孤独の吸血姫:~第二幕~白と黒の調べ Chapter.2
ロンドン・シティ居住区──巨眼の月光に浮かび上がるは、旧暦中世を彷彿させる街並みであった。灰色の濃霧は不穏な波間と滞り、相変わらず幽然とした情景を演出している。冷たい心象にある景観は、虚栄の落とし闇に過ぎない。
そんな情緒無き情緒を三人の麗姿が歩む。
カリナに誘われたカーミラとメアリーである。
「窓の灯りこそあるけど、人影が見当たらないわね」
周囲を見渡しつつ、カーミラが漏らす。
人々が住まう窓から漏れる灯火は、相変わらず生活感を押し殺していた。まるで害敵に怯えるかのように……。
「襲われる危険性が分かっていて、出歩くヤツなどいるはずがないさ」
「襲われる? 誰に?」
黒き案内人は答えない。ただ黙々と歩を刻むだけだ。
先導者としての役目から、カリナは数歩先を進む形となった。
例によって片腕には幼女を抱いている。
レマリアはおどおどした目で、顔馴染まぬ同伴を窺い見ていた。どうやら性分の人見知りが生じているらしい。
そうした内向性を熟知しているが故に、保護者は黒外套へと匿い包んでやっていた。
カーミラは腑に落ちないまま話題転換を促す。重い沈黙に堪え兼ねたようだ。
「それにしても、専用外套を羽織るなんて久しぶりよ。今回は、素性を隠す意味合いが強いのでしょうけれど……いわゆる〝お忍び〟ですものね」
御丁寧に着衣ドレスと同色──つまり純白の外套だ。同様にメアリーは真紅となる。品格あるロイヤルドレスの上から鮮やかな外套を纏う姿は、くすんだ俗界には場違いな壮麗さと映った。しかしながら、それは是非を不問とするほど、高貴な存在感を漂わせている。
とりわけ、カーミラの純白装束は優美だ。まるで清廉な女神の婚姻衣装を思わせる。
幾多もの返り血に汚れた黒装束とは正反対だ──と、カリナは軽い自嘲を含んだ。
「一応の保険さ。不測の事態に備えて……な」
「保険?」
またもや解せない回答に、カーミラは怪訝を浮かべる。
「そもそも吸血鬼にとって、専用外套は特別な装身呪具──云わば〝魔力増幅具〟だからな。万ヶ一には役に立つ」
「それって、敵がいるって事?」
「さてな……展開次第だ。如何なる状況へと陥っても不思議ではない」
「だって、シティ内にデッドはいないのよ?」
「非道徳な犯罪者崩れ……ですか」
冷静な口調で見解を挟んだのは、持論との符合を確信したメアリーであった。
「どういう事かしら? メアリー?」
「御報告した通り、近年は不埒な輩が横行し、弱者を物資略奪の標的としています。居住区治安劣化の原因の一環です。しかし、まさか、ここまで閑寂としているとは……」
「脳内シミュレーションと現実では、雲泥差があるという事さ」一瞥を向けるカリナの言葉裏には、冷ややかな優越が含まれている。血統書付きへと一矢報いた満足感であった。野良には野良の利がある。嗜好品を齧り、彼女は続けた。「確かにロンドンの景観は壮観だ。これだけの趣を遺す街並は、各地を流浪する私も見た事が無い」
「そう言ってもらえると、わたしも嬉しいわ。とりわけ、こだわった要素ですもの」
「だが、それだけだ」
「え?」
「中身は変わらん。結局は支配者側の独善を具象化した虚栄さ。言っただろう……このロンドンは〝張り子の虎〟だと」
「それって、わたしの配慮が〝ワンマンな偽善〟でしかないって意味かしら?」
カーミラの声音が、静かに不快感を含む。
「そう以外に、どう聞こえるよ」
「衣食住──その全てを補い、援助もしているわ。それに彼等への不当な扱いも許してはいない。他国と違って〝人権〟を尊重していますからね」
「御自慢の配給物資なら届いていないぞ」
「何ですって?」思わず耳を疑った。続けて彼女を支配するのは、隠しきれない動揺。「そんなはずは……だって、ちゃんと衛兵達に指示して」
「疑いも無しに信頼したってか? 監督不行き届きだな。末端とて人間──おっと〈吸血鬼〉って事さ」
「だって吸血鬼に、人間の食料なんか意味は……」
「まさか、等価交換を?」逸早く認めざるべき現実を把握したのは、メアリーの方であった。未だ実状を悟れぬ主へ、深刻な抑揚で解説する。「食料は人間達に需要があります。慢性的に不足しているなら、多少高値でも買う事でしょう。そこに目を付けた商人には、品薄な人気商品を安定して調達できるバイヤーも重宝される。その謝礼がバイヤーにとって需要のある物ならば、別に金銭でなくとも非合法な商談は成立します」
「例えば〝瓶詰め血液〟とかな」御名答とばかりに補足するカリナ。「後は、その腹黒いサイクルが繰り返されるだけだ。腐敗と腐敗は結託しやすい」
