孤独の吸血姫:~第三幕~醒める夢 Chapter.4
現在のロンドン塔内には、人の──否〈吸血鬼〉の姿気配は全く無い。固より深い霊気を漂わせる情景が、更に拍車を掛けた蒼い虚構へと染まっていた。
幽然たる迷宮を駆け巡るは、たった一人の影のみ。
即ち、ジョン・ジョージ・ヘイだ。
彼自身の足音や装飾具の金音が、無遠慮に反響する。走る片手間に周囲を見回し、彼は弱腰の本音を零した。
「如何に僕が〈吸血鬼〉とはいえ、さすがに不気味だな」
向かう宛も尽きて一時的に戻った場所は、威風ある表門を据えた大広間──ジル・ド・レ卿とカリナ・ノヴェールが一戦交えた場所だ。
広大な空間には、巨大な柱が連なり立っている。細微な装飾意匠が刻まれた支柱だ。柱同士の間に生まれ落ちる暗がりは、更に城内深部への主要通路として続いている。そうした造りが四方八方へと伸び広がり、宛ら蜘蛛の巣状の迷宮入口であった。
歯痒い状況に焦れ始める。
「カリナ捜索は、ペーターに任せるつもりだったのに。そうすれば、彼を安全圏へと逃がす事ができた」
しかし、ペーターは頑なに辞退した。
結果、押し問答の末にジョンが折れる形となった。
「一番の理由は、キミも同じ考えだったって事だろう? ペーター?」
どちらが我を通すにせよ、口論で時間を浪費するのは勿体ない。故の妥協だ。
「にしても、いったい何処にいるんだ? カリナ・ノヴェール! 恣意的な性格は知っていたけれど、こうも行き先が分からないなんて……」
この大広間から捜索を始めて、客室棟──会議室──無数の廊下────普段ならば立ち入り禁止扱いの場所さえも巡るだけ巡り、駆けるだけ駆けた。
焦燥に駆られる中で、まだ行っていない場所を脳内検索する。
と、不意に他者の気配を感じた。
警戒したジョンは、それを探り追って注視する。広間外れの一角だ。
(城内で敵って事はないだろうが……〈怪物〉は種々様々な魔力を保持しているからな。何が生じても不思議じゃない)
緊迫感を噛み締めながら、じっと睨み据え続けた。
コツリコツリと近付いて来る硬い足音。
ややあって大柱間の闇から浮かび上がった正体は、まさしく彼の捜し人に他ならなかった。
「カリナ・ノヴェール!」ようやくの邂逅に、歓喜の声を上げる。「良かった! 探していたんだ! 情けない話だが、実はキミに頼みがあって──」
そこまで用件を呈すると、ジョンは言葉を呑み込んだ。思わず駆け寄ろうとした足も数歩で硬直に止まる。
彼を強張らせたのは、得体の知れぬ恐怖。本能的な危険の察知だ。
カリナ・ノヴェールは、その顔を深く伏せていた。表情を窺い見る事は出来ないが、疲労とも悲哀とも負のオーラが蝕んでいるようにも映る。
いや、それはいい。
問題なのは、あからさまに見て取れる違和感だった。
霊風にそよぐ黒外套も、美しくさえある童顔にも、悉く赤の押し花が咲いている。
ジョンは疑問を抱く。
──何故、彼女は、これほどまでの〝返り血〟に染まっている?
──あの汚れは〝誰〟のだ?
意識した途端、背筋に戦慄が走る。頬を伝う脂汗が否応なく不安を助長させた。
彼女の手に下がるのは、抜き身となった深紅の愛剣。
だが、あの滑りは何だというのだ?
滴り落ちる赤の滴は?
ふと想起する──彼女が現れた方向は、一般吸血鬼の避難壕へと通じているはずだ!
