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私たちが直面しているあいまいな境界線から④ーDSM-5が提起した問題たち②ー精神疾患の有無という極めてプロテウス的な概念ー
『若きウェルテルの悩み』は1774年に発表された失恋とロマンチックな自殺を書いたゲーテの半自伝的小説であるが、この小説ほど、ある意味文学の影響力とそれに付随する流行の危険性を、データに残るかたちでまで証明している作品はあまり無いであろう。
『若きウェルテルの悩み』は、ゲーテをセレブにし、ファッションガイドになった、だけだったら良かったのだが、いわゆるウェルテル熱(→日本でいうところのウェルテル効果もこれのひとつに含まれる)は、ヨーロッパに伝染し、特に若者の服装や話し方や態度に影響を与え、模倣自殺という死の連鎖を引き起こした。
著者のゲーテは、失恋を克服し、1832年まで長生きしており、その過程で自身が生み出したこの小説を否定し、『若きウェルテルの悩み』が悪影響をもたらしたことを悔い続けたが、社会はしばらくの間『若きウェルテルの悩み』を「精神的インフルエンザの病原体」だと批判し続けた。
批判よりも、ウェルテルより年長で賢明な主人公のファウストは、海を埋め立てるというもっと安全な楽しみのために、気まぐれな色恋の誘惑を断ち切っている、ことにも着目したいものである。
タルムード (Talmud)に
「私たちは物事をありのままに見ない。
自分のみたいように見る」
ということばが在るが、「私たちは物事をありのままに見ない。
自分のみたいように見る」ことは人間の属性であるようだ。
ゲーテを悩ませ、小説を否定させるまでに追い詰めた人間の属性とゲーテが悩み続けた、模倣自殺という現象について少し考察してみたい。
模倣自殺には、群発自殺と集団自殺がある。
群発自殺は、有名人や親戚や友人など自身に近い者の自殺を人びとが模倣するときに発生するとされる。
自殺の伝染と言う懸念は現実に在り、米国疾病対策センター(CDC)もメディアによる報道のガイドラインを示している。
集団自殺は、それが起きる社会にもっともな(もっともらしい)動機があるとされる。
敗れ去る軍隊で、捕虜になったり、敵に殺されることを潔いとしない集団で自殺したエピソードは歴史を見れば在り、それよりは少ないものの集団が自分たちの主張を訴えようと抗議の意味で集団自殺にいたるものもあるようだ。
集団自殺は、群居本能が自己保存本能を打ち負かす、歴史のなかの哀しい事例たちだろう。
「私たちは物事をありのままに見ない。
自分のみたいように見る」だけではなく、群れに加わろうとする衝動が、ときには生存しようとする本能に勝ってしまうことがあるという事実ほど、流行の負の力をよく物語るものは無いであろう。
『若きウェルテルの悩み』から自体は、勿論のこと、自身が創り出した『若きウェルテルの悩み』という小説を否定し、悪影響を悔やみながら長生きしたゲーテの苦悩から、私たちも学べるかもしれない。
しかし、同じ芝居でも演出を改めれば、ひとことも変えずにかなり異なった意味を持たせることができることからもわかるように、いつの時代もやはり書かれたことばそのものが決定権を持つのではなく、すべては以後の解釈次第であるようである。
DSMだけでは基準が確立されず、D医師、製薬会社、学校、法廷、インターネットユーザーなどDSMに関わるすべての人間によってDSMに書かれたことばの実際の使用のされ方が決まるのだろう。
私たちはそれを「ありのままに見」ず、自分のみたいように見る」てしまい、その結果、過剰に診断されて過剰に治癒されている可能性が高い精神疾患が、「偽の流行」ともいうべきものを形作っているようである。
過剰に診断されて過剰に治癒されている可能性が高い精神疾患が「偽の流行」ともいうべきものを形作っている例として、DSM-5の作成者たちの良識によってきわどいところで、棚上げにされた混合性不安抑うつ障害(以下MAD)という診断がある。
MADは、生きていれば避けて通れないありふれた、そこにある、いっときの悲しみや心配をも医療の対象にしようとする試みであると言えるかもしれない。
なぜなら、その基準はあまりに定めやすく、突き詰めれば、誰もが該当することになりかねないものだからである。
例えば、失業、離婚、病気、金銭トラブルなどの不幸な出来事へのごく当然の反応が、精神疾患に変えられてしまうのである。
驚くにはあたらないが、このMADは不安定な診断であり、予測する力はないに等しい。
1年後に調査すれば、このレッテルを貼られた人たちの大部分は回復して全く診断を必要としていないか、もっと信頼性の高い別の診断を受けているかのどちらかであろう。
