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社会のなかの芸術、芸術のなかの社会③ーゴールディングの『蠅の王』を再現したような1954年の実験からー(トランプ氏大統領就任当日)
時代や場所を問わず、子どもの行動のなかには、大人の行動を真似たようなものや、人間の本性がむき出しになるようなもの、そして過去の歴史を描いたようなものまでもを見ることができるのだろう。
ピーテル・ブリューゲルは、芸術の分野でそれらを記録しようとしたようであり、1560年には『子どもの遊び』という作品のなかに、大人のいない、子どもだけの世界を描き、私たちにその世界なかの体系だった秩序を見せようとしているようである。
『子どもの遊び』は、航海術が発達し、地球は丸く一周することができ、世界全体を見渡すことは天上の神だけでなく地上の人間にもできると人々が知りつつある時代に描かれており、そのため、身のまわりに目を向け、自分自身の可能性に気づいた人間に対して描かれたもののようにも見える。
社会や自然のしくみについて、それまでに知られていることを、学者や人文学者たちは、すべて収集し記録しておこうとし、ブリューゲル自身も芸術の分野でも、それを実行しようとしたのではないだろうか。
それから約400年が経とうとしているとき、心理学者と小説家が、同じ1954年、ほぼ同じテーマで本を出版した。
ひとつは、ザファー・シェリフによってロバーズ・ケーブ州立公園で、ロバーズ・ケーブ実験と私たちが、よく呼んでいる実験をまとめたものである。
実験では、5年生の男子から構成される2つのグループが、オクラホマ州南東部の山の中での「サマーキャンプ」体験に招かれる。
招かれた全員が、中流階級の家庭で育ったプロテスタントで、同じ地域から参加し、疾患がない、知的機能が平均以上とされる子どもたちだったそうである。
各グループは、まず一方のグループから隔離された状態で、1週間のキャンプ活動に参加した。
各グループは、自然と団結力を高め、さらにはグループに「イーグルズ」と「ラトラーズ」という象徴的な名前まで付けたのである。
その後、両グループが互いに接触することを許されるとすぐに、「私たち」対「彼ら」という対決姿勢が生まれた。
キャンプ指導員たちは、彼らにとって価値のある賞品やトロフィーが与えられるゲームを用意した。
すると両グループは、大小さまざまな問題で衝突し始め、
特に資源が不足したとき、例えば、一方のグループが夕食に呼ばれる前に、夕食用の食料が底をついてしまった場合など、競争が激化したのである。
スポーツ競技では、相手を挑発するような言葉を発し、典型的な侮辱の応酬となった。
間もなく両グループは、互いの小屋に侵入し、持ち物を壊し賞品を盗んだ。
また、チームの旗を燃やし、威嚇し、相手を直接攻撃する計画を立てた。
この実験は、まさに大人の世界でいう「部族主義から戦争への課程」の縮図を示すこととなってしまったのである。
そこで、キャンプ指導員は、こうした敵意をなくさせるために、両グループを競争を伴わない、さまざまな活動に一緒に参加させることにした。
例えば、食堂で一緒に食事をさせたり、皆でピクニックに行かせたり、日々の雑用を一緒にさせたりしたのである。
しかし、互いを嫌がり、相手と交わりたくないという気持ちは根強く続いていた。
両グループにつながる団結力が見て取れたのは、実験のために仕組まれた数々の「災難」に両グループが向き合ってともに作業をし、互いに犠牲を払わざるを得ないときだけであった。
反目し合う集団がひとつになるのは、集団間の相違よりも、共通の利益が重要になったときだったのである。
しかし、このことは、思わぬハッピーエンドに繋がった。
キャンプ終了時、一方のグループが賞金を勝ち取ったとき、そのグループはもう一方のグループと賞金を分け合うことにし、その結果最期に皆で、一緒にオーツミルクを飲むことが出来たのである。
キャンプ指導員の仲裁により、ようやくその争いは収まったのであるが、これは、ラストこそ違え、1954年に、オクラホマの山中で起きた、まるでもうひとつの『蠅の王』の物語ではないか、と私は思うのである。
もうひとつは、まさに、そのゴールディングの『蠅の王』という1954年に出版された小説である。
小説のなかで、戦いを避けるために子供たちを疎開地へ運ぶ飛行機が海へ墜落し、乗組員の大人が死亡、助かったのは全て少年たちだった。
南太平洋の無人島に置き去りにされた彼らはラルフとピギーというふたりの少年を中心に規則を作り、烽火をあげ続けることで救援を待とうとする。
