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私たちが直面しているあいまいな境界線から②ー偽陽性のリスクから目を背け、加齢による物忘れをMNDにするものー【番外編の日記】

このシリーズを描こうと思ったときに、原研哉の
「何かを分かるということは、何かについて定義できたり記述できたりすることではない。
むしろ知っていたはずのものを未知なるものとして、そのリアリティにおののいてみることが、何かをもう少し深く認識することにつながる」
ということばを想起した。

原研哉はここでデザインについて述べているのだが、デザインも他のどの学問もその核心(core)部分は同じではないか、と私は思う。

さらに原研哉は、
「少し深く理解するとまた少し分からなくなるが、それは以前よりも対象に対する認識が後退したわけではなく、それはその対象の世界の奥行きに一方深く入り込んだ証拠なのである」
言っており、私にもそれは正しいように思われるのである。

さて、哲学は「正常(normal)」について、古来からあまりにも語ってこなかった。

どうも、哲学には、道徳、正義、愛、美、私たちの認識の仕組みや、人間の本質、自然法など仰々しくどちらかいうと身近とは言えない概念の意味を深く理解したがるところがあるようで、「正常」は哲学的思索の対象としては好まれてはおらず、放置されているといっても過言ではなかった。

長く放置されたあと、日常の身近な問題に哲学を用いようとする新たな動きが現れ、その先駆けとなったのが功利主義であり、「正常」と「精神疾患」をどこでどう線引きするかについて、現在も現実的、哲学的な唯一の指針となっているようである。

その基本前提は、美と同じく「正常」もまた、見る人次第であり、時代や土地や文化に拠って変わってくるため、「正常」に普遍的な意味など無く、必死に演繹法を働かせても、厳密に定義することは不可能だというものであろう。

それゆえに「正常」と「精神疾患」の境界線は空理空論に基づくべきでなく、異なる選択をしたときにどのような正負の影響があるか、というバランスに基づくべきであり、「最大多数の最大幸福」を常に追求しなければならならならず、何が最善の結果を出せそうか、考えて決断しなくてはならないという考え方になっていったのである。

しかし、現実的な功利主義を貫こうとしても、それがあてにならないときもあることは否定し難いだろう。

大小をどのよのように測定し、幸福をどのように定めればよいのかについてはぐらついており、悪い例を出してしまうと、「最大多数の最大幸福」がヒトラーにより第二次大戦中に、
「支配人種の最大幸福のために」は必要だと悪用され、異常な蛮行は功利主義の立場からと称して正当化されたのである。

邪悪な手に落ちた、功利主義は、善き価値観から目を背け、悪しき価値観によって歪められることは、哀しい歴史が証明している。

それでも、私たちの世界では、精神の「正常」と精神の「異常」のあいだに線を引こうとするとき、功利主義は、いまだに最善かつ唯一の指針である。

さらに、この考え方は、日本も導入している、アメリカ精神神経学会の『精神疾患の診断統計マニュアル第5版(以下DSM-5)』の基底をなしているのであり、事実、DSM-5の作成者たちのなかでも中心人物がそう述べているようである。

ところで、人間は、誰でも多少の差異は在れどお年寄りと呼ばれる世代前後になると、その前の若くて体力があったときに比べれば、目も悪く、耳も遠く、歯も悪く、眠りも浅く、足も遅く、トイレは近くなる。

こうした加齢に伴うありふれたしかし避け難い肉体の衰えは、
「病気として定義されていない」。

しかし、何故か、精神の衰えは、今やDSM-5 で軽度認知障害(以下MND)という精神の病気にされている。

このMNDは、昨年のレカネマブの承認などに伴って、かつてよりかなり有名になっているようである。

MNDの診断は、まだ認知症ではないが、精神機能低下の徴候が出ていて、のちに認知症を発症するおそれのある人々に用いられるが、

逆にそうでないと断言できるお年寄りがいるのであろうか。私は、この疑問を禁じ得ない。

私も、もし、MNDの治療法があり、先々を予測するのに大いに役立つのならば、MNDという名称も意義があると思うが、今のところ、明確な治療法はないし、先々を予測など出来ない。

