
社会のなかの芸術、芸術のなかの社会⑥ーモアの『ユートピア』とシェークスピアの『テンペスト』にみるアメリカ例外主義の起源からー(トランプ氏大統領就任から28日)
トランプの再選は私たちが生きる危機に瀕した世界に現れた症状のひとつであり、私たちが生きる危機に瀕した世界の原因ではないだろう。
社会に潜む病そのものではなく、症状に過ぎないトランプを原因とすることにより、私たちが社会に潜む病との対決を避けることは、私たち自身を洞察することを拒否する行為に他らならないように私には思われる。
さらに言ってしまえば、トランプは、私たちの社会に潜む病に対する不安と、もはや現実に起きている社会の病が及ぼす苦痛をうまく利用し勝利を勝ち取ったのではないだろうか。
彼が利用しているもはや現実に起きている社会の病は、アメリカンドリームから取り残された相当数のアメリカ人を苦しめている現実の問題であり、集団の妄想を促す原因でもあるのだが、彼はそれらに対して、根治ではなく手っ取り早い対症療法を約束しているようである。
少し前に、精神医学においての「妄想」とは、「強固に維持された揺るぎない誤った信念であり、決定的な証拠や理性的議論による修正にも抵抗するもの」と定義されており、私たちの社会も、個人に起きる妄想と原因、内容、結果という点でよく似た、いわば集団の妄想に悩まされていることについて描いたが、フロイトのことばを借りれば、
「妄想は何の根拠もなく起きるものではない」のであり、
妄想は夢と同じようにその原因となる隠れた現実が歪んだかたちで表現されたものであろう。
患者が強く妄想を信じなければならない理由や妄想のなかで表現されている現実、それに対する心理的反応を知らなければ患者の治療を始めることができないように、私たちの集団の妄想を促す原因となっている問題を理解し、願望的思考に変わる現実的な解決策を与えなければ、私たちは私たちの集団の妄想を正すことなどできないであろう。
そのために、現実にトランプが再現されたことを理解するために、まず、私たちはアメリカ例外主義の起源について考えてみたいと思う。
「例外」という言葉をアメリカに対して初めて使ったのは、1830年代にアメリカを訪れていたアレクシ・ド・トクヴィルであった。
トクヴィルは、アメリカ人が異常なまでに営利の追求に熱を上げ、文化的なものに興味が無いことに対し、著書『アメリカのデモクラシー』では、皮肉を込めて
「アメリカ人の状況は、まったく例外的である......彼ら/彼女らの起源はまったく清教徒的であり、商売一辺倒、ヨーロッパと隣り合っているために、彼ら/彼女らは、学問、文学、芸術研究をせずとも野蛮に帰らなくても済むようになっている......数多くの要因が与って、アメリカ人の精神を純粋に物質的な事柄を考えるように異様なまでに集中させた」
と述べている。
トクヴィルは、アメリカの悪い部分だけでなく、善い部分にも目を向けていた。
当時のアメリカ人は、世界が不愉快になるほど他を押しのけながら、貪欲に働き、貯蓄にいそしんでいたのかもしれないが、その一方で、当時のアメリカは世界の希望でもあったことにトクヴィルは目を向けており、アメリカはアメリカの独特の歴史、国土の広さ、国民の多様性、豊富な天然資源、地理的な独立性、民主主義、自由な経済活動、個人の自由、個人主義、新たなアイデアや発明に対する寛容さ、少ない事業規制、豊富な商取引経験、機会均等という点で例外的な存在であったとしている。
さて、多くの人たちがヨーロッパから上陸する前から、北アメリカ大陸がどの程度よい場所になるのかについては、トマス・モアの『ユートピア』とウィリアム・シェークスピアの『テンペスト』に見られるように対照的な見方が在ったようである。
16世紀初頭に、トマス・モアは楽観的視点から、「新世界」でさらに良い社会が出来ることを望んでおり、それから1世紀後、シェークスピアは、例え住む場所を、変えたとしても、人間の本性にある欠陥を消し去ることは出来ない、と悲観的に予言したようである。
モアは、コロンブスが亡くなってから10年後には、もう「ユートピア」という言葉を造り、直前に発見されたアメリカの沿岸部に近い架空の島をその場所として選んだのである。
