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善意ぶった悪意たちの脅威

憂鬱極まる仕事始めの今日。東京は雨だったため、帰りが遅くなれば絶望が募ってしまうと思い早めに切り上げた。

仕事帰りに一人で近所のとんかつ屋に寄った。今の家に住み始めてから早四年、自宅と最寄り駅を結ぶ道沿いに位置しながら一度も訪れたことがなかった店。前を通るときは大体いつも繁盛していたので、いつか訪れたいと思いながらも、何故かいつも満腹なので入れずにいた。今日は珍しく夕飯を決め損ねて歩いていたところ、雨を避けたい気持ちと空腹感の相乗効果で足が吸い込まれた。雨のせいか先客はお爺さん一人。私の少し後に中年男性二人組が入店した。

メニューを見ると思いのほか値段が高い。最安でも100gのロースかつ定食が1300円、大した祝いの日でもないので気が引けたが、結局1600円のミックスフライ定食を注文。とんかつ屋らしく胡麻をすり潰してぼーっと待っていたところ定食が配膳された。

一つ目の牡蠣フライを口に運ぶと、少しだけ違和感を感じた。率直に言うと、独特な香り。ただ、噛み進めると牡蠣は身もたっぷりで美味い。二口目、やっぱり香りが少し気になる。牡蠣の味ではないなら油かな?と思って他のフライを食べてみると案の定同じ違和感を覚える香り。というか匂い。まあ味は美味しいし受け入れられるレベルではあったので、こういう特徴があるのかなと思って食べていたら、後に配膳された中年男性二人のうち一人が「店員さん、これちょっと食べてみて。」と一言。普通のロースかつ定食を頼んでいたようだが、やはり香りが気になったようだった。

あ、この人も自分と同じ感覚だったのかと少し安心しながら一部始終をジロジロと眺めた。というか舌がそこまで肥えていない自分がちょっと違和感を覚えるのだから、この孤独のグルメに出演できそうな男性はもっとセンシティブに異常を感じているだろうと。

「この味が普通だと言うならそのまま食べるから、一度確認だけしてもらえますか。」という趣旨をホールの店員に伝え、そのまま定食はキッチンへ逆戻り。

やっぱりおかしいのかなあ、と思っていたらキッチンからシェフが登場、「一口食べてみましたが、特におかしいところはありません。一口食べてしまったのでその分追加で作りますね。」とのこと。いや、これが通常運転かいとツッコみたくなったが、中年男性側もああ言った手前、「分かりました。」と言ってそのまま受け取り食べ進めた。途中、ホールスタッフの方が「お詫びに味噌汁おかわりサービスできますので。」みたいなことを言っていたが、中年男性側は「いえ、大丈夫です。クレーマーみたいになるといけないから。」と返していた。

この一部始終を見て私は、なんと客観的で公平な物言いなんだろうと感じた。私からしたら、客側のちょっとした違和感を代弁してもらったようで頼もしかったし、店側からしても(まあ面倒ではあるが)、あれだけ丁寧に確認を促されたらそれは真摯に対応するよねと。何より男性は、私のようにだんまりを決め込むわけでもなく自分の意見を相手に伝えつつも、どんな"言い方"をすれば攻撃的にならずかつ相手を不快にさせず伝えられるかを分かっているかのようであった。

結局あの風味が通常運転なら、男性も私もあの店をリピートしない可能性が高いのだけれど、同じ"リピートしない"という結末なら、相手を不快にさせて終わるのか、何も伝えずに終わるのか、それとも不快にはさせないがあくまで一意見は伝えるくらいの塩梅で終わらせるのか、トータルで見たら男性の選択が最善に思える。


ここまでの今日あった話が善意に基づくとするなら、この年末年始でぼんやり眺めていたSNSにはつくづく悪意が溢れているよなあと感じる今日この頃。XもThreadsもおしまいであることに間違いはないだろう。

私自身、Xは主に情報の受信に使っていて、発信については良かったライブの感想をたまに呟くくらいであまり使っていない。Threadsは本当に暇になったときにたまに覗いている。それでもおよそ10年前はTwitterで結構な頻度で呟いていた。そこから何となく見たくないものの蔓延に嫌気がさして一時期離れ、ここ最近でようやくXも頻繁に見るようになったという背景があるのだが、SNSってなんでいつまで経っても過ちを繰り返すような人たちが溢れているんだろうと思うばかりである。

例えば私が好きなカルチャーを挙げると、音楽・映画・お笑い・サッカーである。サッカーは分かりやすい。贔屓にしているクラブのライバルクラブやそのサポーターに対して喧嘩腰で物を言う光景は日常茶飯事だ。私が好きなサッカークラブの投稿のコメント欄なんて、相手を馬鹿にするピエロの絵文字の応酬で溢れかえっている。

