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「国学」ならぬ「国楽」の創始を目指した生き様-瀧廉太朗の『憾』と『荒磯の波』をきいて-音楽から眺めてみる世界から⑩-

瀧廉太郎は、楽譜の上に、

「Bedauernswerth」と記し、

その下に、日本語で、

『憾』(うらみ)

と記した。

彼は、さらに、事細かに演奏指示も記した。

例えば、冒頭にあるのは、「AllegroMarcato」、つまり、「ひとつひとつの音を叩きつけるように演奏せよ」という楽想指示である。

それほど、彼の「憾み」あるいは無念は深いということであり、この無念が日本人のみならず、西洋人に理解される確信をしていたことの表れであるようにも思う。

『荒城の月』、『花』、『箱根八里』など、現在でも愛唱されている歌の数々を、瀧廉太郎が作曲したのは、その短い人生のうちの第1期、高等師範学校付属音楽学校予科から、ライプツィヒ留学までの間である。

第2期は、1901年から、約1年のライプツィヒ音楽院留学時代だが、すでに西欧歌曲を学んだ上で、西欧的語法を用いながらも、日本的心性を縦横に表現していた瀧廉太郎にとって、

この留学は、西欧文明に学ぼうというよりも、西欧の文明を極め尽くした上で、その文明を日本的心性で飲み込んでやろうというほどの気宇壮大な野心に満ちたものであった。

実際、留学中に、当時最高のピアニストのひとりであるパデレフスキーの演奏に対し、楽理的理解が浅いとその限界を指摘しているほどである。

......。

しかし、その志の大きさに比して、廉太郎の肉体はあまりにも虚弱であった。

廉太郎が目論んでいたのは、「日本人」として、西洋音楽の語法を完全に吸収した作品を作った上で、世界に通用する日本発の音楽、すなわち「国学」ならぬ「国楽」を創始することであったのかもしれない。

実際、『荒城の月』は、ベルギーでは、賛美歌として、そのメロディーが採用されているという。

そのように、自負と自尊を抱いていた廉太郎だが、ライプツィヒでの寒い夜のある日、大量の吐血をしてしまう。

廉太郎は、当時、死病とされていた結核を発症したのである。

ライプツィヒ留学は、1年足らずで終わってしまった。

病状が悪化し、ほとんど強制送還のような形で日本に送り返された。

精神は強くとも、肉体の弱さがそれを裏切ったのである。

帰国した廉太郎は、故郷である大分に戻り、実家で療養する。

この時期の廉太郎の想いを知ることが出来る資料は、楽譜以外に、ほとんど存在しない。

紀元前5世紀から3世紀にかけて、

「白鳥は、死ぬときに美しい声で鳴く」という伝承が生まれたとされている。

その伝承から、人が亡くなる直前に、人生における最高の作品を残すことの喩えとして、「白鳥の歌」ということばが用いられるようになった。

病床で、文字通り血を吐きながら書き上げたわずか64小節の作品こそ、天才瀧廉太郎の「白鳥の歌」であり、『憾』である。

音楽は、3部構成で、冒頭にまさに

「なぜ、私は今死ななければならないのか」

という悲痛な叫びが歌われる。

中間部では、

「生きてさえいれば、あんな楽しいことも、こんな楽しいこともあったであろうに」
という、死にゆく人間が夢想する、決して叶わぬ歓びが歌われるが、それも、また、冒頭の悲しみと諦めにも似た旋律、すなわち「憾み」の旋律に戻り、曲は絶叫するように、最後の打鍵で終わる。

ここで使われている音楽話法は、まったく日本的ではなく、むしろ、シューベルトの作品だと言っても通じそうなほどである。

さて、廉太郎は、何に、「憾み」を残したのだろうか。

無論、夭折せねばならない自らの運命を恨んだであろう。

しかし、それ以上に、「なすべき」とみずからに課したことを果たさずして、死なざるを得ない、ことを「憾み」、また無念に思ったのでは、ないだろうか。

それこそが『憾』という音楽の礎であるように、私は、思う。

廉太郎は、西洋音楽を体得した上で、日本的心性を表現しようとしていた。

だからこそ、その前に、西洋人も納得せざるを得ないほど、西洋の音楽語法を習得した作品を作ろうとしていたが、彼の健康がそれを邪魔した。

そのようななかで、廉太郎は、冒頭のように『憾』の楽譜の上に、自らを記していったのではないだろうか。

『憾』を作曲する直前、廉太郎は、最後の歌曲となる『荒磯の波』を作曲している。

水戸光圀の和歌の一部を変えて、

「荒磯の岩に砕けし散る月をひとつになしてかへる波かな」

とした歌詞である。

この光圀の和歌の根底には、

「大海の磯もとどろに寄する波破(わ)れて砕けて裂けて散るかも」と詠んだ、夭折した、鎌倉3代将軍源実朝の魂が揺曳している。

実朝の歌は、破滅願望的であるが、光圀は、死のその先に何か無常感めいたものを見ている。

しかし、この『荒磯の波』の直後に、やはり廉太郎は『憾』を、病を圧して作曲せずにはいられなかったのである。

最期まで、「憾み」を忘れて、無情などにとどまることの出来なかった天才の魂が『憾』の根底に、いつまでもゆらゆらと、揺曳しているように感じる。

『憾』を作曲をして数ヶ月ののちに、瀧廉太郎は23歳で亡くなった。

ここまで、読んで下さり、ありがとうございます。

私は、20代に病に苦しんだ際

「何で今なんだ!」と怒り、嘆き、悲しみましたが、瀧廉太郎はその比どころではなく無念だっただろうなあ、と、思います😌

音楽から眺めてみる世界からシリーズでした😊


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