「支援物資を横流しに? そんな事、許されるわけが」
「知られなきゃいい」
未熟な領主の瞳を正面から見据え、冷徹に言い捨てる。
先程までの挑発を帯びた皮肉から一転し、その表情は重々しい真剣味に引き締まっていた。
「じゃあ、人間達は?」
「貧困に喘いでいる」
「……そんな」
ショックであった。
まさか自分が預かり知らぬところで、そのような不正がまかり通っていようとは……。
カーミラの心情を無視して、カリナが続ける。
「もっとも、我々には関係ない事だがな。人間共が野垂れ死のうが〝血税〟さえ搾り取れれば、別に良かろう? 何なら、もっと税率を上げてやるか? まだ搾れるぞ、アイツ等」
「そんな酷い事を……よく言えたものね!」
憤りが激昂と沸き立つ。
それでも無遠慮は、悪意の囁きを止めない。
「キサマ等は潤うぞ? 詭弁塗れに騙した愚民を貪り潰すのは、旧暦時代から支配階層の特権だろうよ。人間社会の政人共は、ずっとそうしてきたはずだ。厚顔無恥にもな」
「わたしは……わたしは、ただ……」
ただ人間と共存できる社会構図を築きたかっただけ──そう主張したくとも、それ以上は口に出来なかった。
現実、彼女が想い抱いてきた理想郷は〝机上の空論〟に過ぎなかったのだから。
自分が〝ローラ〟と過ごした麗らかな日々──。
初めて抱いた〈人間〉への慕情──。
そうした想いの具現化を志せばこそ、不本意な地位にも甘んじていたというのに。
唇を噛む失意へ、手厳しい嘲りが更に追い打ちと向けられる。
「オマエが見ているのは、自尊的な幻想だって事さ……〝自己愛〟と言い換えてもいいがな」
「……やめて」
「何を起点としているかは知らんが、結局は〝それをしてやっている〟という己の行為に酔っていただけなのさ」
「やめなさい! カリナ・ノヴェール!」
容赦ない口撃を受け続け、遂に琴線が切れた!
反目する二人を不穏な渦が包み込む!
比喩ではない!
発散される魔力と妖気が周囲の霧へと干渉し、嵐雲のように吸血姫達を取り巻き始めていたのだ!
「カーミラ様! カリナ殿!」
荒れる台流に圧されながらも、メアリーが制止の声を張る!
もっとも、それが中核へと届く事はない!
カーミラの瞳が冷たい金色に染まり、カリナの瞳が情熱に飢えた紅へと染まる!
この不穏な流れを変えたのは、意外な伏兵──レマリアであった。
幼女は唯一、緊迫した状況を理解していない。
ただ、カリナが意地の悪い表情を覗かせている事だけは分かった。
それは、レマリアが嫌うものだ。
戦意に酔う邪笑を仰ぎ見つつ、大人を真似た口調が咎める。
「カリナ、メッよ?」
「…………」
「ケンカするの、メッよ?」
「……わかったよ」
幼い保護者に諫められ、カリナは我を鎮めた。
普段とは逆転した立場だ。
彼女の周囲へと渦まく霧が緩やかに拡散していった。
それを見定めると、カーミラも臨戦の気構えを解く。
とりあえずの事態回避に、メアリーは胸を撫で下ろした。
もしも両者が刃を交えれば〈吸血貴族〉たる自分ですら手が出せなかったであろう。
俄に信じ難いが、それほどまでに潜在魔力は拮抗していた。
「レマリアに感謝しろよ」
捨て台詞気味に言い残して、カリナは歩を再開する。
取り残されたカーミラは、その後ろ姿を沈思に見つめていた。
「カーミラ様、大丈夫ですか」
「ええ」
視線を逸らさず、平静に答える。
その黙視をメアリーが追った。
街路の闇に呑まれていく黒外套。
とはいえ、後追いできぬ距離ではない。
そもそも今回のカリナはガイド役だ。彼女達を置き捨てて行くはずもない。
「それにしても、無謀な……カーミラ様に正面から楯突くとは」
「そうかしら?」
カーミラは黙し、それ以上は語らない。
ただ、眠れる餓獣が消えた闇を見据えるだけだ。滅多に味わった事も無い疲労感を噛みつつ。
「レマリアに感謝……か」
「そういえば、そのように言っておりましたが……その〝レマリア〟とは?」
戸惑うメアリーの質問に、ようやくカーミラは普段の柔和な微笑みを返した。
「その事は、わたしに任せておいて。それと〈レマリア〉の事は他言無用で御願い。カリナ相手でも、その事に触れるのは好ましくないの」
「はあ、それは構いませんが……」
釈然とはしない──メアリーの表情は、それを明らかに含んでいた。
そんな彼女の様子を見て、少女領主は小悪魔的に微笑する。
「さ、行きましょうか」
無責任な引率が消えた闇へと、二人は遅れて足を踏み入れた。
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