無意味な診断に飛びつくより、注意深く見守る方が賢明で安全な方策であることをよく示しているケースではないだろうか。
ただひとつ、MADから確実に予測できることは、MADのようにあまりにも基準が定めやすく、突き詰めれば誰もが該当するような新しい診断は、マーケティングの巨大かつ強大な可能性を持ってあるということだろう。
私たちの人生に付き物の問題を精神疾患にすれば、製薬企業にとって絶好の金脈になるだろう。
言ってしまえば、人生に付き物の問題を精神疾患とすることは、製薬企業にとっては巨大な市場と偽薬反応という申し分ない組み合わせが得られる、というわけである。
もし、MADがDSM-5に採用されていたら、MADは、瞬く間にアメリカではよく見られる精神疾患になり、すでに11%もの人々が服用している抗うつ薬は新たに大きな後押しを得ていたであろう。実に恐ろしい話である。
医学の父とも呼ばれるヒポクラテスの
「何より害をなすなかれ」
ということばが、精神医学が適切に用いられず、応分の範囲を超えたところにまで用いられている今、もう一度、顧みられる時期に私たちは来ているのかもしれない。
さて、精神医学のきわめて大きな弱点のひとつに、
「生物学的検査の欠如」
がある。
インフルエンザやさまざまな内科疾患などと違い、精神疾患かそうでないかを線引きするバイオマーカー(生物学的標識)は今の時点ではない。
これは、精神疾患に関するどんな診断も、どうしても誤りがちで二転三転しやすい主観的な判断に基づくことになることにつながっている。
例えるなら、精神疾患の診断は、いろいろな種類の肺炎を引き起こすウイルスや細菌についての検査をせずに、肺炎を診断することに近いだろう。
つまり、本来、精神疾患の診断は医師のかなり高度な知識とかなり熟練した経験を要するものなのである。
ロジャー・スペリーもノーベル賞授賞式のスピーチで
「学べば学ぶほど、ひとりひとりの知性はどれも独自の複雑さを備えているという認識が強まるし、脳内ネットワークに固有の個性に比べれば、指紋や顔立ちの個性などは大雑把で単純なものだという結論がたしかなものになる」
と表現している。
精神疾患の根底に在る渾然とした仕組みを探り出すのは、生涯を費やす仕事なのであろう。
ひとりの人が統合失調症に到る道は、ひとつではなく、何十も、もしかしたら何百、何千もあるのかもしれないのだから。
さて、私は、生物学の全歴史で最もめざましい発展をふたつ挙げるとき、遺伝子暗号を解読できたことと、間の脳の活動を明らかにできたことを選びたい。
しかし、「人類はすごい」と手放しで喜べないだろう。
私たちは脳の機能の多くを学んだが、基礎科学を臨床精神医学へと応用する方法を未だに見つけていないのだから。
さらに、分子生物学や遺伝学や画像化技術は、認知症やうつ病や統合失調症や双極性障害や強迫性障害をはじめとする精神疾患の検査室実験には、未だに繋がっていないようなのだから。
ただ、どんな精神疾患でも、たったひとつの遺伝子なり、神経伝達物質なり、そして神経回路なりで説明できるという期待がただ単なる時期尚早な思い込みだ、と私たちはしたたかに分かっただけであろう。
繰り返しになるが、精神医学では、検査室実験がまだ1度も行われてはいないといっても言い過ぎではないのが現状であろう。
なぜなら、ひとつの精神疾患のカテゴリー内でも常に結果に差があり、この差はその疾患とそうでない状態との差や、他の疾患との差よりも大きいため、どんな有望な生物学上の発見も診断検査の段階にまで至っていないのであろう。
確かに見込みのありそうなバイオマーカーについでは、何千もの研究がなされてきたが、今のところ成果は出ていないようである。
知識は極めて多いが、実益が極めて少ないというのは、なんと大きな断絶であろうか。
ところで、カフェインへの依存がニコチンへの依存と同列のカテゴリーに含めるべきか、を、巡って、DSM-5の作成者たちにより熱い真剣な議論が交わされたことがあったようである。
さんざん、カフェインにはニコチン並みの依存性があり、中毒を引き起こして、不安障害や心臓の不具合をもたらす恐れがある、などと真剣に議論した結果、DSM-5作成者たちは、DSM-5にカフェインの依存を載せなかった。
理由は、そのただひとつの理由は、
「カフェインへの依存はきわめてありふれているし、(アメリカ国内だけで)6000万人以上の人々に対して、毎朝起きるたびに『この朝の楽しみの1杯が精神疾患なのだ』と自覚させる意味は無いと思えたから」
だ、そうである。
......。.