「カ……カリナ・ノヴェール?」
ようやく絞り出した声が掠れ震えた。
彼の耳へと返ってきたのは、沈着ながらも冷酷を帯びた声音。
「……レマリアが死ぬはずはないんだ」
「レマリア? 何を言って──?」
「……死ぬものかよ。私が守ると誓ったんだからな」
ゆらりゆらりと恐怖が歩み近付いて来た。その虚脱的な所作はデッドやゾンビとは質が異なる。明確な俊敏さを押し殺した動き──まるで獲物を襲う直前の肉食獣だ。
やがてカリナは、ようやく顔を上げた。
「キ……キミ?」
ジョンの戦慄が高まる!
血濡れの顔に浮かんでいるのは、薄ら笑いとも取れる狂気! その瞳には理知性の損失が窺える!
「そうか……キサマか? キサマがレマリアを──」
獲物を見定めた魔姫が、ゾッとする冷笑に酔った。
「う……あ……」
格違いの恐怖に気圧され、逃走意思に後退る!
まるで〈魔王〉と対峙したかのような畏怖感であった。
狂気は歩を止めない。躊躇を覚えない彼女の足は、間合いを詰めるに有利に働いた。
「レマリアは何処だ?」
向けられた質問に戸惑う。ジョンにしてみれば、意味不明な謎掛けでしかない。
「だ……だから、僕は──!」
「何処にいると──訊いているんだぁぁぁーーっ!」
憤怒に支配された麗獣が地を蹴った!
紅玉石の如き刃が牙を剥く!
「うわあああ!」
本能的に身を守ろうとするも、ジョンは竦む事しかできなかった!
それどころか、縺れる足に尻餅を着いてしまう──が、それは奇跡的に生命線を繋いだ!
瞬間、頭上を凪ぎ過ぎる殺意の紅刃!
「ひ……ひい!」
間髪入れぬ幸運であった!
すかさず身を捩って無様に起き上がると、踵返しの逃走を謀る!
返す刃が背中を浅く抉った!
瞬間的に走る痛み!
しかし、それにかまけている余裕は無い!
死にたくなければ一目散に逃げ馳せるだけだ!
目指すは眼前に見える大柱!
その間へと構成された暗い門!
広く入り組んだ本城内へと続く逃走経路だ!
(あそこにさえ逃げ込めば、身を隠せるはずだ! 城内には数多くの部屋が在る!)
来訪して日の浅いカリナよりも、自分にこそ分がある──そう判断した。
常時狩られる側の草食動物は、得てして逃走能力が秀でている。あたかも、その法則に準じるかのように、ジョンの瞬発性は目を見張るものがあった。
が、理性を欠いた執念というものは、時として原始的本能よりも不屈で恐ろしい。
「レマリアを、どうしたァァァーーーー!」
常軌を逸脱した激情を吼え叫び、並外れた身体能力に追撃して来る!
彼女の周りで生まれ消える幾多の紅い弧!
それは間合いへ入った対象を容赦なく裂き、大木の如き石柱でさえも鋭く抉った!
必死の逃走ながらも、ジョンは背後の敵を分析する。
狂える刃は無差別で考え無しの大振りと化していた。
(もはや卓越した剣技の片鱗すら見えないじゃないか。ジル卿と対決した時とは、まるで別人だ)
そう結論着きながらも、やはり逃げきる自信など無い。基より身体能力が違い過ぎる。
それでもジョンは抗った!
一縷の望みへと賭ける心構えなればこそ!
数秒が数分に感じられ、数メートルが数百メートルにも感じられる!
ようやく目的の空間を眼前までに捕らえた!
後は気力を振り絞って飛び込むだけだ!
(この大広間よりも空間幅は狭いんだ──あの大振りなら思うように振るえないはず!)
思惑を巡らせた瞬間、脚に熱さが走る!
「ぐあ?」
その熱が痛みだと認識したと同時に、彼は滑り転んでいた!
濁々とした赤の流れ──膝裏の腱を切断されている!
