孤独の吸血姫：～終幕～孤独の吸血姫

　カリナ・ノヴェールが去って五日後──。
　薔薇バラ園えんの東屋あずまやで憩いこうカーミラは、ティーカップの赤ワインを淡く含んだ。
　鼻を突く鉄分臭に、ふと偏食へんしょくを思い出す。
「柘榴ザクロ……か」
　それが吸血行為の代用となるなら、普及推進案を一考してもいいかもしれない。
　もっとも反発は多いだろう。
　そもそも一般吸血鬼の魔力維持が期待出来るかは解らない。カリナや自分は〈特別な存在・・・・・〉なのだから。
「カーミラ様」
　聞き慣れた凛声りんせいで我われに返る。
　ジル・ド・レ卿に代わる新たな側近・メアリー一世だ。
「メアリー、居住区見直し案に進展があって？」
　報告に石畳いしだたみを渡ったメアリーは、畏かしこまって東屋あずまやへと相席した。
「防壁をシティ外まで拡張するには、あと半年は掛かると見通しが……」
「そう……」
　今回の内乱で、少女領主は防壁拡張の必要性を学んだ。
　シティを──選別した区域だけ・・・・・・・・を守ればいいという話ではない。
　この領地総すべてに懐ふところを広げなければ、真の〝人魔共存〟は築きずけない。
　防壁がロンドンを──否いな、イングランドそのものを囲えば、領内に於おける魔気の影響は遮蔽しゃへいできる。デッドの猛威も排斥はいせきできよう。
　そうした根回ねまわしから民たみの生活環境を整える意向であった。長期計画になるではあろうが……。
　それに伴ともない、カーミラは新しい政策方針も加えていた。
「人間達の雇用こよう状況は？」
「悪くはありません。働き口が出来た事により生活の安定が見える……と、民衆は歓迎しているようですね」
　防壁拡張工事には居住区をはじめとした〈人間〉達を広く雇用こようした。施工指揮は〈吸血鬼〉であるが、徹底した現場監視によって不正や不当が生しょうじないように厳しく配慮している。無論、障害たる〈デッド〉の駆逐くちくも兼任けんにんだ。
　そして、これを束ねる共同責任者は、ジョン・ジョージ・ヘイとペーター・キュルテンになる。
　近代吸血鬼モダン・ヴァンパイアである彼等ならば、大衆心理にも順応力があるだろう──そう踏んでの抜擢ばってきであった。
「現場の雰囲気は宜よろしくて？」
「ええ。我等われらへ向ける民たみの感情も、徐々じょじょに軟化されるかと。共通価値観と連帯意識の前には、種族差異など些末さまつな事なのかもしれません」
　人間達の〈吸血鬼〉に対する嫌悪と忌避きひ感──吸血鬼達の〈人間〉に対する蔑さげすみと加虐かぎゃく意識──それらを抑制よくせいさせる為ために、敢あえて〝同じ目的〟を与えた。
　しかしながら、カーミラの胸中には誰にも吐露とろせぬ思いが巡る。
（……エリザベート・バートリー）
　因果な事に、彼女の暴虐ぼうぎゃくがもたらした功績は大きかった。
　象徴しょうちょう悪あくの人身御供ひとみごくうによって領民達のガス抜き・・・・が為なされ、人間達による反乱は回避されたのだ。
　さもなくば、ジル・ド・レ戦で疲弊ひへいした〈不死十字軍ノスフェラン・クロイツ〉は壊滅かいめつの憂うき目めに遭あっていたかもしれない。
　奇くしくも、彼女もまた地盤じばん固がために一役ひとやく買ったのだ。
「……カーミラ様？　如何いかがされましたか？」
「いいえ、何も……」
　メアリーからの呼び掛けに我われへと返り、涼しい平静で取とり繕つくろった。
「ところで、それって健全な連帯感・・・・・・でしょうね？　もう謀反むほんや反乱は懲こり懲ごりよ？」
　冗談めいて含羞はにかむ。
　と、メアリーから注そそがれる眼差まなざしが穏おだやかな事に、ふと気付いた。
「何かしら？」
「いえ、今回の一連があってこそ、カーミラ様も変わられた……と」
「そう？」
「以前は政治に消極的──ともすれば無関心な節ふしもありましたが、いまでは意欲的に取り組んでいらっしゃる」
「ん～……どうかしらね？」
　カーミラは闇空あんくう仰あおぎに、はぐらかす。
「今回の一件で、理想論と現実のギャップに気付かされた事も多々ある。自分が拠よりどころとしてきた理想を、机上きじょうの空論くうろんで終わらせたくない想おもいもね。だけど……」
　呟つぶやき漏もらす本心は、偲しのぶような声音こわねであった。
「何よりも、守っておいてあげたいのよね──帰れる場所・・・・・を」
「帰れる場所……ですか？」
　真意が汲くめずに怪訝けげんを浮かべるメアリー。
　だが、カーミラの柔和にゅうわな横顔に疑問は氷解ひょうかいした。
　少女城主の傾視けいしを追って、共に黒月こくげつを仰あおぐ。
　二人が思い浮かべていたのは、心優しき拈ひねくれ者もの──孤独を背負って旅路を行く吸血姫きゅうけつき。
　あの黄色い巨眼は、この瞬間も黒くろき外套マントを見つめているのだろうか……。
　静かに月を眺め続ける。
　あの毅然きぜんとした皮肉屋が、いつか帰って来る日を待ち望みながら……。

