孤独の吸血姫:~第三幕~醒める夢 Chapter.2
カリナの疲労はピークに達していた。肉体的に……ではない。精神的消耗だ。
そもそも〈吸血鬼〉は〝死人返り〟であると同時に〝幽鬼〟の類でもある。スタミナによる束縛など無いに等しい。
されど〝心〟は、そうではない。
「何処だ……何処に行ったんだ……レマリア」
回廊の石段へと腰掛け、呟き耽る。
まるで不安定で脆い印象であった。普段の孤高は見る影も無い。
現在の彼女は、単に無力な少女に過ぎない。
そもそも悲劇の発端は、カリナが自室を離れていた事に遡る──即ち、ジル・ド・レ率いる防衛部隊が出陣した直後だ。
興の臭いを嗅ぎとった黒の吸血姫は、好奇心のままに城外へと飛び立った。城壁の天辺で足組ながらに腰掛けると、冷ややかに眼下を眺める。喧噪けたたましい下界には、既に苛烈な戦いが展開していた。不毛な潰し合いは、単に柘榴の肴でしかない。
「まるで蟻の縄張り争いだな」
高見に観察する黒集りは、カリナの目にそう映った。
頻りに散る赤花だけは華々しいが……。
「さてと、御手並みを拝見させてもらうか」
吸血貴族達の迷走を期待し、攻撃的にほくそ笑む。
戦況などは、どうでもいい。ただの退屈凌ぎだ。
「片や選民意識に溺れた死体、片や自我損失に動かされる死体──どちらにせよ、殺し会うのは〝死体〟同士だ。そして、生き残るのも〝死体〟……滑稽だよ」
嘲りに満ちた達観を漏らす。
別段〈不死十字軍〉へと加勢する気など無い。どのみち、自分は招かれざるべき部外者だ。
と、尾を靡かせながら飛来する幾条もの紅蓮!
火矢だ!
敵陣後方からの遠距離攻撃である!
次々と射られる炎の加勢!
それさえも、カリナは冷静な分析で片付けた。
「デッドと違い、ゾンビには道具を使う応用性がある。それを課す指示者がいれば……な」
仮に吸血鬼の城が陥落しようと、無頼者の自分には影響など無い。
堅固な石壁に阻まれ、火矢が落ちていく。
奇跡的な流れ弾が、カリナへと目掛けて飛んできた。
しかし、彼女は微動だにしない。微かに顔だけをずらして避ける。脆弱な炎がチリッと頬の横を過ぎた。
「投石機でも据えれば良かろうよ」
数本は窓から城内へと飛び込んでいたが、だからといって戦局を覆す事などあろうはずもない──そう高を括っていた。
直後、城内からの炎上!
勢いに息吹いた炎が、窓から雄叫びを上げた!
「何っ?」
予測外の事態である!
悪運強く部屋へと辿り着いた火矢が、可燃性の内装へ引火したに違いない!
瞬時に脳裏を過ぎったのは、何よりも優先されるべき保護対象──レマリアの存在!
「マズい!」
判断も束の間、無数の炎が降り注ぐ!
敵は休む間すらなく放ち続けた!
次々と容赦無く撃ち込まれる灼熱の流星群!
「チィ、確実に城窓狙いか……有効策と判断したな!」
種火と種火が互いに助長し、巨大な轟炎へと化ける!
外敵を堅固に退け続けるロンドン塔は、しかし内部から蝕まれていた!
一際大きい爆発!
城郭の一部が吹き飛ぶほどの威力であった!
「クッ! 火薬庫でも誘爆したか!」
それが何処に在るかなど知らない。知ろうとする気さえ起きない。どうでもいい情報だ。
肝心なのは、その炎害が我が子へと及ぶ危険性!
城塔の一角から、爆音を帯びた巨炎が生まれ弾けた!
頑強な石壁が内側から瓦解する!
それは、カリナの恐れる箇所──即ち、自室の近くだ!
「レマリアァァァアア!」
噴き昇る熱風を孕み、黒い外套が魔翼と膨れる!
それを滑空の術と転じ、カリナは城壁から飛び降りた!
「いま行くぞ! レマリアァァァアア!」
渾身の叫びに大きく旋回すると、防壁を貫いた穴から内部へと潜り入る!
