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中国人、恨みの深層


中国、日本人への襲撃事件

スクールバス待つ親子襲われ 日本人駐在員らに衝撃 中国・蘇州市 news.tv-asahi.co.jp [2024/06/25 11:59]
 蘇州市内のバス停で24日午後、スクールバスを出迎える日本人の母親と未就学児の男の子が、中国人の男に刃物のようなもので切り付けられた。
 男を止めようとしたバスの案内係の中国人女性1人も刺され重体。後に死亡。
 3人を襲った男は、警察に身柄を確保されたが、動機などは不明。
 2週間前にもアメリカ人の大学教員4人らが、55歳の中国人に刃物で刺される事件が起きていた。

news.tv-asahi.co.jp

中国・深圳で日本人学校に登校中の小学児童が襲われて負傷 容疑者は当局が確保 産経新聞 24.9.18 13:058
 中国南部の広東省深圳(しんせん)市で18日午前、日本人学校に登校中の小学生の男子児童が男に襲われて負傷。児童は病院に搬送されて治療中。ケガの程度などは明らかになっていない。

産経新聞

中国 日本人学校の男児死亡事件 地元紙が容疑者について報道 nhk.or.jp 2024年9月20日 20時40分
 中国南部の深圳センで日本人学校に通う10歳の男子児童が刃物で襲われ死亡した事件について、中国の地元紙は、容疑者が児童を襲ったことを認めたと伝えました。一方、動機や背景には言及せず、明らかにされていない。
 事件を受け、中国で最も多い3万7000人あまりの日本人が暮らす上海では、現地の総領事館と日本人学校の関係者などが緊急の会合を開き、今後の対応を協議した。

nhk.or.jp

中国の分割危機

 1842年6月、アヘン戦争によってイギリス軍は上海県城を一時占領、8月26日に締結された南京条約によってイギリス人は開港場に居住し通商を行うことが認められた。
 1849年、フランスはイギリス租界と旧上海城内にはさまれた地域を租借。
 1853年、アメリカは虹口地区を租借。
 1863年にはイギリスとアメリカの租界は、「共同租界」となった。

 このような欧米列強の租界とは中国分割を目的としていた。

 中国は日清戦争(1895年)後、日本に台湾・澎湖島を割譲。
 1896年7月、日清通商航海条約締結により日本は、沙市(湖北省荊州市)・重慶(南西部)・蘇州(上海の西側)・杭州(浙江省、蘇州の南)などの租界が認められた。

 租界は中国領土としてイギリスは中国に土地賃貸料を支払っていたが行政は認められなかった。だが、各国は水道や電気、西洋的な住宅街といったインフラ整備を進め、さらに徴税権も行使するという実質的な行政権を持つようになる。
 日清戦争後、各国による中国への進出競争は、1898〜99年に激しくなり、イギリス・フランス・ドイツ・ロシアが相次いで進出、中国分割が急速に進んだ。

 租界とは言え、各国が競うように上海に巨額投資をしたことは間違いない。その投資で、河川の整備や浄水場の建設と水道網の工事、下水の整備、発電所からの送電網と街灯の建設、大使館や公共施設、繁華街を造るほどの商業施設と、トラックや車が通る道路の設備、鉄道から派生した住宅の数々など、中国の近代化に大いに貢献したと言うべきか、中国以外の近代国家を創造したと言うべきなのだろうか。そのくらい中国の近世:清朝の時代と近代では大きな違いがあるのだ。

 1900年代、清国では日本留学が急増し数万人といわれている。学生たちには革命思想が浸透し、1905年の中国同盟会が東京で結成されたほどだ。またその会員では日本で軍事教育を受けていた者もおり、孫文を筆頭に辛亥革命(1911年)指導者のほとんどが日本留学経験者だった。

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