今でこそよく、しかも自然に使われているが「ユートピア」という言葉は語呂合わせであり、古代ギリシア語で「どこにもない場所」という言葉の音に似た「Eu-topia」が「よい場所」を指すことから生まれたものなのであるようだ。
モアは、自分が理想とする共和国は、「旧世界」のどこにも絶対に存在し得ないと解っていたのだが、モアは「新世界」では、そのような国が確立されることを願っていたようである。
モアの理想の「アメリカ」像である「ユートピア」は、秩序が在り、平穏で寛容な場所であり、秩序がなく混乱したイギリスのチューダー朝とは全く対照的であるといえよう。
ちなみに、チューダー朝では、モアの友人であり、またモアを大法官に任命したヘンリー8世の命令で、モアは突如、反逆罪で処刑されてしまうのである。
これらを知っているためシェークスピアがのちに著した『テンペスト』は、モアの『ユートピア』を見事なまでに痛烈に皮肉っていた作品となっているのだろう。
モアの理想のアメリカ像である「ユートピア」では、腐敗しきったヨーロッパから逃れてきた人が、名誉を回復し、さらに完璧な社会を造るチャンスを与えられていたので、そのような新世界に住む人々は、自由選挙で指導者を選び、不適切に権力を奪い取った者はいかなる者でも免職にする権利を持っており、さらに、外交術により戦争をする必要がない。
また、人口は注意深く抑えられ、本土から行き来する移住者の数を調節することによって均等に分散される。
さらに、どんな宗教の信者も受け入れられ、平和に暮らしていおり、財産は共有で、そこから得られる利益は自由かつ均等に分けられ、全員が生産性のある仕事に就いているが、労働時間は1日に6時間なので、余暇と勉学のために十分に時間があり、医療費は無料、女性の権利は、現代ほど十分ではないが、当時の基準をはるかに上回るものであった。
そしてモアは、中世カトリック教会の守護者であったために命を落としたにもかかわらず、物語の中では現在のカトリックの教義に全く反する離婚や安楽死、司祭の結婚を認めている。
モアは、またユートピアに法律家は必要ないとし、ユートピアにおける法律は、とても単純だったので、「誰にもよくわかるものであり、皆がそれに従っている」というのである。
『ユートピア』のなかのルールの随所にモアの法律に対する、心を打つような、現実離れをしているかもしれないが、素晴らしい自己犠牲の精神がうかがえるため、トマス・モアは、歴史上きわめて偉大な法律家のひとりであるように私には思われる。
「アメリカ」がモアの夢を実現していたならば、本当に例外的な国≒「ユートピア」になっていたであろう。
他方で、ウィリアム・シェークスピアは、欠点の多い人間が、本質的に、ユートピア的で完璧な世界を生み出すことができない理由を見事に捉えた台詞を『サー・トマス・モア』のなかで書いている。
それは、
「というのも、他の凶漢どもが、勝手気ままにおなじ暴力を振るい、おなじ理屈をこね、おなじ権利を盾にとって諸君を食いものにしてしまうからだ。
いちどそうなると、人間は、貪婪な魚みたいに共食いを始めることになるだろう」というものである。
シェークスピアが書いた最初と最後の戯曲が、共にトマス・モアの生涯と功績に基づいたものであったことは、あまり知られていないが、『サー・トマス・モア』はシェークスピアが数名の作家と共に書いた、初期の伝記的戯曲であり、『テンペスト』はモアの『ユートピア』を見事なまでに痛烈に皮肉った作品となっている。
若い頃のシェークスピアが、すでにこの世に幻滅を感じていたとするならば、老いたシェークスピアは完全に絶望していたと言えるかもしれない。
シェークスピアは、『テンペスト』を人類やアメリカンドリームの可能性に対するモアの楽観的な見方に逐一反論する形に仕上げており、『テンペスト』は『ユートピア』と同様、北アメリカ沿岸沖に在る島が舞台になっているのだが、シェークスピアは、
「新世界で新たなスタートを切ることによって、旧世界で積み重ねられた多くの罪や不正をきれいさっぱりなくすことが出来る」という考えを、容赦なく揶揄したのである。
モアが描いた新世界は、秩序があり、理性的で、寛容で、バランスがとれていて、人に対する善意に溢れた、豊かで繁栄した穏やかな場所である。
一方、シェークスピアが描いた新世界は、不毛で、荒涼とし、激しい感情と復讐の企みに駆り立てられている場所であり、旧世界とほとんど変わらない。