「ドイツくんだりまで来てみたというのに……何処もかしこも変わらんな」
　辟易へきえきと零こぼしつつ、黒くろ外套マントは魔気まき漂ただよう情景を見渡す。
　険けわしくも拓ひらけた山道さんどうだ。右手は断崖だんがいと切り立っており、遠景えんけいに拒絶的な山脈が聳そびえていた。その裾野すそのには黒い雲海うんかいが漂う。左側に繁しげる雑木林ぞうきばやしは鬱蒼うっそうとしていて、まるで魔樹まじゅの巣窟そうくつにも思えた。下山げざんの導しるべと剥むき出だした馬車道ばしゃみちは、おそらく集落へと続いているはずだ。何処かは知らないが……。
「この道はオマエの村へと通じているのか？」
　少女を送り届ける道縋みちすがら、柘榴ザクロ齧かじりに訊たずねる。
「うん、そうよ。ダルムシュタットっていうの」
　隣に並び歩く子供は朗ほがらかな笑顔で答えた。
　警戒心は感じられない。気を許した……という事だろうか。
　年齢は十歳前後。ピンク色のチャイルドドレスが愛らしい。頭には赤いバケット帽を被り、バスケットケースを腕に通している。
　出会ったのは偶然だ。
　彷徨ほうこうの山道さんどうで出会でくわしたデッドの群むれを捌さばいてみれば、獲物は大樹たいじゅの上に逃げ登った少女であった。
　以降、襲撃は無い。
　厳密には何体か遭遇したが、魔姫カリナの前には結局無いも同じ・・・・・だ。
「何故、あんな所にいた？　子供一人が出歩く場所でもあるまいよ」
「あのね、あのね？　あそこ、たくさん野苺が採れるの」
　屈託くったく無くバスケットケースの収穫を見せる。大量……と呼べるほどでもないが、そこそこだ。
「お母さん、野苺好きなの」
　無垢な笑顔に癒いやされかけたが、ここは毅然きぜんと釘くぎを刺しておく。
「だからと言って、子供一人で彷徨うろついていい場所でもあるまいよ。今回のようにデッドが襲ってきたら、どうする気だった」
「……うん」シュンと沈んだ。「前は、お父さんと行ったけど……」
「現在いまは、いないのか？」
「うん」
　敢あえて理由は追及しない。
　闇暦あんれきでは、よくある事象ことだ。
「お母さん、病気だから……大好きな野苺なら食べられるかな……って」
　ふと似た境遇の少年を思い出した。
　ロンドン居住区で出会った少年──救ってやる事が出来なかった。その悔くいは残る。
「ほらよ」
　バスケットケースへと柘榴ザクロをふたつ足してやった。
「え？」
　驚き見つめ返す少女を余所よそに、黒姫くろひめは前を見据みすえたまま嗜好品しこうひんを齧かじる。
「いいの？」
「悪けりゃやらん」
　不器用な横顔を仰あおぎ眺ながめつつ、少女は笑顔を染めた。
　抱いだいた好感は、そのまま強い好奇心へと変わる。
「お姉ちゃんは、どこへ行くつもりだったの？」
　この人の事を、もっと知りたくなった。
　何故なら〝いい人〟だからだ。
　そして〝優しい人〟だからだ。
「さてな……宛あてなど無い」
　柘榴ザクロ齧かじりが感慨かんがいもなく答える。
「行くとこ、ないの？」
「無いな」
　少女は何故だか悲しくなった。
　この〝優しいお姉さん〟には〝おうち〟が無い。
　家族がいない。
　お母さんも、お父さんも、食卓も、暖炉だんろの暖かさも──それは、すごく寂しい事だ。
「じゃあ、ウチにお泊まりして？　お姉ちゃん、命の恩人だもの。お母さんだって喜ぶわ」
「フッ、私を招く・・か」
　乾いた自嘲じちょうは、されど噛かみ締しめていた。
　ささくれた心を、温情が包つつみ込こんでくる。
　自分の思惑おもわくと無縁な歓待かんたいは初めてかもしれない。
　数歩、沈黙に足を刻きざんだ。
　道程どうていへの正視せいしを外はずさぬまま、カリナは訊たずねる。
「オマエ、母親は好きか？」
「うん！　大好き！」
　満面の笑顔が答えた。
「……そうか」
　微かすかに口角こうかくが上がったのを自覚する。
　その言葉が聞けるならば、己おのれの闘いに意義も持たせられるだろう。
　これから先、血塗ちぬられた旅路たびじが果はてぬとも……。
　不意に指先へと温もりが絡まった。
　幼い指が絡まる感触だ。
　その懐かしさに寂しさが動揺する。
　思わず並び歩く姿を求めると、一瞬だけ〈レマリア〉がいた。
　が、無垢むくな癒いやしは、すぐに残像と消える。
　そこに在るのは屈託くったく無ない〈生命いのち〉の笑顔。
　淡い苦笑に己おのれを戒いましめる。
「……未練だな」
　黒くろ外套マントの魔姫まきは軽やかな表情に顔を上げた。
　闇暦あんれきの絶対支配者と目が合う。
　だが、それにさえ負ける気がしなかった。
　心に背負せおうものが不屈を与えてくれるからだ。

　所詮しょせん〈人間ひと〉は独ひとりでは生きられぬ。
　想おもいなくして生きられぬ。
　そして、私の本質は、結局〈人間ひと〉なのだ。
　なればこそ、混沌に身を投じよう。
　この健気けなげな温もりを護るために────。

　孤独こどくの吸血姫きゅうけつきは、決意を抱き締める。
　哀しいまでに気高けだかい決意を……。

「お姉ちゃん、行こう？」
　少女が手を引いた。
　次なる混沌の地は、もう近い。

［完］