孤独の吸血姫:~第二幕~白と黒の調べ Chapter.6
紫翼は墜ちた。
宛ら、天界から追放された堕天使の如く。
否、そんなに尊厳めいたものではないだろう。
単に闇空から滑り落ちる投棄物だ。
地表へと叩きつけられた衝撃に、夥しい土煙が渦の幕と広がる。
その渦中で鳴った骨身が潰れる不快音は、爆発的な轟音で掻き消された。
「が……は…………」
地面を抉るクレーターの中央で、起点たるエリザベートが瀕死の苦悶を吐く。
半身をめり込ませた彼女を核として、無数の罅が力強く放射状に伸びていた。
墜落衝撃の凄まじさが察せるというものだ。
全身が砕骨しているのが自覚できた。
内蔵も殆ど破裂している事だろう。
にも関わらず、彼女は死んではいない。
虫の息ながらも息絶えてはいない。
ここに於いて〈不死者〉の特性が恨めしかった。
死なぬとは言ってもダメージはある。
現状、小指ひとつ動かせなかった。
明らかな致命傷過多だ。
さりとも棺で再生休眠していれば、数日で復活できるだろう。
それが〈吸血鬼〉の特性だ。
しかしながら、それが叶うはずもない。
むざむざと敵が見逃すはずもないのだから……。
気配を感じた。
異なる方向から、ふたつだ。
ひとつは、自身が転落した上空からフワリと柔らかく舞い降りて来た。
もうひとつは、コツリコツリと冷たい足音を響かせ歩いて来る。
それらが誰かは言うまでもない。白と黒だ。
「エリザベート……」
視野の外からカーミラが呼び掛けてくる。
温厚な口振りからは、明らかな哀れみが汲めた。
未だ朽ちぬ自尊心には屈辱的だ。
言葉交わす宿敵を睨みたくもあったが、瀕死の身体では生憎と首を動かす事も叶わぬ。
「いまにして思えば、露骨に悟れる手数は誘うための揚動であったか」
「ええ。貴女が推察した通り、わたしは左腕を負傷していた。その時点で、左腕は餌と割り切ったのよ」
「何故、詰めは借り物で? 愛用の茨鞭ではなく……」
「密着体勢では鞭なんて使えないわ」
「成程……最初から連携の奇策有りきであったか」
「まさか? カリナの助太刀は咄嗟の判断よ」
「何?」
「ああ、思いつきで投げてやっただけだ」
醒めた口調は、カリナ・ノヴェールのものであった。
「カーミラがキサマを縫い付けた時点で、何を姦計しているかは大方察しがついたからな」
「あら、以心伝心ね。察してくれて嬉しいわ」
「ぬかせよ。どうせ最初から、己の右腕を杭とするつもりだっただろう」
愛らしい白の微笑みを、黒が無愛想に避わす。
「もっとも、アレを使いこなせるかは賭けだったがな」
挑発めいて含み笑うカリナ。
その品定めに似た視線が、カーミラには意地悪くも思えた。
気持ちを切り替えた少女盟主は、再びエリザベートへと関心を移す。
「エリザベート・バートリー──貴女は軽視できない切れ者。わたしは常々、そう思っていたわ」
「……随分と買い被ってくれたものだな」
「真性の武闘派であるジル・ド・レ卿には、武力面では及ばないでしょう。けれど、メアリー一世と五分に渡り合えるだけの実力と知慮を内包している。そんな好敵手を相手取るには、虚を突く奇策が必要だと判断したの」
「好敵手……か」
宿敵が無作為に発した言葉を拾い、強く噛み絞める。
エリザベートにしてみれば、カーミラ・カルンスタインは徹底的に疎むべき仇に過ぎない。
だが、カーミラの方は、そんな自分を尊重すべき〝個〟として見ていたという事だ。
(……器が違うたか)
認めざる得ない──遅過ぎではあったが。
妖妃が永らく抱いていた野心は、いま此処に潰えた。
もはや未練すら無意味だ。
「さあ、殺すがいい。覚悟はできている」
「殺すのは構わんが、その前に訊いておきたい事がある」
カリナが尋問を向ける。
その声音は、あくまでも冷淡であった。
「訊きたい事だと?」
「キサマは先程〝ドロテア〟と叫んでいたな。察するに従者の名だろうが、何者だ?」
「クックックッ……そんな事か」
「ああ、そんな事だ」
互いに交わす乾いた探り笑い。
