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労働判例を読む#609

今日の労働判例
【日本産業パートナーズ事件】(東京高判R 5.11.30労判1312.5)

 この事案は、会社Yに対して競業避止義務を負う元従業員Xが、Yの営業秘密に該当しうる情報を持って同業他社に転職したため、Yが退職金の一部を支給しなかった事案です。Xは、退職金の残額等の支払いを求めましたが、裁判所はXの請求を否定しました。

1.事案の特徴
 この事案は、プライベートエクイティ投資に関する業務を行う会社Yと、実際に投資先の発掘や管理などを行っていた従業員Xの間のトラブルであり、個別の案件(ある相談会社の関連会社事業の処分・投資)に関する情報を、Xが転職の際に漏洩し、転職先の会社が当該案件の仕事を獲得した(疑いがある)という事案です。
 同じ競業避止義務違反のトラブルでも、様々な態様があり、その中での本事案のポイントを指摘すると、①個別の案件の情報であって、顧客名簿などの抽象的な仕事の可能性に関する情報が問題になった事案と異なる点、②さらに、個別事案の情報だけでなく、投資案件の発掘や管理、分析などの具体的な技術や手法も、業務を通して学び、それを持ち出したとされ、すなわち、業務の具体的な実務レベルの技術や手法が問題にされたのであって、経営の方針や戦略など、直ちに収益に直結しないような、ハイレベルの経営情報が問題にされた事案と異なる点、③したがって、経営などのハイレベルな者の競業避止義務違反ではなく、実務担当者の競業避止義務違反が問題となった点、が指摘されます。
 さらに、法律構成上の特徴もありますが、これらの特徴を理解することが、本事案の重要性や特徴を理解するうえで重要です。

2.競業避止義務自体の有効性
 本事案では、すなわち競業避止義務の範囲となるべき、禁止される転職先等について、「バイアウトファンドのプライベートエクイティ(を事業とする会社)」としており(裁判所の認定)、限定的です。これに加え、ハイレベルでないXであっても、(競業避止義務を負うための代償措置が特に講じられていなくても)年俸1200万円を超える報酬が与えられ、転職期間も1年と限定されていた点、が指摘されています。
 さらに本事案の特徴である、ハイレベルではない従業員の転職の制限として見た点について、裁判所は、事案に深くかかわり、重要な情報や判断に関わることによって、ノウハウ等を知ることができた、という点も、指摘しています。これらの事情によって、競業避止義務の規定(入社時に合意していた)が有効である、としました。
 この最後の点を、もう少し掘り下げましょう。
 判決では明言していませんが、Yが、競争が激しく、専門性が高い分野の会社であり、規模も小さく(投資を実際に担当し、おそらくYの収益の全てを担う部門の投資職が全員で16名、秘書3名、その他、社長を除き全従業員は合計32名)、個別の案件での収益が会社経営に極めて大きな影響を与える中で、6つのチームで投資案件の開拓・管理などを行っており、たとえ職位上ハイレベルではなくても、会社経営に直結する重要な案件に関し、かなり深く関わり、同業他社との差別化にとって重要な独自の情報やノウハウを知り得たことが、わかります。
 このように、同じようにハイレベルではない従業員であっても、数万人・数十万人も従業員がいる大企業の場合と比較すると、退職によって戦力が低下する影響と、さらに重要な情報やノウハウを同業他社に持ち出されることによる競争環境の悪化は、明らかに会社経営に与える影響が異なります。
 ハイレベルではない従業員であっても、競業避止義務自体が有効なる場合が示された事案ですが、この背景には、このような、Yの事情とXの役割りがあること、すなわち、ハイレベルではない従業員であっても全ての場合に競業避止義務自体が有効になるわけではなさそうだ、という状況を、理解しましょう。

3.退職金不支給の有効性
 近時、会社に損害を与えた退職者等に対する退職金不支給の決定に関し、それを無効としたり、退職金の一部支給を命じたりする裁判例が散見されます。
 本事案は、これらの事案と異なり、退職金全額を不支給としたのではなく、最初から退職金の一部だけを不支給としました。Xや裁判所から言われて一部不支給にしたのではありません。このことから、退職金不支給が有効とされた面も、あるようです。
 けれどもポイントはそれだけではありませんので、もう少し掘り下げましょう。
 最初に、退職金不支給の有効性の判断は、退職金の性格・性質の分析から始まります。本事案では、基本退職金と業績退職金の二種類の退職金があります。このうち、基本退職金の方が「賃金の後払的性格」がより強いが、両者とも、「賃金の後払的性格」と「功労報償的な性格」の両方を有している、と認定されています。どのような事情を考慮して金額が決まるか、という退職金の決定方法が検討されています。
 次に、この退職金の性格・性質に照らし、従業員の不正行為の内容から、直ちに退職金不支給とできるかどうか、が検討されます。とはいうものの、本事案では、「このような業績退職金の性質からすれば」、という理由だけしか述べられておらず、実際に退職金の性格・性質がどのようなものであれば、そしてどのような不正行為が「直ちに退職金不支給とできる」事情となるのか、は全く示されていません。例えば、退職金が実績給と全く同じように計算され、会社の業績への貢献だけで退職金の金額が決まるような場合には、会社を破綻に追い込むような不祥事を引き起こしたりすると、それだけで「直ちに退職金不支給とできる」のでしょうか。
 あるいは、実際に「直ちに退職金不支給とできる」と正面から認めた裁判例は恐らくない状況で、さらに、退職金の性格・性質を単純な1つの性格・性質と認定される場合は、現実の退職金制度の設計・運用上、現実的にイメージしにくいことを考えると、この「直ちに退職金不支給とできる」という判断過程が作動する場面は、想定されていないのでしょうか。
 3段階目として、多くの裁判例で見かけるような表現ですが、競業避止義務違反を理由にする場合は、「それまでの勤続の功を抹消ないし減殺してしまうほどの著しく信義に反する行為がある」ことが必要とされました。2段階目と異なるのは、会社の側が「著しく信義に反する行為」であることを証明できなければ退職金不支給とできない、と読める表現になっている点です。近時の裁判例に、退職金不支給のハードルの高いものが多く見受けられますが、このような判断枠組みが、このような傾向を端的に示していると言えるでしょう。
 もっともここで判決が、「それまでの勤続の功」が失われ、損なわれたかどうか、を問題にしている点を見れば、退職金の性格・性質に「功労報償的な性格」が認められるときだけの判断枠組みであるようにも見えます。
 4段階目として、実際に不正行為が「著しく信義に反する行為」かどうかを検証しています。
 この事案では、行為の悪質性(Yにとって極めて重要な情報を、競合他社に漏洩したなど)、Xの悪意性、従業員に競業避止義務の重要性を説明してきたこと、XのYの業績への貢献が小さいこと、を考慮して、Xの請求を否定しました。

4.実務上のポイント
 詳細にみると、どのような判断基準が設定されるのか、退職金の性格・性質の問題とも合わせて、簡単に予測が立ちませんが、上記の4段階目にあるように、従業員側の事情と会社側の事情を広く総合的に検討するという姿勢は、最近の裁判例に共通するものと思われます。
 悪質性をどこまで裏付けられるのか、という方向性と、従業員側・会社側の事情を広い視野から集めて整理することが、ポイントになるでしょう。

※ この連載が、書籍になりました!しかも、『労働判例』の出版元から!


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