孤独の吸血姫:~第一幕~鮮血の魔城 Chapter.4
不気味な静けさが漂う濃霧の街路。
陰気な月明かりに照らされた居住区画で、その人影は幽鬼の如く浮かび現れた。
艶やかな黒髪が腰丈まで流れ、肌の褐色は生気溢れる濃さに染まっている。黒衣の長外套で身を包み、四肢や胸元には見るからに呪具性を帯びた装飾具。口元をヴェールで覆い隠し、それ故か眼力を宿した赤い瞳は一層印象深く覗いていた。
名を〝魔女ドロテア〟と言う。
「……臭うな、死が」
油断ならない狡猾な瞳が、周囲の光景を観察に滑る。
不鮮明な直感へ誘われるように、魔女は路地裏へと足を踏み入れた。
黒猫が威嚇に横切る。幸先がいい。
住民達からも敬遠されているであろう暗がりには、陰湿な不気味さが漂っている。魔物の涎の如く滴る湿気が、邪悪な同胞として彼女を歓待していた。
微かに感じる死臭と血臭。
深部へ進むにつれ、直感が確信へと変わっていく。
「……やはりな」
やがて見つけたお宝は、絶命に呪詛する死体。
その側にはジャックナイフが転げ落ちており、これが抗戦時の獲物だった事が判る。
「……フッ、貧弱な牙だ」
石道に染みる血痕の滑りから、さほど時間が経過してないようだ。
横たわる死体の損傷具合は、出血量の痕跡に反して外傷が一ヶ所しかない。
即ち、心臓だ。
そこを無駄なく一刺しにされている。
つまり──好都合な素材ではあった。
「肉体破損も少なく、本格的な腐敗も始まってはいない。これほど状態のいい死体は、そうそう有るまい」
赤い目が喜悦に歪む。
翻す長外套の内側から取り出すのは、毒々しい液が詰まった薬瓶。
死体蘇生の魔薬──即ち〝魔法薬〟である。
「最も一般的に知られるゾンビ作成方法は、ブードゥー教の秘薬〝ゾンビパウダー〟によるものだろう。だが、あれはブードゥー教の闇〝邪神官〟が用いる秘薬であり、製薬方法や調合成分等は極秘とされている。一時はテトロドトキシンによる仮死催眠効果が有力視され、それこそが真相とばかりに俗説へと流布した経緯もあったな。著名学者による学説だったからだ。しかし──」ドロテアは鼻で笑う。「──それを疑いもなく鵜呑みにできる俗物博識の、なんと浅はかな事か」
それは数有る諸説の中でも一仮説の域でしかない。
真偽実態は不明なままなのが実際の処だ。
「そもそもゾンビ製作は、ブードゥー教に於いても外法の類だ。従って、その詳細が不透明なのも当然。呪法に精通した我自身とて、真相解明には辿り着いていないのだからな」
故にドロテアが行使しようとしている蘇生術も、ゾンビパウダーに依存するものではなかった。
西洋黒魔術に準じた方法だ。
「ゾンビ蘇生の根元は、ブードゥー観念に於ける自然界の精霊──蛇精だ。それが肉体憑依する事で、自我も魂も内在しない従順な傀儡となる」
男の爪を一枚剥ぎ、魔薬へと漬ける。
更に、自らの髪の毛を一本混ぜ加えた。
「云わば、本質は蛇精そのものであり、術者はそれを使役しているに過ぎん。根元的観念は西洋魔術に於ける〝四大元素精霊〟や〝使い魔〟と変わらぬ」
薬瓶を睨みつけるように早口な呪文を浴びせ続け、その効用を熟させる。
やがて沸々と禍々しく泡立ち始めたそれを、彼女は死体の口へと流し込んだ。
「所詮、肉体は〝器〟だ。単に有るだけでいい」
一般には知られていないが、実はゾンビパウダー以外の蘇生外法もブードゥー秘術にはある。
それは〝悪魔との契約〟だ。
誓約や方法手順も西洋黒魔術のそれと何ら変わらない。
ともすれば、その方法こそは〈魔女〉たるドロテアに最も適していると言えるだろう。
「肝心なのは、方法ではない。結果だ」
赤蝋棒で自らを中心とした六芒星の円陣を描いた。
召還悪魔から我が身を守る結界だ。
死体を前に瞼を綴じ、儀式に要する呪印を結う。
「契約悪魔は、誰でも良いだろう。望む魔力さえ秘めていれば……な」
ドロテアは〈悪魔バフォメット〉とした。
誰しもが絵画等で一度は〝雄山羊頭の悪魔〟を見た事があるだろう。
それこそが〈悪魔バフォメット〉── 主に〈魔女達の宴〉を取り仕切る悪魔で、比較的ポピュラーな存在だ。
「ガ・ディタス・バフォメット……ガーノ・イベリム・バフォメット…………」
念を込めた呪文をひたすらに唱え続けると、眼前の肉塊がビクリと大きい波を一打ちする!