2023年ののレカネマブの承認際も私には、そもそもMNDの診断や治療(明確な治療法はないのだが)が出来る専門医が日本でどれほどいて専門病院がいくつ在るのかと考えての厚生労働省の判断とは、思えなかった。

たまにこの日記に登場するDSM-5の作成者のひとり(アメリカの精神科医)も、
「自分自身にMNDの診断を下しても、どうすればいいのかわからないだろう。
正確な生物学的検査や有効な治療法がないかぎり、精神機能の老化を受け容れる方が、精神機能の老化に無理やり何らかの診断を下すより、理に適っている」
と発言している。

しかし、実際に特にアメリカでは、一般診療の場では、基準の細部は無視され、非常に軽々しく診断が下されるようである。

そのためMNDは認知症の初期症状が出ている人々に限られた診断ではなくなり、拡大解釈されがちとなり、ひいては、正常な老化に付き物の精神機能のゆるやかな低下まで医療の対象としてしまう、
という構造が出来てしまうことを非常に私は危惧している。

確かに、アルツハイマー病の専門家たちのあいだには診断や手段の開発が遅々として進まないことへの不満がくすぶりつづけており、だからこそ、早期診断を推し進めだがるのだろうが、それは、MNDは早期発見の可能性に光を当て、少々強引でもこの分野を見て欲しいという専門家のある意味希望と、しかし、ある意味欲によって提案されたことに私たちは留意しなければならないであろう。

しかし、これは本末転倒に他ならない。

人々の生活や国による限られた医療費の配分に大きな影響を及ぼす診断は、確立された科学(的論拠)と公共政策論議に従わなくてはならないからだ。

MNDを提案した専門家たちは、自分たちの分野を拡大すれば患者のためになる、と無邪気な善意から行動しているのかもしれないが、彼ら/彼女らの眼にはひとりひとりのQOLやその家族のQOL、さらには、偽陽性のリスクや社会的損失は見えていないだろう。

さらに、薬や診断を商品にする企業はほぼほぼ善意で動いてはいないだろう。

有害無益である可能性の高い、陽電子放射断層撮影や脊髄穿刺や薬物療法が急増したときに喜ぶのは、患者や納税者でないことは言うまでもあるまい。

ここまで、読んでくださり、ありがとうございます。

まだ、2回目ですが、【番外編の日記】の表示をやめて、普通の日記と同じように描いていこうかなあ、と、もう悩んでいます😅

私は、「生まれ出でて、病気になったりもしながら、老いていつか死んでゆく」という、自然な流れを、なんだかやたらと難しくしているさまざまな新しい病名や病気の概念が最近は在りすぎるのではないかなあ、と思うことがあります。

もちろん、病気は怖いですし、そうだった場合、自分や家族、そして周囲の人々には治して欲しいと思います。

ただ、どこまでが本当に病気で、どこからがそうでないかが、よくわかりにくい精神の領域では、やはり診断インフレが起こりやすいし、新たなあまり確立されていない治療法を矢継ぎ早に(もはや「ダメなら次の方法」という消去法?)や副作用がよくわからない新薬を投与されがちだったことは、私かつての経験からも言えます。

かつて、私には1番か次点くらいに病名の数の多さと多剤処方がキツかったとき副作用で一気に20Kg以上太って、脚も悪くし、他人からも嗤われた時期もありました。

当時は、原因がわからず、不安で、不満で、途方に暮れました。

のちに太る副作用がある薬が判るのですが、当時の医師は、相談しても凝りに凝った血液検査をするだけ、血液に妙なところはないと、首を捻るだけでした。

何とも言えない複雑な想い出です。

先回のDMDDの話も、今回のMNDの話も、まず、数値やCTや血液検査など目で見えるものではなく、解釈領域の広い精神の話なので、いきなり、〇か×か線を引くことは出来ない、と私は思います。

ひとひとりの背景も考えず、基準に当てはまるからとすぐに、多くの線を引き、多くの病名を付けることの意義や意味を(特にこの分野では)私は当事者だった者としてはあまり感じません。

次回もよくあることなのに病気にされがちなことについて考えて描いてみたいと思います。

今回も読んでくださりありがとうございます。

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