......カフェインへの依存をDSM-5から外すという、ひとの行動や思いに心を配る姿勢が常にあればDSMから外すことが出来たかもしれない精神疾患はどれほどあったのだろうか......考えるにつけ、私は、悲しいというより、暗澹たる気分になる。
さらにカフェインへの依存のように謙虚で慎重な姿勢が在れば、そもそも「行為嗜癖」のカテゴリー自体が不採用になったであろう。
少し前に、インターネット嗜癖について描いたが、インターネット嗜癖に代表されるような「行為嗜癖」は有用な概念かもしれないが、実際は下手な案に他ならないのではないだろうか。
なぜなら、適切に限定された範囲をはるかに超えたところにまで、ただちに拡大されてしまうからである。
実際、DSM-5が「行為嗜癖」の概念を導入して以来、嗜癖のまやかしの流行がきわめて深刻な問題になっているのである。
つまり、本来的な意味から精神疾患と正式に認められるのは、病的賭博だけであるにもかかわらず、
インターネット、買い物、仕事、ゴルフ、ジョギング、美白、日焼け、チョコレート、果てはスポーツ観戦まで、メディアの注目を集めるものなら何でも対象となっているのである。
そのリストは長大で、人気の活動なら、どんな分野のものであれたやすく追加されてしまい、そして、ライフスタイルの選択を精神疾患に変えてしまうのだろう。
この過激な考え方は、強迫性な行動と強迫的な薬物乱用はどちらも脳の快楽中枢が原因となっていることを根拠にしているようである。
研究構想としては興味深いかもしれないが、精神疾患の診断の大幅な拡大を正当化するにはあまりに先走り過ぎた考え方である、と私には思われる。
驚くべきことに、19世紀半ばに行われた精神病患者に対する最初の調査には、6つの疾患しか載っていなかった。
しかし、現在では、約200の疾患が在る。
確かに社会が複雑化した点もあるであろう。
しかし、私はこの増え方に社会が社会自身の新たな懸案を明示し、自身の都合良く役に立つ真新しい精神疾患を受け入れ、認めることに対して抱いている無尽とも思える渇望を見るように思うのである。
プロテウスは変身能力を備えたギリシャ神話の海神であり、運命に精通し、過去、現在、未来の秘密を知っていたようである。
だが、プロテウスはずる賢く、自らの知識をなかなか分け与えなかった上に、寝込みを襲っては、次々に恐ろしい姿に変身するその体を押さえ付けなければならなかった。
咆哮するライオンや流れる水や突進する雄牛など、とにかくありとあらゆるものに変身するものをしっかりとつかまえておくことは困難である。
プロテウスは、明確な定義が出来ない、定まらないもの、捉えどころのないもの、あいまいなもの、変わりやすいものの象徴になっている。
「精神疾患」と「精神疾患でない状態」はどちらも極めてプロテウス的な概念だ。
なぜなら、それらは、漠然、渾然としていて、姿を変えやすく、両者のあいだに確固たる境界線を設けることは決して出来ないからだ。
精神疾患の定義は概して、distress(苦痛)、disability(能力障害)、disfunction(機能障害)、discontrol(抑制障害)、disadvantage(社会的不利)などがあることを条件にしているが、それらがどういった状態であるときを指すのかも不明瞭なままである。
この定義は実際の指針として有効ではなく、(dis~で揃えた)頭韻法としては上手なだけであろう。
精神疾患の有用な定義がないことは、精神医学における分類の中心に大きな穴を穿ち、答えの出ないふたつの難問をもたらしているようである。
ひとつは、診断のマニュアルにおさめる疾患をどうやって決めるのか、であり、
もうひとつは、ある人物が精神疾患かどうやって決めるのか、であろう。
かつて過食は罪だと見做されていたが、現代で精神障害とすべきなのか。
お年寄りの物忘れは病気なのか、それともただの老化なのか、などこのシリーズで取り上げたものだけでなく、精神疾患の有用な定義がないことを表す具体例には枚挙にいとまがない。