新世界が旧世界と変わらないのは、どこに行こうと、人間はそれまでと変わらない哀しい限界を抱えているからであろう。
さて、国外追放となったプロスペローは、無邪気な娘ミランダと2人だけで流れ着いた荒れた孤島で、恨みを抱えながら暮らしていた。
成長したミランダが知る人間は、父親と、島で生まれた異形の奴隷キャリバンの2人だけであった。
プロスペローは、シェークスピアが描くディストピアを体現したような存在で、人間の魂の奥底をのぞき込んでは、情欲、貪欲、陰謀、裏切りばかりを見出しているが、ミランダは、人間の表面的な部分に目を向け、美しく希望に溢れたすばらしい新世界だけを見ている。
ミランダには、モアのように、未来に対してユートピア的理想があるが、プロスペローは、未来は過去から逃れられないというシェークスピアの幻滅したディストピア的視点を持っているのである。
シェークスピアの悲観的な未来像は、アメリカ人による探検と開拓の現実に近かったようである。
『テンペスト』は、それが書かれる3年前に起きた実際の出来事に基づいており、それは食料が不足していた新たな植民地バージニアのジェームズタウンに向かった物質補給船の一団が、バミューダ沖で沈没した事件なのだが、難破した船の生存者の間で、事件後すぐに政治的分裂や争いが起き、不正が横行するようになったようである。
モアとシェークスピアの間の時代に地図を作り上げ、新世界の大部分を征服した勇敢な探検家たちは、大概は冷徹であり、ときには残酷なところもある人間であり、ユートピアを創るという夢を抱いていた者もいたようだが、それを成し遂げた者は皆無だったようである。
新世界は、新しい人間も、社会ももたらさなかったのだろう。
新世界は、旧世界の問題すべてがそのまま持ち込まれただけの世界だったのである。
北アメリカ大陸は、間違いなく例外的な場所ですばらしいチャンスに恵まれていたが、そこに入植した人々の例外的な高潔さを引き出すことはなかったのであろう。
シェークスピアは、モアが考えた人間像の、より信頼できる象徴としてミランダという人物を創り出した。
ミランダは、子どもの頃から島に閉じ込められ、外界の状況を知らなかったために、はじめて触れる外の世界に心を奪われが、この新世界に対する彼女の驚きは、皮肉には事欠かないシェークスピアの戯曲のなかでも、最も皮肉に満ちたもののひとつである。
ミランダが出会った人々は、立派でもなければ、人間そのものが美しいわけでもない。
彼女は、若すぎてそれが理解出来ないながらも、自分でそれを学ばなければならない。
その人たちの本当の姿を知っているプロスペローは、彼女がはじめて触れるものに抱く幻想をやんわりと打ち消す。
あらゆることを目にして苦しんできた賢明で年老いたプロスペローは、モアやミランダとは異なる視点を持ち、人間の動機の誠実さを疑っている。
ミランダのような見方をすれば、一時的には楽しい気分になるが、 将来起きることに目を向けないままになってしまう。
一方、プロスペローの悲観主義はつらい気持をもたらすかもしれないが、意思決定のためのより安全な道標になるのである。
そして、奴隷キャリバンは、こうしたことすべてに、野生そのものの生き物で、激情に駆られ、残忍さを隠さず関わっているのである。
自然状態にある人間は粗野であり、高潔ではなく、私たちが行うことが出来る最善の行為は、人間の最底辺にある感情を抑えることかもしれない。
私たちは、いくら不完全な社会制度であっても、解放された状態にある人間の本能から生じる嵐のような混乱のリスクを冒さずにそれを変えることは出来ないのだろう。
シェークスピアは、ホッブズが登場する前から、ホッブズの思想を持ち、ルソーが出てくる前からルソーを非難していた。
そして、すばらしい新世界、が堕落し、大量虐殺、宗教戦争、革命、さらに傷だらけのアメリカンドリームに対する感情をうまく利用するトランプといった世界規模の恐怖に至ると予見する先見の明を持っていたのかもしれない。
シェークスピアの『テンペスト』は、モアの『ユートピア』を逆転した作品であり、ミランダの言う美しく「すばらしい新世界」は、やがて、オルダス・ハクスリーが描くような『すばらしい新世界』になるのかもしれない。
アメリカ合衆国の建国から約250年だが、いまだに「アメリカ」は現実というよりも、いまだに、ひとつの理想のままなのかもしれない。
