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私たちが直面しているあいまいな境界線から③ーDSM-5が提起した問題たち①ーMDD、ADHD、インターネット嗜癖ー

世界保健機関(以下WHO)の
「健康」
の定義を見てみると、

「健康とは、病気でないとか、弱っていないということではなく、肉体的にも精神的にもそして社会的にも、すべてが満たされた状態にあることをいう」
とある。

WHOの「健康」の定義に当てはまる人はどのくらいいるのだろうか。

この「健康」の定義は、1946年6月19日から22日にかけて、ニューヨークで開かれた国際健康会議で採択された世界保健機関憲章前文に在るのであるが、定義の中身とともに、実に恐るべきなのは、1946年7月22日に61カ国の代表が署名し、1948年4月7日に発効して以来、つまり1948年から、この定義は修正されていない、ということである。

私は、WHOの「健康」の定義を見たり、思い出したりするたびにいつも、これほど途方もなく厳しい基準を満たさなければ健康でないのならば、自分は健康だと言い張れる者がいるのであろうか、と疑問に思う。

さらに誰もが多少は病気ということになってしまうほど健康が手に入れ難いのであれば、健康の概念に価値などなくなる、とも思う。

この定義からは、文化や背景に左右される価値判断が滲み出ているのだが、だれが、どうやって、肉体的にも、精神的にも、そして社会的にも、「すべて」が満たされた状態を定義するのだろうか。

例えば、懸命に働いたせいで身体が痛んだり、何か期待はずれのことに悲しんだり、家庭が不和だったりしたら病気だということになるのであろうか。

また、金銭的に貧しい人は、「健康」に必要な、すべてが満たされた状態を手に入れるための財力に乏しいから、と金銭的に豊かな人よりもともと病気だということになるのであろうか……。

しかし、よく考えてみると、1800年代末まで医学を支配していたのは、私たちが今、体液説と呼ぶ「健康と病気は4つの体液(血液、粘液、黄胆汁、黒胆汁)の割合で決定される」という説であった。

今でこそ滑稽に見えるが、この健康の定義は人類が天動説など比較にならないほど根強く信じ続けた思想だったようである。

体液説は、世界最高の頭脳が約100世代にもわたって抱き続けてきた信念であり、4000年ものあいだ医療行為を左右したことを考えると、19世紀末になって、生理学や病理学や神経科学が劇的に発展してようやく、体液説を追いやって、現代医学がその地位についたのだから、その歴史の浅い現代医学がまだ「健康」と「病気」のまともな定義が出来ていないのは当然かもしれない。

WHOの「健康」の定義が如実にそれを表しているだろう。

しかし、現実に即した健康の定義をするというよりは、定理を積み重ねて、とりあえずの定義を作るような手段が今は合理的なのかもしれず、定理を先にしてそれらを積み重ねた上に在るような定義を、証明することではなくて、検証していくしかないのだろう。

いずれにせよ、実は私たちには「健康や病気の明確な定義」はなく、時代や土地や文化を超えて通用するものでないことは確かなのではないだろうか。

さて、統計学は、ことばよりも数字による分析方法だから(前に触れた哲学や言語学よりも)、健康や正常を定義するのには最適のようにも見える。

私たちは、何を測定しても小さな誤差が生じるのだが、十分多くの数を測定することにより集めた数値たちを記録していくと最後には美しい曲線にまとまる。

この曲線は美しい対称形であるその形から私たちにベル形(鐘形)またはベル曲線と呼ばれている。

ベル曲線の頂点には最も頻度の高い数値が来、曲線を両側へくだるに従って頻度は低くなり、この平均値から離れてゆく。

ところでベル曲線は、生の仕組みについて多くを説明してくれる。

例えば、人間の特徴は、肉体、感情、知性、態度、行動のどれを採ってもひとりひとり異なるが、この差異は決して無法則ではなく、さまざまな特徴がベル曲線に沿って分布し、人口中に連続分布している。

身長、体重、知能指数、性格などの特徴は、平均値を中心としてはずれ値がその両側に左右対称に並ぶ形で固まることだろう。

このことを最も簡潔、明瞭に表しているのが標準偏差であり、標準偏差は統計学の用語で、測定値が安定した規則性を持って平均値の付近に集まる様子を指して使われる。

しかし、統計学をなんらかの単純明快な形で用いて、精神の「正常(normal)」を定義することは出来たり、ベル曲線は、誰が精神的に「正常」で誰がそうでないかなど判断する科学的指針となるのだろうか。

現実的には、けっして出来ないし、するべきではないと私には、思われる。

なぜなら、現実は統計、状況、価値などにまつわる判断があまりにもたくさん在り、それらのファクターたちが統計学による単純な解決を妨げるからである。

そもそも、どこに境界線を定めるのであれ、軸上でその境界線の両隣にいる人たちはまったくと言って良いほど変わらないはずなのに、一方は病気で、他方は健康だというのであろうか。