ここぞとばかりに、ドロテアの詠唱は語気を荒げた!
早く!
強く!
「ガディタス・バフォメット! ガーノベリム・バフォメット! レタルファクル・バフォメット! アレティト・バフォメット……」
激しくのた打ち踊る死体!
まるで、目に見えぬ拷問を受けているかのように!
責める!
のた打つ!
唱う!
波打つ!
自身と死体が、自然の理に反した格闘を繰り広げる!
その悪夢的光景は、さながらトランス状態に乱れ狂う原始宗教の宴だ!
「アレティト! プラエス! ガディタス!」
一際大きな気合と共に、ドロテアは仕上げの一手を積み上げた!
所作にして派手さはないが、込められた呪念は最も大きい!
一転して訪れる静寂──やがて、ゆっくりと死体が起き上がった。果てぬ眠りから目覚めたかの如く。
斯くして、男は蘇った。
否、その魂無き肉体のみが……。
悪漢達が集う掃き溜まりという場所は、何処にでも自然発生するようだ。シティ内であっても例外にない。
此処〝黒鴉亭〟も、そんな酒場だった。
シティ居住者達であっても近付く事を躊躇する、治安の悪い区画である。非道徳と悪徳が行き着いて築いた歓楽通りだ。
居住区を管理統治する幹部吸血鬼達から見落とされているのは、その情報網の末端を担う衛兵吸血鬼にも此処を好む荷担者が少なくないからであろう。小悪党同士の結託による隠蔽工作だ。
その黒鴉亭の奥まった円卓に彼等は陣取っていた。
品の無い喧噪で店内が賑わう中、彼等はポーカーに興じている。酒気と煙草が不快な空気と濁り漂っていた。
「キルヴァイスの奴、遅かねぇか? いつもなら、とっくに来てるはずだってのによぉ」
如何にも三下染みた出っ歯が切り出す。吟味する手札は悪い。
「コール──何が言いてぇ? 奴さんが返り討ちにでも遭ったってか?」
粗暴な印象の髭面が一瞥し、ヘビースモーカーの紫煙にカードを捨てた。
酒をあおる眼帯男が思わず吹き出す。
「プゥ……無ぇ無ぇ! アイツがテメェより強ぇ奴を相手にした事があるか? 俺に言わせりゃ、アイツがズバ抜けてるのは殺人技巧じゃねぇ。その御都合主義な嗅覚の方だぜ?」
「そういう事だ──と、フルハ~ウス!」
「なに? カァ~……カードの巡りが悪ィ!」
掛け金代わりの回収される食糧。
これも結局は〝狩り〟で強奪した戦利品だ。
「けどよ、こうした時のオイラの直感は、だいたい的中するんだぜ? だからこそ、窃盗技能しか能がないオイラが暴力的な暗黒街を生き長らえる事が出来たんだ」
出っ歯は、何となしに店内を見渡す。
茶番的なポーカーになど興味が湧かなかった。
生来臆病な気質のせいか、どうにも安心できない。
すると、そこに知った顔を見付けた。
「あ、キルヴァイス!」
髭面と眼帯が視線を追う。
確かにキルヴァイスが、そこにいた。
「たったいま来店したようだな。入り口付近の人混みに呑まれてやがる」
「へっ……だから言わんこっちゃねぇ」
すぐに関心を捨て、ポーカーへと再没頭した。
だが、出っ歯だけは手札を投げ捨て、久しぶりの再会へと駆け出す。
自身の安心を確定したい衝動であった。
結果を逸る気持ちには、無遠慮な雑踏が障害となって鬱陶しい。人影に隠れては現れる姿を見失わないように集中し、もみくちゃにされながらも泳ぎ進む。
「ぐっ……あと少し…………」
ようやく開けた空間へと辿り着くと、大きく息を喘いだ──と同時に、突然響く断末魔の悲鳴!