スポーツに限らず競技事に当てはまるとしたらM-1グランプリもそうだろうか。自分が見た限りでは、あまりそんなことはない気がした。つまり、推しの漫才コンビ以外をどうにか貶そうとするみたいな人はそんなに目立たなかったような。ただこの界隈はファンに対する風当たりが結構強いような気がしていて、コンテンツの受け取り方に対して物言いをする人はよく見かける。

一方で映画や音楽はけっこう顕著だ。国内外問わず映画レビューサイトでは凄惨な酷評が溢れているし、音楽に関しては昨年末の紅白歌合戦を観ながら何の気になしにXを眺めていたらけっこう酷い有様だった。推しこそ絶対、自分の信条こそ絶対、を信じて疑わない人たち。それだけなら良いのだが、信条を敢えて文字に起こして発散したり、異なる考えを持つ赤の他人に喧嘩を吹っ掛けたり、徒党を組むように同じ考えを持つ人の投稿に群がったり、そんな醜い集まりに感じた。その中のほとんどの人が、自分の意見に誇りを持っているように見えることこそが、まさに表題の"善意ぶった"という表現が適している所以である。

この流れで出すにはあまりにかけ離れた善意に満ちた曲だが、この一節には何度も頷かされる。

善意ぶった悪意たちの脅威
そんなもので溢れかえる今日に

ASIAN KUNG-FU GENERATION 「Be Alright」

ところで、かくいう私は音楽に関しては生歌至上主義なので、所謂"口パク"でパフォーマンスするグループを貶すようなツイートを過去にしたことがある。つまり先ほど述べた"SNSに蔓延る醜い集まり"の一部だった。そんな経験者から言えることとして、そもそも誰かや何かに物を言いたい気持ちで溢れている人は、ほとんど理性を失っているため止まれないのである。反論を受ければ受けるほど作用反作用の法則が働き、議論が白熱する。

それは必ずしもネガティブな気持ちではなく、"好き"という気持ちだろうと何か吐き出したくて止まれない。つまり、"善意ぶった"というのは周りから善意に見えるように意図的に細工しているというよりは、当事者としては本当に善意と信じて疑わない気持ちで発信しているということである。

勿論世の中にはただ誰かを馬鹿にしたい、陥れたい気持ちの人もいるだろう。それこそピエロの絵文字を送り合っている人たちのような。一方でもっと目立つのは、自分の信条を主張したいという想いが強すぎるがために周りが見えなくなってしまっているケースだ。アメリカの環境活動家の支離滅裂な発言を上院議員が論破する動画を見たことがあるのだが、その感覚に近い。環境に対する思想を持つこと自体は個人の自由だが、その表明の仕方がクレバーでない。

環境活動家が行動力をもって起こしているアクションと比べたら、SNSで数行投稿することなど造作もないこと。その"言い方"に気を配る間もなく、意見を全世界にばら撒いてしまうのである。それはボタンを押す張本人にとっては善意による発言、あるいは何の深い意図もないただの呟きだとしても、それがどう伝わるかは投稿者がどれだけ自分の意図を文字に落とし込めたかに依存する。表現の仕方なんて気にも留めていないというような人は、当然その想いに反してあらぬ方向で誰かを傷つけることもある。そうだとしたら、下書き機能の一つによる表現チェックを経由することが強制される未来もあるのではないだろうか。私は仮に投稿しようとした内容が第三者にチェックされようが全く困らないし、積極的にそうすべきだとも思う。それを憂うくらいには凄惨な現場が広がっている。

"言い方"に目を向けているのは、『批評』は存在して然るべきだと思うからである。イングランドのとあるサッカー選手は「サポーターに批判されることで燃える」と公言しているし、M-1に臨む漫才コンビは劇場でのファンの反応を見てネタを磨き上げる。アートが成長し続けるためには、"キュレーター"と呼ばれるような、確かな知識をもって作品を批評できる人材が必要である。海外の映画レビューサイト"Rotten Tomatoes"で作品が評価されたり扱き下ろされたりすることはもはや様式美だが、それも実績のある批評家たちの至極真剣なコメントによって成り立つ仕組みである。乱暴な言い方をすると、その分野の知識や知見が無い人間が何かを貶したり否定したりすることは許されない。

知識がないのであれば、少なくとも謙遜した物言いをしなければならない。とんかつ屋に訪れた男性のように。それもそれで一人の受け手からの立派な意見であり、伝え方さえ間違えなければ作り手にとっては価値のあるものだろう。私はあのとんかつ屋にはしばらく行かないだろうが、彼らはきっと男性のコメントを踏まえて成長すると思う。その頃合いを狙ってまた行こう。


ところで、この記事は特定の層を貶す文章になっていないだろうか?ストレスが溜まった思いのままに書き殴ってはいないだろうか?とりあえず下書きに一度保存。いや、やっぱり吐き出したいので、止まれない。

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