
「鬱陶しい相手だ。さっさとくたばれよ」
「死すべきは貴様よ!」
騎士の剣が大きく振り上げられた!
小競り合いを無視した力任せだ!
密着した状態では、如何にカリナでも離脱回避などできない!
「真っ向から止めるか!」
「それしかなかろうよ!」
広刃と細刃がぶつかり合い、鍔迫り合いの態勢を余儀なく強いられる!
男と女の差は、カリナにとって些か不利に働いた。力も体躯も……だ。
それでも押し止まるだけの技量は、戦闘慣れした実体験からか──或いは意地か。
「惜しい……実に惜しいものよ」
「あんな大振りが惜しいものかよ」
「そうではない。以前も言ったが……何故、貴様のような傑物が〈女〉の身に生まれたのか? それが実に惜しいのだ」
「また、それか。何か〈女〉にトラウマでもあるのかよ」
吸血姫は辟易を帯びた蔑笑を返す。
「貴様程の実力があれば……貴様が〈男〉であれば、我が片腕にも誘えたものを」
「いいや、そうはならんさ」
「何?」
「暑苦しいジジイのお守りなど、私が御免被るからだ!」
僅かに魔剣を引き、均衡を崩した!
虚を突かれグラついた鎧を渾身に踏み蹴る!
その勢いを加味して、カリナは大きく跳び退った!
再び得た間合いに黒い翼を膨らませる!
「またも飛ぶか!」
「腹立たしいなら飛んでみせろよ」
黒き矢が天を射す!
自らを回転軸とした螺旋上昇!
二つの高速運動を一つの力点と転化し、カリナは黒槍と飛ぶ!
「一撃必殺と穿つ気か!」
旋回に迫る黒渦を睨み据え、ジル・ド・レは迎撃を構えた!
狙うは軸芯……真紅の切っ先だ!
迫り来る数秒が数分にも感じられた。
焦れる──次の一撃が決着の瞬間だと確信するからこそ焦れる!
唸り哮る螺旋が射程へと入った!
「逝けぇぇぇーーーーィ! カリナ・ノヴェェェーーーール!」
全身全霊を込めた剛剣の突き!
雄々しくも逞しい刃が、美しき吸血姫の脳天をブチ抜く!
死の瞬間に見開かれる眼!
荒ぶる魔姫を貫いた──ジルがそう思えた瞬間、眼前に在った亡骸が霧散して消えた!
「瞬間霧化だと!」
「……此処だよ」
冷めた警鐘に視線を落とす。
黒外套は懐に潜り込んでいた!
繰り出す突きに身を乗り出した体勢へと!
「実体化を?」
「遅い!」
対応する隙も与えず、紅い牙が騎士を貫く!
前屈み故に無防備となった喉笛へと!
「吸えぇぇぇええ! ジェラルダイィィィイイン!」
雄叫びを吼え、全身の力で突き上げた!
百舌の早贄の如く、串刺し刑と晒される吸血騎士!