「クソ! クソッ!」
忌々しさを込めて傷を押さえた。
目的の逃走経路は目の前だというのに、最早逃げる事自体が叶わない。霧化や獣化といった変化術が使えないのが、心の底から口惜しい。自分達〈近代吸血鬼〉と〈吸血貴族〉の魔力差だ。
体全体を不自然に引き吊り、無駄な足掻きに後退った。
それを哀れなハンデとすら思わず、無慈悲な血獣が静かに近付いて来る。
「レマリアは何処だ」
また例の謎掛けであった。絶望的だ。
「聞いてくれ、カリナ・ノヴェール! 僕は、その〈レマリア〉というのを知らない! 何者かすら知らない!」
「何処にいる」
空気を裂いて紅い弧が生まれ、ジョンの腕は赤い飛沫を弾かせた!
「ぐぁあ!」
無罪者の悲痛も、自我崩壊した裁人には届かない。
それでもジョンは訴え続けた。逃走が叶わぬ現状では、それしか身を守る術は無い。
「聞いてくれ! 君がそれを探しているというなら、僕も手伝う! だから──」
「殺したな?」
「な……っ?」
狂気が一層深い闇を孕んだ。
「そうか、キサマがレマリアを殺したんだな! 私の目を盗んでアイツを浚い、その血を啜り尽くしたのか!」
「違う! 貯蔵血液こそ常飲していたが、僕は誰かを直接喰らった事は無い!」
「じゃあ、私の腕で冷たく眠ったアイツの死体は何だ! キサマが殺したんだ! キサマが! だが、いいか! 易々とレマリアに手を出せると思うな! 私が守っているんだからな! 全身全霊を賭けて、私が守っているんだ! アイツが死ぬわけがない! そうだろう!」
「カ……カリナ・ノヴェール?」
彼女の主張は、まるで支離滅裂だ。
一頻り激情を吐き散らしたカリナは、障気とも思える深い深呼吸へと溺れた。平静の仮面を取り戻し、再びジョンへと訊い掛ける。
「もう一度訊く。レマリアは──私の〝あの子〟は、何処だ」
「く……狂っている!」
生唾が渇きを通過した。
会話すら成立しない凶刃相手に、状況打開の妙案などあるはずがない。
「何処だぁぁぁーーっ!」
絶叫に振り下ろされる赤い刃!
いよいよ覚悟を決め、ジョンは固く身を閉ざした!
一際甲高く金属音が弾ける!
理不尽な処刑は──一向に執行される気配が無い。
不確かな違和感を抱き、ジョンは恐る恐る自分を開放した。
眼前に在るのは、見目麗しい少女の姿!
彼と執行人を遮り、白き外套が靡く!
茨鞭の柄で凶剣を弾き払った彼女は、悠々とした物腰を崩さずに語り掛ける。
「随分と荒れているわね? カリナ・ノヴェール」
「……キサマッ!」
忌々しく歯咬みする!
狂気に呑まれながらも、黒は白を強く意識していた──生涯最大の難敵と成り得る唯一の存在を!
「貴女の〈レマリア〉は、御元気?」
柔らかく慈しむような微笑は、カーミラ・カルンスタインからの正式な挑戦状と受け取った!
