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最後の三島由紀夫③―森田必勝という名の触媒―
化学の世界では、どんなにラディカルな化学反応を起こす触媒でも、化学反応式には書かれることはないようである。
それは、触媒は自分自身以外の周囲の化学反応の速度に影響を及ぼすが、自分自身は化学反応の前後で変化しないから、化学反応式に書かれないのであろう。
森田必勝は、まとまった論文も遺書も残さず、演説もせず、黙って死んでいった。
三島事件の触媒である森田必勝もまた、自分自身の周囲を激しく変えながらも、その悩みや苦悩の痕跡すらも残さなかったようである。
三島由紀夫の死を前提とした実行計画は森田必勝と三島由紀夫が出会ってからであり、それ以前の三島は、死を具体的に考えておらず、それは作家・三島由紀夫の文学的な観念論にすぎなかっただろう。
しかし、死を怖れぬ青年・森田必勝と出会うことによって、三島の観念論としての「死の美学」は「死の哲学」へと変貌せざるを得なかったようである。
三島事件の前日、森田必勝は、西新宿公園近くのお茶漬け屋で静かに夜食をとり、事件当日の午前1時半頃には、下宿に帰宅し、ルームメイトで「楯の会」の会員である田中健一に、記者の伊達宗克と徳岡孝夫への手紙を託し、すべての準備を終えても、なかなか眠れなかったようである。
森田は、外に出て、新宿の深夜バーの女性を呼び出し、深夜の街をふたりで黙って、当てもなく歩き続けたようである。
私には、このとき、森田必勝が、夏目漱石の『こころ』のなかの先生のように
「聞いてください、私はこのようにして生きてきたのです……」
ということばを心のなかで繰り返していたようにも思われる。
森田必勝は、3歳で、父と母を相次いで亡くし、年の離れた兄に育てられ、悩みや苦しみがあってもいつも元気で、快活な子どもを演じていたらしい。
当時、森田必勝を姉が母親代わりに支えてくれたのだが、その姉が結婚と同時に家を去ると森田は動揺し、さらにその後、兄が結婚すると、追い出されるように、親戚の家に預けられ、このことは森田必勝の心を深く傷つけ、のちに実家に戻されてからも、兄への不信感は消えなかったようである。
森田必勝は、日記に残しているように、
「誰かにすがりつきたいが、誰もいない」
と感じていたのだろう。
実家の片隅に建てられた小さな小屋で、一人暮らしをしていた森田必勝は、高校時代には深く考える少年になっており、また生徒会長になったり、思想や政治への関心も早くから目覚めていたようである。そのころ、森田は日記に
「そうか、お母さんのいる天国へ僕も行こうか。お父さんも待っていてくれると思うけど、きっと仲が良いんでしょうね」
と記すことにより、自分を取り戻していたが、一方で、行動的であり、将来は政治家になりたいと思い、河野一郎のファンになり、河野一郎の事務所を直接訪問し、警察に補導されたり、九州や北海道への自転車旅行をする高校生でもあったらしい。
森田必勝は、早くから死とともにあり、また死を怖れない少年だったのだろう。
森田必勝の思考の徹底性は、早稲田大学に入り、学生運動を通して三島由紀夫と出会うことになり、さらに過激化した。
それは、森田必勝が、三島由紀夫のなかに、思想や文学以上に、はじめて信頼できる人間を見出したからだろう。
実際、森田必勝は、三重の友人たちに、
「私は生涯の師を見出した……」と語るほどであったようだが、これは、三島由紀夫の文学にさほど興味がなかった森田必勝が、人間・三島由紀夫に感服したからではないだろうか。
しかし、
「先生のためには、いつでも命を捨てます」という森田のことばは、三島が考えることばの遊びの域を超え、現実のものとなってゆき、森田必勝は、死をかけた実行計画が具体化し始めた頃、