最初こそ協力し合っていた少年たちであったが、ヴェルヌの『十五少年漂流記』のように野獣の襲来など、少年たちが一致団結して戦うことができるような「敵」の存在を見出すことができなかったため、やがて、お互いに疑心暗鬼を引き起こし、しまいには、仲間を殺めてしまうという事態にまで状況を悪化させてしまう。
小説『蠅の王』が追究するのは、このような状況を引き起こした原因の背後にあるもの、人の心の深奥に潜むものなのではないだろうか。
同じ年頃のイギリス人であること以外には、ほとんど見ず知らずの者同士であった『蠅の王』の少年たちの間には、サバイバル生活をはじめる前からすでに、疑心暗鬼の入り込む余地があり、また、人間にとって恐ろしいのは、知らない、わからないものの存在であることが『蠅の王』には描かれているようにも思う。
少年たちの理性は、瞬く間に恐怖に飲み込まれていき彼らはとうとう、見えない「敵」を発見してしまったようであり、この見えない「敵」との闘いはやがて「狂気」との闘いへと発展ていくのである。
このような実験の研究における科学も、ゴールディングの『蠅の王』における芸術も、子どもたちだけの世界を描き出したのではなく、私たちの世界の縮図を描き出したものであり、原始時代の部族に見られた攻撃性が、無意識のうちに現れてしまうことを示しているのではないだろうか。
私は、ロバーズ・ケーブ実験の研究における科学も、ゴールディングの『蠅の王』における芸術も、私たちの世界を引き裂く部族主義について、説得力のある具体例を示しているように、また、部族主義を終わらせる道標ともなっているのではないかと、思うのである。
『蠅の王』のなかで、ラルフが、
「ぼくがいおうとしたのは……たぶん、獣というのは、ぼくたちのことにすぎないかもしれないということだ」と語るのだが、部族主義を終わらせる道標も、私たちの社会生活に関わるDNAに刻み込まれているようである。
その悪い面は、部族に帯する忠誠という、一見良さそうな大義名分の下に、私たちは、実に酷いことを簡単にやってしまうという面であり、良い面は、人々が共通の困難に対応したり、共通の敵に立ち向かったりするために互いを頼らなければならないときに、集団間の敵意が薄れる面である。
残念なことに、競争意識を生み出すことは、それを解消させることよりもずっと簡単なのである。
しかし、幸いなことに、条件が整えば、競争に代わって協力し合うことが可能になるのである。
残念なことに、部族主義は、現代生活の至るところに存在する。
そして、人口増加の圧力が高まり、資源が不足しつつあるために、部族主義は、激しさを増している。
さほど単純な構造ではないにせよ、シーア派がスンニ派を害し、スンニ派がシーア派を害するのは、そのためでもあろうし、イスラエルとパレスチナは和平プロセスに約80年間も関わっているが、平和はもたらされた、とは、到底言い難い。
人間が持つ部族主義には、進化の過程を生き抜く上では、大きな価値が在った。
私たちの祖先である狩猟採集民族は、経済の面でも安全の面でも、自分が属している集団に全面的に頼っていたため、そこから追放されたり、離れたりすれば、ほぼすぐ命を落とすことになったからである。
しかし、今や縮小した世界に住む私たちにとって、過去から受け継いだ部族主義は、先の見えない未来に向かう途中で致命的な問題になるだろう。
世界のなかで、二極化をなくし、そして、二極化が徐々に民主主義を蝕むことを防ぐために、「私たち」と「彼ら」という部族的感覚で広がりつつある亀裂は埋められなければならないだろうが、アインシュタインが認識していたように、部族主義は、未熟さそのものであるが、成長によって、部族主義から、脱することができるようである。
かつて、アメリカでは「青色」(北軍)と「灰色」(南軍)が戦い、ロシア内戦では、「赤軍」が「白軍」と戦い、私たちは、旗を振り、ひいきのスポーツチームを応援し、おそらく多くは自国を愛しているだろう。
450年以上前のブリューゲルが身近な世界とそこに生きる人間のありのままの姿のなかにあるものを再発見したように、いま身近にある世界とありのままの私たちのなかにあるものを目を逸らさずに、見つめ直すときに私たちは、差し掛かっているようである。
ロバーズ・ケーブ実験の研究における科学も、ゴールディングの『蠅の王』における芸術も、ブリューゲルの『子どもの遊び』のなかの84個の遊びひとつひとつも、私たちに今も教えてくることは多いだろう。
ここまで、読んで下さり、ありがとうございます。
今日も、頑張り過ぎず、頑張りたいですね。
では、また、次回。