到達した先は、まるで爆撃跡のように崩壊していた。状況把握に左右を見渡すも、焦臭い粉塵が見通しの邪魔をする。普段ならば霊気漂う陰湿な通路は、破壊の痕によって荒々しく賑わっていた。中には通路幅の大半を占拠する瓦礫も有り、爆発被害の深刻さを物語っている。
「クソッ! 無事でいてくれよ、レマリア!」
武骨な進路障害を物ともせず、カリナは駆け抜けた。ひたすらに目指すは自室──それ以外に関心は無い。
もはや戦の顛末など、どうでもいい!
吸血鬼だろうとゾンビだろうと、好きに死に残れ!
件の爆発は、やはり自室付近にも被害をもたらしていた。
半壊した部屋の扉が視野に入ると、カリナの疾走が拍車を増す。
「レマリア!」
室内へと飛び入ると同時に叫ぶ!
瞬間、愕然と立ち尽くした。
あまりの惨状である。
チロチロと目障りな息吹。可燃性の餌に爆炎の子供が貪りついていた。崩れ倒れた石壁が、全てを重圧に潰す。意匠に凝った家具類も見事に粉砕し、いまや木材の屑でしかなかった。
視界が悪い。濛々とした煙が滞っているせいだ。
「レマリア! サリー! 何処だ!」
「ぅぅ……」
虫の息を気配に感じた!
「サリーか?」
血の匂いを頼りに捜索すると、老婆は大きな瓦礫の下に埋もれていた。
鎮座する障害物を片腕払いに退ける!
華奢な腕とはいえ〈吸血鬼〉の腕力は超人的だ。
「ぅぅ……ぁぁ……カリナ様?」
引き摺り出されたサリーが、霞む意識に主を認識した。
見るも痛々しい無惨さだ。右腕は引き千切れ、両足も膝下から潰されている。
「サリー、しっかりしろ!」
「ぅ……」
「レマリアは……レマリアは、どうした!」
「ぅ……ぁ……」
どうやら言葉を紡ぐ事も儘ならない様子だ。いや、そもそもカリナの訊い掛けすら、耳に届いてないのであろう。それほどの重傷だった。
これ以上は酷と悟り、カリナは質問を中断する。
それよりも、現状で優先すべきはサリーの救命処置だ。
「待っていろよ、いますぐ屍棺安置室まで運んでやる」
肩を貸して担ぐと、彼女は荷重を負って歩き始めた。
この重みは、そのまま命の重さだ。
数少なくも心許した存在だ。
失いたくはない──否、失ってはならない。
現ロンドン塔の地下には、幾つかの増築施設が在る。
全て〈吸血鬼〉の必要性によって要求されたものだ。
それは糧を貯蔵する〈血液貯蔵庫〉であり、或いは血液搾取用人間を捕らえた牢獄であった。
此処〈屍棺安置室〉も、そうした一環となる。過剰ダメージを負った〈吸血鬼〉が、再生休眠を試みる場所だ。言うなれば、彼等の〝集中治療室〟というところか。
石造りの部屋は陰気な冷涼が支配していた。光源と照らすのは、古ぼけた蛍光灯。そのせいか、弱々しくも薄暗く浮かび上がる。色濃く充満する鉄分臭は、言うまでもなく血の匂い。床一面を埋め尽くす無数の棺桶は、規律然とした列構成で安置されていた。奥行きに連れて暗くなるため、部屋の端を見通す事は難しい。
戸口の脇へと据えられた樫卓には、青年吸血鬼の姿が在った。見た目にも明らかなティーンエイジャーである。外見に限っては。
彼──〝マーティン・エドワード〟は、此処の管理番であった。
青年吸血鬼は文庫本の黙読へと耽入り続ける。それだけ暇な部署という事だ。彼にしてみれば、日課として課せられた時間の浪費でしかない。
「無理解の果てに蓄積していく社会的阻害感と、それが暴発した激情か──宛ら〝ムルソー〟の孤独は、僕達〈吸血鬼〉が内包する心情と似通い過ぎているな」
小説の主人公へと感情移入を漏らす。
「もっとも、僕達は死後転生する事で柵から解放されたけど……果たして、それは幸いだったのか不幸だったのか」
皮肉な顛末を自嘲に乗せた。
「人身堕落と引き替えに得た物は、永劫に死ねない無限地獄だ。如何に辛い現実が在ろうとも、直視して生き続けなければならない。或いは、それこそが摂理に反した者への神罰かもしれないな……」
直後、けたたましく叩かれる樫戸。
ささやかな楽しみを阻害され、彼は溜め息混じりに『異邦人』を閉じた。
物臭に扉を開ける。
と、青年は思わず息を呑んで見惚れた。
戸外に立っていたのは、黒外套の少女。艶やかな赤髪のツインテールがキュートであった。しかしながら、未成熟さが残る顔立ちには凛然とした気高さが共存している。
彼女が肩を貸しているのは、肉塊寸前の老婆──血塗れで、四肢の損傷も激しい。右腕が千切れていたが、それは少女が持っていた。
ツインテールの少女は、鋭い口調で簡潔に言い放つ。
「スコットランド、グラスコー地域だ!」
「何だって?」
「床土だ! 早く用意しろ!」
器量の足りない管理番に、カリナは切迫を叫んだ!