ややあって、エリザベートは素直に語り出した。
このような結末になっては、私事情報を隠匿する事に意味など無い。
何よりも、自分を見捨てた裏切り者へと一矢報いたい思いもあった。
「アレは生前からの従者よ。黒魔術の師事がために、我が雇うた。我を〈吸血鬼〉へと誘った者でもある。以来、ヤツは我の片腕として付き従った。もっとも、最後には見限ったらしいが」
「そいつ自身は〈吸血鬼〉ではないのか?」
「違うな。ヤツは〈魔女〉──即ち、大別的には〈人間〉だ。ただし、その実力は本物だがな」
「〈魔女〉……か」
推察するに、今回の謀反騒動には大きく一枚噛んでいる──下手をすれば黒幕だ。
エリザベート自身に野心があったにせよ、それを賢しく利用したに過ぎないのだろう。
利害合致や忠誠心があれば、主人の勝負所で雲隠れなどしない。
そう確信を抱きながらも、カリナは口にせず伏せた。
眼前で絶えようとしている敗者に対する、せめてもの手向けであった。
各人の黙考が、暫しの静寂を生む。
それを緩やかに破ったのは、諭すように柔和な抑揚であった。
カーミラ・カルンスタインである。
「ねえ、エリザベート? もう一度やり直せないものかしら?」
「……何?」
「確かに思想や理念で、わたしやメアリーの対極にあるかもしれない。けれど、貴女ほど有能な人材は惜しいと思うのよ。だって、そうでしょう? なあなあと同調しただけのぬるま湯では、更なる意識向上は望めないもの。そうした見地も、また一石を投じる貴重な意見。最近は殊更にそう考えるようになったわ」
述べつつ見遣る相手は、近況で一番の不穏分子。
「……私を見るな」
意味深な視線に気付いたカリナは、不貞気味に顔を逸らした。
「敢えて〝毒〟となれ……と?」
「言葉は悪いけれど」
「……どこまでもアマいな、カーミラ・カルンスタイン」
なけなしの反骨で悪態をつきながらも、いまのエリザベートには温情が痛かった。
身中の虫ですら蟲毒と受け入れる器量は、エリザベート自身には無い。
彼女の根底を成す自尊心と憎悪──それを軟化させていく慈母的な安らぎ──そして、そんな心情変化を頑として認ようとしない拒絶と敵意。
それらが混然となって、彼女の情緒を攪拌する。
短い沈思の後、敗将は決断を呟く。
「…………行け……捨て置け」
「エリザベート?」
「謀反者と裁く気も無ければ、我が軍門に下る気も無いと言う……そんな生殺しの晒し者にするぐらいなら、せめて無価値な屍と捨て置け」
次期盟主の野望は潰えたとしても、己の軌跡を否定する気など無い。
それでは、心底から醜過ぎる。
謀反者の意地を逸早く察したのは、孤高を我が身と知るカリナであった。
だからこそ、黒の魔姫は無関心を装って踵を返す。
「……行くぞ」
「カリナ?」
あまりに淡泊な対応に戸惑うカーミラ。
既に足早く先行した黒外套を後追いに駆け、白の吸血姫は酌量を訴えた。
「待って、カリナ! あのまま放置していては、エリザベートは……」
「最悪、朽ちるだろうな」
懸命に訴える顔すら見ず、カリナは黙々と歩き続ける。
「棺で再生休眠を採れば復活もできようが、床土すら無い野外放置では再生能力の発現は芳しくない。総ては負傷程度と個人の魔力にもよるが、あの具合では……な」
「それが分かっていて、何故?」
「分かった上でヤツは選択した。本人が下した決断に、我等がとやかく言う筋はあるまいよ」
「けれど!」
諦めの悪い温情を一瞥し、カリナは冷たい言葉に突き放した。
「オマエの甘言に乗るような恥れ者なら、私が斬り捨てている」
どこか寂しさを孕んだ口調に、カーミラは思い出す。
望めど叶わず死んでいった連中の無念を腐るほど見てきた──かつて、カリナが吐露した言葉だ。
故に、それ以上は食い下がるのをやめた。
現状に於いて誰よりもエリザベートの心境を理解しているのは、幾多の〝死〟を見てきたカリナ自身なのだから。
後ろ髪を引かれる思いであったが、二人の吸血姫達も、また誇り高き選択を下したのである。