花の微香にミツバチが導かれるように、彼は自然体で〝死〟へと導かれる──そういう性質だ。
深い常闇を泳ぎ渡るゲデは、空間に開いた切れ間から現実世界へと躍り出た。
「いい臭いがすると思ったんだがなぁ?」
残念そうな口振りながらも、例の如き飄々たる態度で小瓶入りの酒を呷る。
紫煙蒸かしに見渡す部屋は、薄暗くも陰惨な拷問部屋であった。
「毎日使われてるみてぇだがよ、残念ながら今日は定休日だったかね? ィエッヘッヘッ」
壁や床にこびり付いた夥しい血痕に、滴るほど血塗れた拷問用具の数々──嘔吐を誘う死臭も、彼の嗜好には沿っている。
だが、死屍累々と放置される死体については、少々不満があった。
「最悪だな、ガキばかりかよ? 幼児偏愛癖かねぇ?」
子供を惨殺する外道ぶりが好かない……のではない。そんなセンチな道徳観念など、最初から持ち合わせていない。
「ガキはよ、罪の重さが軽いんだ。どんな罪だろうと、そいつぁ〝健気な生の一生懸命さ〟として善性の許容範囲へと減罪されちまう──悪意塗れの殺人とかなら別だがよ。要するに、オレ様の醍醐味たる〝死の旨味〟が生じねぇのさ。天使様ってのは、とことんガキに優しいようだぜ……クソッタレが!」
腹いせ紛れか、幼い遺体を足蹴に転がす。断末魔の形相は、そのまま恐ろしくも惨たらしい瞬間を刻んでいた。足がもげ、腕が千切れ、心臓を抉り出され……未成熟な死体は、実に様々な末路を披露している。しかしながら、多くは首の骨を捻り折られていた。
「じわじわと拷問で心身共に追い詰め、最後は首の骨ポキリってね」
改めて室内を見渡す。漂う霊気と遺恨から、過去の惨状を見通すためだ。ブードゥー教の〝死神〟たるゲデには、それが可能であった。その魔眼を以てして、死に逝く者の過去を見通し嬲るのだから。
「……な~るほどねぇ? 百年戦争の英雄様が、悪癖再発ってトコかぃ?」
卑しい目が愉しげに歪んだ。
「ただ気になるのは、唆してる〝コイツ〟だな……どうやら〝従者〟を装ってるみてぇだが、そんなタマじゃねえ」
更に意識を集中し、その人物のみに焦点を絞った。
「プレラーティ──ドロテア──ああ、そういう事か」
幻視に正体を看破したゲデは、無作為な足取りで窓へと歩き進んだ。仰ぎ覗く先には、例の巨眼黒月が見下ろしている。
「御主人様も人が悪いぜ? 言ってくれねぇもんだから、間抜けにも鉢合わせしちまった。ま、聞いてても来るけどな。なんせ他人の領域とかは、オレにはどうでもいい事だからよ。ィエッヘッヘッヘッ!」
自由気儘がモットーのゲデにしてみれば、主従関係は行動の根であれ、絶対的な強制力ではない。基本的に自分が楽しめれば、それでいい。例え、同業者が幅を利かせていても……。
「さてさて、何かおこぼれは無いかねぇ?」
罪無き肉塊が散乱する部屋を、好奇心のままに探索し始める。
と、部屋の一角から妙な息遣いを感じた。必死に苦しみ喘ぐ呼吸だ。
興味を惹かれて捜してみると、虫の息で生き長らえる少年が転がっていた。とはいえ、腿は刃で貫かれ、ペンチで五指が潰されてはいたが……。
「なんでぇ? 残りモンがあるじゃねぇか」
喜々と覗き込む。
息を荒げる未熟な生命は、無慈悲な〝死〟への抵抗を続けていた。
「あのな、苦しみ堪えても無駄だから。結局、オマエは死ぬんだよ」
「ハァ……ゼェ……があぢゃ……」
「あらら、声帯潰されてらぁ」
「……がえる……があぢゃ……」
「まったく〈人間〉てのは、しつこいねぇ? 風前の灯火から、くたばるまでが実に長ぇや」
暇潰しに過去を見通してやった。
「んん? オマエ──」奇妙な経歴を見付け、ニタリと喜悦する。「──面白ぇモン、見ィ~付けた!」
卑しい余興を閃いた。上手くいけば、久々に盛大な晩餐が楽しめそうだ。
「オイ、ガキ。特別に延命魔術を施してやらぁ。ま、そうは言っても現状維持だがな。痛みから解放されるとか、瀕死が治るわけじゃねぇ。どのみち結局は死ぬ。ただ、その〝死〟のタイミングを遅らせるだけだ……って、怖ぇ目で睨むなよ。これでも出血大サービスなんだぜぇ? 何せ〝死神〟たるオレ様が、自ら禁忌を犯そうってんだからよ」
「……がり……ぁ……」
「ああ、会わせてやらぁな。そうしなきゃ、お楽しみの幕が上がらねぇしな。ィエッヘッヘッヘッ……!」
どこまでも下卑た笑い声が、呪われし鮮血の部屋に木霊し続けた。