気圧されたマーティンが、たじろぎつつも応対する。
「ああ……いや、用意するまでもなく有るよ。此処には在城吸血鬼の床土を敷いた棺桶が、常時保管されているからね。幹部吸血鬼たちは、各自の部屋に個人所有しているけれど」
「能書きはいい! 何処だ!」
「中央の列、奥から六番目……」
聞くが早いか、カリナは連続した跳躍に突き進む。他の棺は踏切扱いだ。
「コレか!」
目的の棺を手早く見つけると、まどろっこしさに蓋を蹴り跳ねた!
老婆と右腕を棺内へと納め、次の手順を語気荒く指示する。
「血だ! 再生用の血液を注げ!」
「そんなに焦らなくとも、すぐに出来るよ。血のバケツで運ぶわけじゃないんだから」
マーティンは壁に通る金属管へと向かった。その脇にフックしてある大口径のホースを取ると、老婆の棺へと凭れ差す。再び管まで戻ると、据えてあるバルブを捻った。
ホース先端から流れ出る毒々しい赤。同時に、鮮度高い鉄分臭が室内へと充満し始める。
「この供給管は貯蔵血液庫に直結してるからね。即時対応可能なのさ」
カリナは無視に徹していた。深刻な面持ちで見つめるのは、なみなみと注がれる貯蔵血液。
「サリー、暫く我慢しろよ。直に傷も痛みも癒える」
慈しむ鼓舞を残して、彼女は棺の蓋を閉めた。
踵を返す黒姫をマーティンが後追いする。
「ねえ、キミ?」
「なんだ」
振り返りもせずに無愛想を返した。
突っ慳貪な態度にも心折れず、青年吸血鬼は続ける。
「本気で言ってるのなら申し訳ないけれど、彼女は相当な深手だ。だから、その……再生する可能性は低い。気休めでしかないよ」
「知っている」
「知っているだって?」
「そもそも〈吸血鬼〉という身に於いても、サリーの魔力底値は低い。況してや老体では厳しいダメージだ。確率は五分以下だろうよ」
「それが判っていて、何であんな?」
立ち止まったカリナは、苛立ちに睨み返した。
「キサマなら言えるのかよ──救かる見込みは低い……などと!」
胸ぐらを掴んで激情を吼える。
「そうか……キミも〝ムルソー〟なんだね」
「何?」
「クールな仮面を装っても、本当は人一倍強い激情家なんだ……だから苦しむ。人知れずね」
「……戯言を!」
怒気を削がれ、畏れ知らずの若者を解放した。
持て余す憤りに唇を噛む。
しかし、気持ちを切り替えねばなるまい。現状は最優先すべき問題があるのだから。
歩を再開したカリナは、憮然とした態度で命じる。
「いいか、死なせるなよ」
「無茶ぶりだなあ。ま、やれる事はやってみるよ」
管理番は困惑気味に軽い苦笑を返した。
頼りない管理番に事を任せると、すぐさまカリナは自室へと駆け戻った。
「レマリア! 返事をしろ! 無事なんだろう! レマリア!」
四方に我が子の無事を求めるも、返事は無い。
「レマリア! 声を出すんだ! レマリアーーーー!」
やはり返事は疎か、生命の気配すらも感じない。
だが、それは心のどこかで予感していた事ではあった。
「いない……この部屋には」
では、何処に?
「死んでなどいない……死んでなどいるものかよ!」
そう、必ず何処かにいるはずなのだ。
城内の何処かに……。
何よりも〝血〟の匂いがしないではないか。
「きっと一人で避難したのさ。日頃から危険の回避方法は教えてあるからな。そうだ──そうとも」
それだけを頑なに信じ、カリナは魔城を汲まなく捜し続けた。
「何処にいる……レマリア」
回廊の石段へと腰掛けると、力無い声が掠れ漏れる。
捜索の甲斐は無かった。
心の拠を見失った現在の彼女は、単に脆い少女に過ぎない。
困憊状態にあって、カリナは喪失感を抱きしめていた。
初めて体験する〝心細さ〟と共に……。