つまり、「アメリカ」は進行中の高尚な一大事業であり、正当な誇りの源泉であると同時に、大きな幻滅の源泉をも内包しているのかもしれない。
ジョナサン・スウィフトが『ガリバー旅行記』著したのは、モアの『ユートピア』から200年後、シェークスピアの『テンペスト』から100年後、そして、アメリカ独立宣言の50年前だった。
スウィフトは、人間の在り方に関するよい評価すべてを、意地悪に、面白おかしく、皮肉を込めて痛切に批判している。
ガリバーの旅は、バミューダに向かうところから始まるのだが、この物語の中心となるのは、きわめて多くのユートピア的な夢と、ディストピア的な悪夢であろう。
ガリバーから連想される「gullible」は、騙されやすい、とか、すぐ真に受けるという意味だが、その名前からうかがわれるとおり、ガリバーは騙されやすく、物腰の柔らかい純真な人物であり、人々に温かい関心を寄せていたのだが、ガリバーの旅は人間に対する嫌悪で終わるようである。
ガリバーはあまりにも人間嫌いになったため、人間を見ることにも、声を聞くことにも、匂いをかぐことにも耐えられなくなる。
ガリバーは、見知らぬ奇妙な場所を旅することで、人間の愚かさ、度量の狭さ、大げさな賞賛、狡さ、自己欺瞞、我が儘、無関心、邪悪さを目にしたのである。
ガリバー旅行記は、人生を楽観的に始めるほど、人生に対する失望が大きくなりがちであることや、希望があまりに現実離れした楽観的なものであればあるほど、苦い経験によってますます深く悲観主義に向かって落ち込んでゆきがちであることを、教えてくれているのかもしれない。
かつて、日本では、『ガリバー旅行記』は子ども向けの絵本などにされる扱いが多かった時期もあるが、今では、日本でもやっと政治学の教科書としても脚光を浴びているようである。
アメリカンドリームの本質は、個人や集団が持つ願望である。アメリカを建国したのは、疲弊した、人口過剰の、争いが絶えない世界から逃れて新天地へ行った移民たちであり、そのような世界から逃れてきた人々を出迎える新たな国は、少なくとも建前だけでも、勤勉によって、自由、平等な機会、成功がもたららされるという理想を唱え続けていた。
しかし、願望は実現の同義語ではない。
アメリカ独立宣言では「すべての人間は生まれながらにして平等」であると謳い、国民を多いに励ましたものである。
しかし、約250年経っても、その理想はまだ実現しておらず、「アメリカ」は現実というよりも、いまだにひとつの理想にとどまったままにもみえる。
しかし、私たちは、多くの人々が海を渡って見知らぬ新天地に向かう危険な旅に出たのは、旧世界で人々をつなぎ留めていた重苦しい制度、人間関係、伝統のくびきからひとたび逃れれば、もっとよい新たな世界を創ることが出来るというよりも純粋な願望からであることを知っている。
あまり人気の無い未開の土地は、ヨーロッパで人類が積み重ねてきた多くの悪事を正すための空白の石版を提供した。
それは、すべての人にとって新たなスタートであり、いわば人類にとっては、2度目の救済を受けるチャンスであったと捉えられていたのかもしれない。
1620年、プリマス上陸直前に結ばれたメイフラワー契約は、厄介な現実問題に対する、理想的な解決策であっただろう。
メイフラワー号には、自らを「聖徒」と呼ぶ国教反対者と、商機を求めてやってきた部外者とよばれる人々がほぼ同数乗っており、彼ら/彼女らは、自らが置かれている危機的状況を考えており、内部での対立は許されない不必要な行為だと認識していて、
「私たちは、結束し、市民による政体を形成する......そして、これに基づき、随時、植民地全体の福利のために最も適切と思われる、公正で平等な法律、命令、法令を発し、憲法を制定し、公職を組織する。
そしてこれらに対し、私たちは当然かつ全器服従と従順を約束する」
と聖徒と部外者で作成した契約の中で誓約した。
この社会契約は、公益への合意に基づいた民主的な自治を通じて、入植の動機の違いを解消し、それから10年後、またしても上陸直前の船上、のちにボストン港となる場所で、新たなマサチューセッツ湾植民地の基本的な姿勢を示すために、ジョン・ウィンスロップが
「キリスト教的慈愛のモデル」という説教を行った。
ウィンスロップはキリストの「山上の垂訓」を引用し、同胞であるピューリタンの入植者たちに向かって「世の光」を生み出すように命じ、「丘の上の光り輝く町」を造れという聖アウグスティヌスの命を引き合いに出した。