DSM-5に記載されている精神疾患は、合理的な取捨選択というよりは、実際の必然性、歴史上における偶然、積み重ね、慣例、惰性からシステムに入り込み、記載され続けていることが多く、基準となる独立した抽象的、普遍的な定義を満たしたから記載されているというわけではないだろう。
だからこそ、DSMの中に在る精神疾患たちが、ごちゃ混ぜ状態で、一貫性や独立性に欠けていても何ら不思議ではないのである。
精神疾患には、短期間しか現れないものもあれば、生涯にわたるパーソナリティに現れるものもあるだろう。
心の苦しみを引き起こすものもあれば、適切でない行動を引き起こすものもある。
日常生活が困難になるほど悪化するものもあれば、日常生活がわずかに悪化するにすぎないものもある。
個人に特有のものもあれば、文化に左右されるものもある。
幼少期にはじまるものもあれば、かなり高齢になってから現れるものもある。
生物学的なものもあれば、心理学的、社会的なものもある。
何千もの研究で支えられているものもあれば、一握りの研究でしか支えられていないものもある。
明らかにDSMに含まれていてもかまわないものもあれば、省かれてもおかしくはないどころか、除かれるべきものもある。
明確に定義されているものもあれば、そうでないものもある。
さらに、これらの考えられる相違のすべてについて、複雑な組み合わせが存在するのである。
ところで、実は内科の病気なのに精神科の病気だと誤ったレッテルを貼られていた患者や、実は精神科の病気なのに内科の病気だと誤ったレッテルを貼られていた患者が一定数いることは、よくあるようだ。
また、どちらの方向にも間違いが起こりやすいということも、同様であろう。
誤りの形は以下の4つに分けられるだろう。
①一部の内科の病気は重い身体症状を呈するにもかかわらず、明確な病変がない、炎症性腸疾患、慢性疲労、結合性組織炎、慢性疼痛、ライム病、間質性膀胱炎などで、たいてい患者たちの「気のせい」にされ、衰弱の危険がある内科の慢性病で健康を害しているのにもかかわらず、「思い込みが激しい」という精神科の目で見られて(診られて)しまうケース。
②内科の病気で、症状が原因不明で、何年も経ってから根本病因が明らかになる、多発性硬化症、全身性エリテマトーデス、リウマチ性関節炎、末梢神経障害、結合組織病、脳腫瘍などで、不確かな状態は受け容れがたいものなので、医師も患者も途中の過程で精神的なものだ、という誤った危険な結論に飛びつくケース。
③がんや心臓病や糖尿病など深刻な病気に対して、当然、人は極めて強い心理的反応を示すが、病気におびえたり動転しているからといって安易に精神疾患も患っているのだと医師が軽々に誤った精神疾患のレッテルを貼ってしまうケース。
④ ③と反対のケース。つまり、精神障害の多くにみらられる、内科の病気と間違いやすい顕著な身体症状を伴う、パニック障害やうつ病が内科の病気と診断されてしまうケースである。
DSM-5は「身体症状障害」という新しい診断を導入することにより、ゆるやかで該当しやすい定義を行うことで、ただでさえあいまいな内科と精神科の病気の境界線をさらに曖昧なものにしている。
私は、これが、精神疾患の過剰な診断の水門を開き、内科疾患の見落としを生みかねないことを、危惧している。
現代にも、こんなところにも、まだ、プロテウスはいるのだな、と私たちと現代のプロテウスとの、今までとこれからの、長い長い闘いを思った。
ここまで、読んでくださり、ありがとうございます。
今日も、頑張り過ぎず、頑張りたいですね。
では、また、次回。
※見出し画像は、超官僚制国家においては書類がすべてであり、人間の生死も1枚の紙切れに過ぎないというソビエト社会を風刺したトゥイニャーノフの小説『キージェ中尉』が映画化されたときの映画ポスターからです😌
また、交響組曲『キージェ中尉』を作曲したプロコフィエフが、亡命先からソ連帰国後、キージェ中尉のように順風満帆ではなかったこともなんだか思い出しました😌