確かに基準値や境界線がある程度必要だ、と私も思う。

しかし、日々の不安や悲しみはどれくらい深刻ならば精神疾患か、などという問いに、安易な基準値は存在しないだろう。

そして、統計ばかり見て、精神疾患を大きく拡げる行為はナンセンスであるということだ、とも思う。

ところで、臨床医、専門家団体、専門誌、新聞、そして世界中の何十万もの遺族が広く反対したにもかかわらず、DSM-5において、死別から何週間も経っていないような場合でも、遺族に対してMDD(大うつ病障害)の診断を下し易くする、という頑迷にも間違った決定はなされたようである。

確かに、喪の過程で、うつ病と全く同じ症状が出ることは珍しくないことである。

前回も登場したDSM-5に関わったアメリカの精神科医の言葉を借りれば

「症状が深刻で長期にわたって続き、生活に多大な支障を来たし、遺族の命までもが危ぶまれる状態で無いかぎり、大うつ病の診断の必要はない」のである。

しかし、人生の基本調律を成しているものを扱うとき、精神医学は慎重であるべきだ、と私には思われる。

もし、悲嘆を医療の対象にするのならば、心痛は低俗なものとなり、死別を乗り越えてゆく自然な過程が妨げられ、悲嘆を癒すために古くから使われている数多くの文化的儀式が頼られることがなくなり、不必要で有害なおそれのある薬物療法(かつて当事者だった私に言わせれば、過剰投与による感情のさらなる混乱と、過剰投与を止め始めると出現する離脱症状のひとつとしての、整理の出来ないほどの感情の錯綜を生むおそれのある薬物療法)を招く。

悲嘆を癒す共通の方法はないのだろう。

私たちは、それぞれの風土、それぞれの文化、それぞれの伝統、それぞれの宗教、それらに基づく価値観のなかで、行動面や感情面にかかわるさまざまな対応や儀式を定めている。

さらに、悲嘆の内容、症状、期間、他者からの支えなど、個人差がひとりひとり大きく、定まった「応え方」などないはずである。

悲しみの境界線は視えないのだから、またひとりひとりの背景が在るのだから、悲しみを自分なりの形受容しようとしているひとと精神医学の助けが必要な抑うつ状態からどうしても抜け出せないひとを分ける明らかで確かな境界線はないのかもしれない。

明らかに必要な場合を除いて、精神医学は不要で不適当になりがちな精神医学の儀式を押しつけるべきではないのだろう。

悲嘆を医療の対象にしたところで、誤認された「患者」と遺族に対して間違ったメッセージを発するだけではないだろうか。

悲嘆に精神疾患の誤ったレッテルを貼ることは、失われた命と遺族の死別反応を貶めることであろう。

なぜなら、あらゆる文化の核に在る、時間の洗礼を受けた厳粛な死の儀式を、表面的で無機的な医学の喪とその悲嘆の対処方法で代用など出来ないからである。

特定の時代と土地に限っても、規範は衝突するようである。

社会学の父のひとりであるデュルケームは1世紀以上前に、
「社会は自殺を禁じる傾向にあり、自殺は何より個人的な決断であるにもかかわらず、各国の自殺率は年によって驚くほどむらがない」
という道徳的な正常と統計学的な正常とのありがちな相違を実証する統計を示したようである。

また、どんな社会も犯罪を禁じているが、犯罪は至る所でしょっちゅう発生するため、それは社会は統計学的な観点からは完全に正常だが、法的な観点からは、完全に異常であることになってしまうだろう。

さらに、非常さはギャングや企業のトップでは賞賛されるかもしれないが、それは両者で大きく異なる態様を取るだろうし、大きく異なる形で報いられたり罰せられたりするはずである。

「正常(normal)」について定義したり、「正常」とは何かという答えたりすることは、社会学者や人類学者、経済学者や、法学者、さらに文学者にとっても誰にとっても、とっても困難なことだろう。

かつて、メジャーリーグが、薬物検査を導入してステロイドの使用を禁止した途端、ADHDになる選手が激増したことがある。

ADHDを治療するための何かしらの正当な理由があった訳ではなく、彼らは、薬物検査に対応できる薬物の処方を可能にする病名を手に入れて、打率を上げたかったからであろうことは明白であるが、哀しい事実である。

すでに子どもたちのあいだで広がっているADHDの偽陽性という作り出された病に懲りず、DSM-5は大人のADHDの新たな流行を作り出すためのお膳立てを整えてしまったようである。

DSM-5作成者たちのうちのひとりであるアメリカの精神科医も、

「精神疾患においては、症例が見落とされることよりも、過剰な診断が生むずっと大きなリスクがあるし、それを考慮すべき」なのだと考えていたようであるが、最終的にはあまり考慮されたとはいえない建て付けになってしまったようであり、作成者ご本人も診断名の乱用には嘆いていらっしゃるようである。

注意に関する問題や落ち着きのなさは、特異な症状ではなく、どんな大人にもきわめてよく見られる。

DSM-5の提案のように、大人へのADHDへの安易な道を作ることは、ただ自分の集中力や仕事の遂行力に、不満や不安を抱いているだけの多数の正常な人々に、間違ったレッテルを貼ってしまうことにつながるだろう。