ウィンスロップは同胞に対し、新世界の生活は厳しいものになり、報酬は等分に配分されないという、現実に即した警告を与えている。
彼はその説教のなかで、
「全能なる神は、最も神聖で賢明なる摂理において、常に裕福な者と貧しい者、権力と威厳に秀でた高貴な者と身分か低く服従すべき者という、人間の境遇を定められた」と述べているが、境遇や能力、裕福さに違いがあっても、特に共同体において人々は身体の各部位が依存し合うように生きていかなければならないし、愛情と誠実さをもって、共同体のニーズを個人のニーズよりも優先させ、よりよい世界を創造し、他者が見習う手本となるように、全員が一丸となって、努力しなければならない、と説いたのである。
しかし、新世界はそのようにうまくはいかなかった。
入植者たちがつくった新世界は、旧世界を超えることが出来なかったのである。
新しい土地に来た人々は、確かにすばらしい新世界をつくる機会を与えられたものの、どこまで行っても、人間につきまとう、代わり映えのしない心理的な力や社会の力に飲み込まれてしまったのだろう。
正しい行いをするための自的意識や宗教上の命令があっても、入植者は度々間違いを起こしてしまったようで、マサチューセッツ湾植民地は建設当初から争いで分裂し、その不寛容さ、偏見、迷信のために、悪評が高く、一部では、強奪や殺戮が横行し、より良い世界をつくることなく、現状の世界に対するよい手本とはなれなかった。
また、これは、ユートピア的理想が堕落し、恐ろしい行動を正当化し、ユートピア的理想を裏切るという悪循環であった。
これだけを見ると、歴史は最悪の形で繰り返すのかと不安になるが、幸いなことに、平行して行われていたそれまでとは異なる現実的な原則に基づいた政治の試みは好ましい成果を生んでいたようである。
マサチューセッツ湾植民地が建設されてから数年後、植民地の指導者たちは、ロジャー・ウィリアムズを追放したのだが、ウィリアムズは、賛同者たちと未開の土地に移り、プロビデンス・プランテーションを建設し、1663年にそこは、ロード・アイランド植民地の一部となったが、こちらは、マサチューセッツでロジャー・ウィリアムズが嫌悪していまユートピア的理想主義とは正反対の考えに基づき運営されたのである。
ウィリアムズは、人間心理を常識的に評価し、どんな集団も腐敗は避けられないと考えていて、自己の利益を正当化するために宗教的権威が利用されることを恐れていた。
そのウィリアムズの視座から、理想主義や例外主義、宗教を大げさに主張するよりも、現実主義の方が、統治を成功させるための人道的で効果的な道標となることがわかり、ウィリアムズは人民の人民による統治を確立し、宗教的楽園をつくることよりも、世俗的な目的に尽力し、合意を旨とし、実際的な政治制度を基盤とする指導体制を確立したようである。
ウィリアムズたちは自己の利益を図り願望を実現するカルバン主義からは遠く、権力は神から与えらるという神話も信じてはおらず、ウィリアムズは、当時としては斬新な、教会と国家の「分離の壁」という概念を提唱し、完全な宗教の自由をも保障したのである。
ウィリアムズは、自分たちが、丘の上に神の町を造ることが出来る、などという、ひたすら楽天的で偽善に満ちたユートピア的概念を頼みにはせず、実現可能な政治的解決策と人間関係を創り出すことの重要性を理解していたのであろう。
アメリカ建国の文書である「独立宣言」の冒頭に
「私たちは、以下の事実を自明のことと信じる。
すなわちすべての人間は、生まれながらにして平等であり、その創造主によって、生命、自由、および幸福の追求を含む不可侵の権利を与えられているということ」ということばが在る。
独立宣言の起草に当たって、トマス・ジェファーソンは、モアの『ユートピア』から強い影響を受けていた。
しかし、ジェファーソン自身が奴隷所有者でもあったために、自分の現実が理想にかなうまでには至らないと分かっていたであろう。
奴隷制を擁するアメリカで、すべての人間が「生まれながらにして平等」であることは、決して当たり前の話ではなく、ジェファーソンの個人的な経験からも、彼が独立を宣言した新しい国の経験からも、すべての人間が生まれながらにして「不可侵の利益」を与えられていることを示すものは全く存在していなかったし、ジェファーソンお気に入りの私邸「モンティセロ」では、奴隷の権利が著しく侵害されていたともいわれている。
