自分だけは、という奢りが自殺を肯定するのか。
「お釈迦さまは、毒だとわかったうえで、自ら最後の食事をされたのです」
法事での説法が印象に残った。
日本では自殺で亡くなったとしても、加入後3年経っていれば、生命保険の保険金すら支払われる。
自殺免責は、期間限定だ。
仏教なら、自殺の是非を聞けるかもしれないと考えて、お寺を訪ねた。
聞いたのは、考え方が間違っているのかということ。
例えば65歳くらいで自分で人生を終わらせるとしたら、それはどうなのか。
自分が把握できる範囲で人生が終わった方が気持ちが楽になる気がする。
そのように考える事こと自体が良くないことなのでしょうかと、お坊さんに聞いてみた。
「お釈迦さんはあんまりそういうことを考えない。
明日目が覚めないかもしれないから、今日1日が最後の日だと思ってがんばりなさいと、
そうおっしゃっているんですね。」
それだと、気持ちをだますことにならないか。
今日が最後の日だと思って生きる。
そう思って過ごすことと、本当に実施することは、違う。
今日まで、もしくは65歳までの命だと思って、体もお金も無理をして暮らしてきたのに、そうならなかった。
そんな時に自分で決めてしまうことの是非は?
「お釈迦さんは、亡くなり方には差はないっていっているんです。
病気とか、戦争とか、殺人とか。
そういった亡くなり方に、そう差はないと。
だから例えば、今は自死っていうんだよね?
そういう方も、役目を終えたんだろうなって思うんです。」
亡くなり方に差がないのなら、自分で時期を決めても良いということか。
「せっかくお寺に来たから、仏教の話をすると、体っていうのは、かりものの器なんですね。
その中に魂が入っている。
器を使って、魂を生まれ変わらせていくんです。
体と言うのはあくまでも器。
だから、仏教的に解釈すれば、器的なものは、かりの入れ物だから、そこまで重要視はしていないんですよ。」
血圧と心電図を頼りに死を見極め、呼吸が止まるのを見張ることの重要性を、どう捉えるかということだろうか。
お坊さんは、生きることについて、仏教の側面から続けた。
「私たちがこうやって生きているというのは、役目があるからなんですね。
この世に生まれてくるときに、色々な人と打ち合わせしてくるっていうんですよ。
生まれてくる目的があって、それに向かってみんな、自然と進んでいる。
運命という言い方をしてみると、運命はおおざっぱに決められているっていうんですよね。
そのなかで人生をどうやってよりよく生きていくか。
そして、その目的や役割が達成できない限り、亡くなることはできないみたいなんですね。
色々な人生の長さはあるけれど、それぞれ役割が達成されたら亡くなる。」
その役割が一体何なのか、いつおとずれるかはわからないらしい。
それであれば、自分で人生を終わらせることは、それも役割ともいえるのではないか。
そういった役目があっても良いのではないか。
「悩んだりしている時は、一番最初の道にもどるといいんですよ。
きっかけになったものは何で、なぜそれをきっかけだと思ったのかと、どんどん掘り下げていく。
例えば、働き盛りを通り越した50代で病気をしている人がいる。病院では、疲れもストレスもたまっている、と言われた。
なぜストレスがたまったのかと考えると、仕事のしすぎ。だいぶ残業もしていた。
なぜそんなことをしたかと遡ると、しんどいけど、その方がお金もいいし、と。
なぜそうなったの?働くと給料もらえる。残業をしたほうが少しでも家族が楽になる。
じゃぁなぜそう思ったの、と遡ると、だって家族は大事だし。
大体は1、2つまでしか遡りませんね。
でも深く考えていくことによって。家族を大切に思っていたのに、今は自分が病気をしてしまったことに気がつく。なんて馬鹿なことをしているんだ、って。
元の道に戻るためにすべきかことは、まず病気を治すことですよね。それが家族のためになるんだから。
これが仏教的な解決の方法なんです。」
自殺をしても良いと考えるきっかけ。
しかも、65歳くらいで良いと感じている理由。
お金の面だろうか。
“高齢化が急速に進み、社会保障費は年々増加しています。
一方、財源は確保できておらず、子供たちの世代に負担を先送りし続けています。次世代に明るい未来を残すため、私たちが今、何ができるか一緒に考えてみませんか?”