私が繰り返しになってしまおうとも言いたいことは、社会の期待になかなか応えられないと悩み苦しむ人に、またその人が抱える問題のすべてに精神疾患のレッテルを貼るべきではない、ということである。

確かに、人間は名付ける動物であり、私たちは目に映るものすべてにレッテルを貼らずにはいられないのかもしれない。

名付けるという単純な行為によって、アダムが動植物に対する支配を確立した創世記の頃から今日まで、それは私たちに与えられた特別な恵みであり、時には呪いすらもなったようである。

味方と敵を、食料と毒を、私たちが食べる相手と気を抜くと私たちが食べられてしまう相手を区別するために、パターンの識別はどうしても必要であり、診断の過剰は、私たちのDNAに刻み込まれているようである。

日本では、「インターネット依存(症)」という造語が在るが、「インターネット嗜癖」がより的確な言い方かもしれない。

依存症候群(dependence syndrome)は、アルコールや薬物など物質使用による障害を指し、嗜癖(addition)は、ギャンブルやゲームなど行動による障害を含んでいる。

しかし、「インターネット嗜癖」は、DSM-5の中で正式な精神科の診断と認められていない。

意外かもしれないが、これは、さまざまな議論どころかさまざまな圧力がありながらも、DSM-5の作成者たちの自制心により、為し得たことであると思う。

ちなみに日本は、「辞書」であるはずのDSMをいつまでも「バイブル」のように崇め奉っているようであるが、字面を追うことに終始し、さらに内容を吟味していないため、そのことをDSM-5そして5以前の作成者たちにも呆れられているのが実態であり、DSM-5作成者たちはDSMを完璧だとは思っていないし、改良の余地を認めている。

しかし、DSM-5の完全な支持がなくても、「インターネット嗜癖」に対して、おびただし書籍、雑誌や新聞の記事、テレビによる広範な告知、怪しげな治療プログラムの登場、何百万人もの(たぶんもっと増えるだろう)患者候補、新たに登場した「オピニオンリーダー」役の研究者や臨床医による盛んな喧伝などの外圧は依然として存在し、むしろ、手を変え品を変えもっと勢いと影響力を増しているようである。

しかし、そもそも「インターネット嗜癖」は何なのか定義すら出来ないのではないだろうか。

確かに、私たちの多くは、道路の脇でも真夜中でもスマホをチェックし、電子の世界の友人たちから引き離されている時間を寂しく感じたり、時間が空けばネットの世界に居たりするが、これは本当に嗜癖と言えるのだろうか、必ずしも言い切れないであろう。

嗜癖と言えるのは、
「執着が強迫的で、現実生活への参加や現実生活の成功や実益の妨げになっていて、著しい苦痛や機能障害を引き起こしている場合」であり、ほとんどの人にとって、インターネットとの結びつきは、たとえそれにどれほど夢中でかじりついていようとも、苦痛や機能障害をはるかに上回る快楽や効率をもたらしてくれ、それは隷属と言うよりは、熱中や道具の活用というものに近く、精神疾患と見做すのは最善ではないだろう。

あらゆる人々の日常生活や仕事の不可欠な部分になっている行為を精神疾患として名前を決めて、引くこともままならない線を引こうとすることは、ナンセンスだ、と、私は思う。
確かに、喜びもなく、強迫的に、無意味に、自己破壊的にインターネットを使う、というごく一部のユーザーに対する議論もあるかもしれないが、それをより多数に対する議論に拡張しないことの方が大切ではないであろうか。

電子機器に縛りつけられてもうまくやっている多くの人に誤ったレッテルを貼らないですむような形で問題があれば、そのつど考えてゆくしかない。

なぜなら、「インターネット嗜癖」という名称がひとり歩きをし、「インターネット嗜癖」がすべての隠れた根本問題を説明するものになってしまうと、他の特に精神的な問題を抱えていても見落とされかねないからである。

今現在、「インターネット嗜癖」と呼ばれるものの研究はまだまだ貧弱で、多くを教えてなどくれないかもしれないが、「インターネット嗜癖」はメディアのお気に入りではなくて、厳粛な研究対象になるべきなのかもしれない。

何が正常で、何が異常を引き起こすかと言う問いは人類の夜明けから私たちについてまわっているようである。

捉え難い「正常」と精神疾患に明白で判然とした定義はできないかもしれない。

しかし、そうだからこそ精神医学が境界線を越え増大するに従い、「正常」の領域が急速に縮小していくことを認識することがまず私たちにできることなのではないだろうか。

ここまで、読んでくださり、ありがとうございます。
【番外編の日記】の記述を外しました😊じっくり確りこのテーマにも向き合っていきたいと思います😊

今日も、頑張り過ぎず、頑張りたいですね。

では、また、次回。

※見出し画像は、リムスキー=コルサコフの『金鶏』のCDジャケットからです😌
コルサコフの『金鶏』は帝政ロシア、ソ連時代にも長く上演禁止が続き、再演が果たされたのは1989年、ソ連末期でしたが、この芸術による政治風刺が怖れられた理由が特に今日はなんとなくよく了解できる気もしたので見出し画像にしました😌

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