鮮血の噴霧に映える魔剣のシルエットは、皮肉にも〈逆十字〉に見えた。
彼等〈不死十字軍〉のシンボルに……。
白い空間に優しく包まれ、ジル・ド・レの意識は走馬燈を眺める。
痛みも恐怖も無い。
ただ胎内回帰にも似た安らぎだけが在った。
旧暦一四〇四年──フランス名門貴族の家系にて、彼は生まれた。財も人脈も恵まれた環境である。
当時、フランスは百年戦争の渦中に在った。
日々何処かで戦火が上がり、日々何処かで儚い命が散った。戦果と落とされる貧困は人心を蝕み、国内情勢も不安定に陥っていた。明日への希望は陽炎の如し。
ジルの幼年期も、そうした情勢にあった。
両親から篤い信仰心を受け継いだ少年は、そうした世相に心を痛め続ける。
だから、決意をした──大人になったら、この戦争を一刻も早く食い止めよう……と。
その瞳はまだ純粋で、眩しい希望に満ちていた。
旧暦一四一五年──最愛なる母が逝った。
ジルが十一歳の頃である。
母は病弱な人であった。
されど、無力な自分がしてやれる事など無い。
故に日々祈り続けた。
神へと縋った。
だが、結局は無駄であったと思い知る。
続けて、父が逝った。
戦死だ。
口々に名誉賞賛されようと、それが何になろうか。
少年に与えられた神の見返りは、理不尽な無情のみ。
後見人に引き取られる中、彼の瞳には〈闇〉が芽生え始めた。
篤い信仰心は一転して、神への憎悪へと推移する。
だから、少年は信仰を棄てた。
救済無き信仰など〈呪い〉でしかない。
旧暦一四二九年──百年戦争へと参加する。
看過出来ぬ戦況に自警団を旗揚げした。
私兵とはいえ、局地戦に於ける貢献度は大きい。
フランスの為では無い。
苦しみ喘ぐ民衆の為だ。
そんな中で、後々まで彼の人生観を決定付ける存在に巡り会う。
オルレアンの野原で出会った娘は、自らが受けた〈神託〉を粛々と語り聞かせた。
さすがに訝しんだが、一応は国王への謁見を御膳立てしてやる事とする。
そこで少女は〈奇跡〉を見せつけた。
謁見した王が偽物と見抜き、傍聴へと隠れ紛れていたシャルル七世を見事に言い当てたのである。初面識にも拘わらず……だ。
少女を間者と疑ったが故の奸計──それを知るのは立案者である国王自身と、ジルを含めた宰相達のみ。
何故、それが看破されたのか?
もはや〈神の御使い〉としか思えなかった。
聖少女〝ジャンヌ・ダルク〟との邂逅──それは喪失した信仰心を取り戻すに充分過ぎた。
旧暦一四三一年──百年戦争末期、忌むべき魔女裁判。
激しい混戦下での撤退とはいえ、実に不覚であった。
心酔するジャンヌ・ダルクが、事もあろうに敵陣へと取り残されたのである。
狼狽えながらも、ジルには希望もあった。
英仏間の戦争協定により、保釈金を払えば捕虜は取り戻せたからである。
イギリスより提示された保釈額は、決して払えぬ額ではない。
にも拘わらず、祖国フランスは拒否した。
救国の英雄を見捨てたのである。
この一連で失望した彼は、表舞台から姿を消した。
信仰も愛国心も投げ棄てて……。
隠遁生活の中で魔術師プレラーティが訪れたのは、これより僅か数年後の事である。
「フフフ……思い返せば、実に波乱な人生であったな」
乾いた笑いに己を慰める。
遠くから穏やかな安らぎが近付いて来た。
母だ。
幼くして死に別れた母が、慈しむ微笑みを向けている。
久しく忘れていた膝枕の温もり……子守歌のように頭を撫でる細指──ジルは童心を想起する。
「ああ、そうであったか……ワシが本当に責め殺したかったのは──」
──自分自身。
──幼き日の無力な自分。
──愛しい母を救えなかった後悔。
ようやくジルは、己の真実へと辿り着いた。
殺したかった自分を、児童への拷問行為に擦り変えていたのだ……と。
「……悔いても戻らぬ」
時間も、経歴も、子供達の命も……。
ひたすらに愛しく我が子を撫で、母は頷いた──ジル、もういいのよ。
「嗚呼……母よ」
慕情に差し出した手が、されど届く事など無い。
慈愛に満ちた母は天国へと導かれ、血塗られた自分は無に還るのだから。
闇空を凝視に転がる亡骸へと、勝者は静かに語り聞かせる。
「最初から瞬間霧化が肝だったのさ。その他の大技は、派手な囮だ」脇腹の痕を、鈍い苦痛に押さえた。「もっとも精神集中が儘ならぬ実戦下では、私にしても賭けではあったがな」
それを易々と為せるカーミラの実力を、改めて噛み締める。
視野の片隅で霧散消滅が始まる。
カリナは無関心に踵を返し、その様を見届けようとはしなかった。
好敵手に対する、彼女なりの手向けである。
朽ち逝く死霧が闇空へと拡散し、誇り高い鎧と剣だけが遺った。
闇暦三〇年──ジル・ド・レ、死す。