水を打ったように店内が静まり返る。
誰しもが異状を感じた方向へと振り返っていた。
「な……何だァ?」
出っ歯にとって不幸だったのは、惨劇の最も近くで一息ついていたという事か。
彼の眼前に、何かがゴロンと転がった。
「ひ……ひぃぃぃ?」
あまりに陰惨な形相に思わず顔を背ける!
それは女の生首!
店内で客引きをしていた娼婦の首だ!
それでも、なけなしの勇気を奮い、薄目に状況把握を試みる。
彼が追い求める目的の男は、すぐ側に立っていた。
しかし、どこか変だ。
その要因を観察に探る。
自失呆然としたように立ち尽くす姿からは、従来の活動感──狂気めいた生気と言い換えてもいいだろう──が感じられなかった。
その目付きは虚ろで、何処を見ているか焦点も定かにない。
そして、その手にしているのは、彼愛用の獲物ではなかった。
衛兵吸血鬼達が携えている簡易魔剣だ。
斜に下ろされた刃からは鮮度ある赤が滴っている。
それで、ようやく事態が呑み込めた!
この惨劇を起こしたのは、キルヴァイスだ!
理由は解らないが、彼は娼婦を殺したのである!
それも店内で堂々と!
「キ……キルヴァイス?」
驚愕に乾いた声を漏らすと、淀んだ眼差しと目が合う。
それが最期の視覚情報だった。
次の瞬間には、彼自身の頭が飛んでいたのだから!
「キルヴァイス! テメェ?」
「トチ狂いやがったのか!」
奥の卓で状況を窺っていた髭面と眼帯が、怒号に席を立ち上がる!
だが、彼等にしても未だに信じられなかった。
確かにキルヴァイスは、常軌を逸脱した危ない奴ではあった。
けれども、さすがに誰彼構わずではない。
殺るべき相手と殺るべき場所は弁えている。
同胞とも呼べる黒鴉亭の人間に手を掛けるほど馬鹿でもない。
況してや、連む仲間までは!
他の破落戸達も、ようやく狂人への殺気を露にした!
これから始まろうとしているのは、彼等なりのルールに乗っ取った粛正!
逸った誰かの銃が、キルヴァイスの両足を撃ち抜く!
「バ……馬鹿野郎!」
眼帯が罵倒を吼えた!
臨戦覚悟ながらも、まだ〝仲間〟として案じていたらしい。
が、それも無駄だった事を髭面が諭す。
「どうやら心配いらねぇようだぜ……アレを見な」
キルヴァイスは傷を物ともせずに歩いていた。
更に一発……二発と打ち込まれる銃弾は、もはや部位を選んでいないというのに!
衝撃に反りながらもユラリユラリと前進を刻む。
その動きは歪でぎこちないが、確かに見覚えがあった。
「まさか! あの野郎、デッドに?」
「さぁな。何にしても、アレはもう〝キルヴァイス〟じゃねえって事さ」
冷酷に割り切りつつ、髭面はコルトパイソンに足りない数の弾丸を込めた。人外を相手にする以上、最大限の武装で望まなければ死が待っている。
眼帯も腹を決めたようだ。投擲用の毒ナイフをズラリと五指の間に抜き揃える。
不気味に唸る死人返りが、近場から次々と斬り捨て始めた!
動作そのものは緩慢ながらも、躊躇無き凶刃から逃れられる者はいない!
血飛沫!
肉片!
断末魔!
それは〈悪魔〉が強いた狂宴!
「アディオス! クソ野郎!」
眉間へと狙いを定めたコルトパイソンが、遠巻きに火を噴いた!
黒鴉亭が鎮静化するまで、二〇分足らず──。
宙に浮遊した魔女は、眼下の静寂を眺める。
命の鼓動が完全に絶えた酒場を……。
「……御し易い」
思った以上に傀儡は操り易かった。
その成果は〝新たな素体〟の大量入手が立証している。
後は魔術を行使する時間だけが欲しい。
数多くの屍兵を増産する時間だけが……。