「アメリカ」は、高尚なユートピア的理想とともに生まれたが、その理想は常に日々の厳しい現実に裏切られていたのである。
「幸福の追求」という表現を誤って解釈したことも、今日まで、アメリカ例外主義の価値をおとしめてきたのかもしれない。
独立宣言の100年近く前に、哲学者ジョン・ロックは著書『統治二論』で
「何人も他人の生命、健康、自由あるいは所有物を侵害すべきではない」
「幸福の追求の必然性は自由の基盤である」と述べた。
ジェファーソンはロックから、「幸福の追求」という概念を借用したのである。
「幸福」という言葉はロックやジェファーソンにとって特別な意味合いを持っていた。
彼らにとって幸福の追求は、より善い人間になることであり、もっと責任感のある市民になることを意味した。
個人の快楽や喜びではなく、
勇気、節制、正義という市民の徳を指した、古代ギリシャ哲学における「幸福」ということばを彼らは使ったのである。
アリストテレスは『ニコマコス倫理学』で
「幸福な人間は善く生き、善きことをなす。
なぜならば、私たちは幸福を事実上ある種の善き人生とか善き行為と定義づけてきたからである」
と述べている。
また、ロックは『人間知性論』で、さらに明確に
「私たちは、自分たちの最大善としての真の幸福を選択し、追求する必然性によって、個々の場合の欲望の満足を停止しないわけにはいかないのである」
と述べている。
つまり、人を惑わす幸福感は「真の堅固な」幸福ではないのである。
アメリカ独立宣言に盛り込まれた幸福の追求が「自由の基盤」であるのは、それがまさに個人の欲望の奴隷となることから解放され、よりよい市民となることを狙いとしたものだからである。
ジェファーソンが言ったように
「最大の幸福は、運命によって私たちが置かれる生活状態によって決まるのではなく、良心、健康、職業、自由を全力で追求した結果得られるもの」なのである。
以来、確かにアメリカ人はひたむきに幸福を追求してきたが、それはアリストテレスやロック、ジェファーソンが考えていた市民の徳をだったのではなく、いつの間にかマスコミが宣伝する安直な幸福の追求になってしまった部分も在るように見える。
常に現実的だったベンジャミン・フランクリンはこうなることを見通していたかのように
「憲法は幸福追求の権利を与えているだけである。幸福は自分でつかみ取らなければならない」と述べているが、今、これまでにもまして、アメリカに限らず、世界中で、私たちが偽りの儚い消費の快楽にとらわれ続けることなく、持続可能な世界で、どうすれば真の幸福を最善のかたちで追求できるかについて真剣に考えるべき局面に来ていることだけは、確かなようである。
さて、リンカーンは、アメリカ例外主義のより高尚で、向上心にあふれた側面を、最もよく体現した人物のひとりであり、国民は自分の生活を模範的なものにするだけでは十分ではなく、自分たちがよりよい世界への道標となる光を灯そうとする決意を、ゲティスバーグの演説で、
「戦死者の死を決して無駄にしないために、この国に自由の新しい誕生を迎えさせるために、そして、人民の人民による人民のための政治を地上から決して絶滅させないために、私たちが、ここで、固く決意することである」というように表明している。
1863年におこなわれたこの演説は、アメリカが不当な動機で残酷な内戦を戦った、流血の戦場の一角であった場所で行われ、このときのアメリカは、よりよい世界を目指す手本とは言い難かったが、リンカーンは、ひとたび各州が結束すれば、アメリカという国は、やがて戦争の傷を癒し、高い道徳基準を取り戻し、人々を救いに導くと考えていたのである。
勿論、リンカーンは人間とアメリカが抱える実に悲しい欠点を常に認識していたが、常に人間の善き本性を探し求めていたし、頻繁にそれを見出してもいたようである。
リンカーンの視座からすれば、アメリカ国民はある意味選ばれた者であり、選ばれた者であるなら、貪欲さではなく、善良さにおいて「例外的な」存在とならなければならなければならなかったのであろう。
ここまで、読んでくださり、ありがとうございます。
今日も、頑張り過ぎず、頑張りたいですね。
では、また、次回。