「三島由紀夫がやらなければ、俺が三島を殺る」と言うようになった。
森田必勝には、三島由紀夫が、
「やめよう、今までの話は全部芝居なのだから」
と言って、家族の元へ帰っていくのかもしれないという不安がどこかにありながらも、信じていたのだろう。
哀しいほどに信じていたからこそ、そう言ったのかもしれない。
11月2日、決行を目前にして三島が、
「森田、お前は死ぬのはやめろ……」と言ったときに、森田は、
「親とも思っている三島先生が死ぬときに、自分だけが生き残るわけにはいかない。
死への旅路に是非お供させてほしい」
と言い、三島由紀夫のなかに、殆ど記憶さえない親の面影を見い出していたようである。
森田必勝の死の決意は、単純なものかもしれなかったが、その単純なものの思想的深さが貴重なものであり、ある意味では自分に欠けているものだということを、三島由紀夫はよく知っていたのではないだろうか。
三島由紀夫は、時分にないもの、自分にできないものを森田必勝のなかに見いだしていたのだろう。
中村彰彦は、三島事件で主導的な役割を演じたのは、実は森田必勝だったのではないかと問題提起しているが、私には、その可能性もあるように思われる。
森田必勝と出会う前の三島の
「早く死にたい……」ということばは、観念的なおしゃべりにすぎず、森田必勝という青年に出会うことにより、はじめて具体的な死を決意したのであろう。
三島由紀夫の観念論としての「死の美学」は「死の哲学」へと変貌せざるを得ず、実行計画が具体化するにつれ、三島の精神も高揚し、心理的にも動揺しはじめ、三島は、年来の友人や思想仲間や同士たちとも次々と対立し、絶縁や絶交をはじめたのだが、それは、三島が「短期決戦」を主張しはじめたからでもあろう。
三島は、主に反共民族派に
「君たちの長期の展望に立った運動は評価するが、そのような路線は関心の外だ」
と宣言し、「日本学生同盟(日学同)」グループと決別し、三島由紀夫の「楯の会」の自衛隊体験入隊に協力し、三島も信頼を寄せていた自衛隊調査学校の山本舜勝も、三島の「短期決戦」には批判的であり、三島が「短期決戦」を主張すればするほど、三島は孤立していったようである。
しかし、三島由紀夫は、「言行一致」、「知行合一」という論理を戦後日本の学問や文学を思想的に支配してきた左翼文化人を批判するときに使ったからこそ、「逃げる」ことはできなくなっていたのではないだろう。
そして、「逃げる」ことは、三島文学の解体にも繋がりかねない危険性があることを三島は痛感していたのだろう。
作品と生活は別だと言えばよい芸術論ならば三島由紀夫は、いくらでも逃げることはできたのだろう。
しかし、逃げられない死が迫ってきたとき、美学ではなく、哲学が、実践的な「死の哲学」が必要となったのであり、三島美学が吹き飛んだところにこそ、三島事件の「怖ろしさ」と「哀しさ」があるように私には思われる。
森田必勝との出会いは、三島由紀夫を確かに、「死の美学」か「死の実践哲学」へ導いていったのであり、森田必勝の存在なしに三島事件は存在しえなかったとも言えるのではないだろうか。
森田必勝の「死の哲学」は、徹底しており、仲間の野田隆史が、5・15事件の首謀者橘孝三郎を褒めたとき、森田の
「あれだけの事件を起こして、どうして命を捨てなかったか。
最後に逃げたやないか、絶対に許せん」
ということばに象徴されているようである。
確かに、森田必勝は、まとまった論文も遺書も残さず、演説もせず、黙って死んでいった。
三島由紀夫よりも過激であったにもかかわらず、そのような痕跡を森田必勝自身は残さなかった。
しかし、森田必勝という触媒は、三島由紀夫と出会い反応することで、私たちの記憶に残り続け、私たちの思考にも作用し続けているのであろう。
ここまで、読んで下さり、ありがとうございます。
今日も、頑張り過ぎず、頑張りたいですね。
では、また、次回。