財務省が発行しているブックレット「これからの日本のために財政を考える」の扉にあるフレーズだ。
長生きすると国に迷惑がかかってしまいそうだ、と思った。それが、最初のきっかけ。
データで見ても、2019年度一般会計における歳入101.5兆円に対して、1/3の32.7兆円は公債金(借金)へ依存している。
日本の債務残高はGDPの2倍を超えているし、歳出と歳入の差を表す折れ線グラフは「ワニの口のよう」と表現される。
財政の問題は解決できないように感じるのが掘り下げの2つめ。
生命保険文化センターが実施している「生活保障に関する調査」では、あらゆる項目で私的準備についての考え方が問われる。
その一つが「生活を切りつめても私的準備が必要か」
60%の回答者と同様に、YESと答える。
今できる自己投資を減らしてでも、老後に備えたほうが良いのではないかと感じる。
一方で、同調査からは55%もの人が生活設計を立てていないことがわかる。
平成25年から令和元年にかけて差が生じた項目は2つ。
「なんとか暮らしていけるから」が減少、「将来より現在の生活が大切だから」が増加。
今の生活で精一杯な状況が大半を占める中、自分が迷惑をかける側にはなってはいけないと感じたのが、次のきっかけ。
「それは迷惑と思わないほうがいいんじゃない?」
お坊さんは続ける。
「最終的に面倒を見てくれるのは国だと思います。
今まで働いてきて税金を納めたんだから、甘えてもいいと思います。制度がある以上は。
みなさんにお任せしますよという事だってできるわけです。
安楽死してしまえば、その先は援助も何もいらないわけだから、国としてはメリットはあるでしょうね。
でも少なくとも今は、国民を生かす方に向いている。」
そして、掘り下げる。
「何事にも、最初の道、最初に思ったことがあるんですね。
例えば、誰かと比べてあの人には負けたくないから頑張ろうと思ったとか。
そうやって始まることは大体失敗しますよね。
どこからスタートしたのか、そのときの気持ちが良いものなのか悪いものなのか。
それを考えてみることも大切です。」
お釈迦さまによれば、あらゆる煩悩の根源には三毒があるという。
1つは貪り。度を越えて欲張る心。自分には不浄なものはなく、他人より優れていると思って、自分の身に愛着してしまう。
2つめは怒り。自分の思うように、願うように、欲するようにならないことに、憎しみや憤りや恨みなどの心がわいてしまう。
そして、愚痴。世間は自分の思うように、欲するように、願うようにならないのが道理であるのに、自分だけはなんとかなる、自分だけは別だという考え。「私だけは」という奢り。
自殺しても良いと考え始めたスタートの気持ちは、まさにこの三毒かもしれない。
日本の財政問題を理由にしながら、「私だけは」と考えていたのではないか。
私だけは、お金のことで苦しみたくない。
介護や医療で接する人に、私だけは、嫌な顔をされたくない。
国の問題だろうと、私だけは、コントロールしたい。
三毒についての考えは、お坊さんには言えなかった。
それでも、たとえ話を話してくれた。
「昔、畑のなかに大きな金の塊があった。掘り出そうにも大きすぎて、持って帰れない。
その人はそのまま亡くなり、畑ごと売ってしまった。
次の持ち主が、ある日畑で金の塊を見つけ、その金を三等分にした。
貯蓄のため、今の生活のため、そして周りの人のため、。
分けたことで、無事に持って帰ることができた。
一つ丸ごとを、どうしようどうしようと考えている人は結局、金を活かせない。
でも、自分の資産を分割して考えられる人は、ちゃんと生きていける。
全部一つに考えないで。
万が一、長生きするかもしれないからね。そのための貯蓄、資産も必要。
今の自分のためのお金も必要。
そして、他の人のためになるお金も必要。自分にそういう力をつけてもいいし、寄付しても良い。保護ネコの団体とかね。
自分の資産を分けてみると気持ちが少し落ち着くかもしれませんよ。」
そして最後に、新しいたとえ話をくださった。
「施設に入っている方が亡くなると、葬儀に代表の方がいらっしゃることがあるんですよ。
『この方は、いいおばあちゃんだったんですよ。いつもにこにこしているおばあちゃんでね』という話をされたりする。
『みんなこのおばあちゃんのおかげで大分救われたんです。
私たち職員だって、本当に救われたんですよ』って。
そういう話を聞くと、人間は最後の最後までやれることはいっぱいあるんだなと思いますね。」