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文学のなかの芸術、芸術のなかの文学⑮ー井伏鱒二ー『山椒魚』ー

小林秀雄は、『ゴッホの手紙』のなかで、

「絵画鑑賞家は、ゴッホによって描かれた寝台や椅子を、彼が遺した静物画中の逸品と考えるであろう。
其処に前人未到の様式が探られ完成されているのを見るだろう。
併し、書簡集を読む人は、休息と眠りこそ、ゴッホが求めて遂に得られなかったものである事を想わずに、これらの絵を見る事は出来ないのである。
そういう人にとってしか表現できぬ休息と眠りとは何か。
それが、これらの静物画の新様式の真の意味ではないのか。
そして、又、こういう考えがゴッホ自身の念頭に全くなかったと言えるであろうか」
と私たちに問いかける。

ゴッホが求めて遂に得られなかった休息と眠り、いわゆる「絶対の休息」の欠如も一因となり、発作を起こしたゴッホは、入院ののちサン=レミで療養生活を送るなかでも、アルル時代の傑作と自認する自分の寝室の絵『フィンセントの寝室』のコピーを2点制作している。

1888年の冬、パリを出たゴッホは、ユートピアを実現するため南仏の町アルルへ移り住み、そこで画家の共同体をつくろうと、新生活に期待を抱いたようである。

共同体の指導者にはゴーギャンこそふさわしいと考えていたゴッホは、まずゴーギャンを誘った。そして、絵にも描かれた「黄色い家」でゴーギャンを待つゴッホは、テオに宛てた手紙のなかで、
「太陽、光、ほかに適当な言葉がないので、僕はただ黄色、青白い硫黄のような黄色、青みがかったレモン色、金色という。黄色、なんて美しい色だろう!」と述べている。

南仏の陽光がもたらす「黄色」は、理想を求めて期待を抱くゴッホにとって特別な色であったのか、代表作、黄色い花《ひまわり》もこのころに描かれた。

アルルへゴーギャンが引っ越し、いよいよ共同生活が始まった。2人は制作をともにし、議論を重ね、刺激的な日々を送ったのだが、芸術に対する考え方や性格の違いなどで口論は絶えず、やがて家を出て行こうとしたゴーギャンに逆上したゴッホが自ら左耳の一部を切り落としたという、いわゆる「耳切り事件」を機に2人の共同生活は解消していったようである。

このようにして、ゴッホが求めた理想の生活はわずか2カ月で終わるのだが、『フィンセントの部屋』にはふたつの椅子が描かれていることを見ながら、私は、井伏鱒二の『山椒魚』を想起した。

楽しいと思っていた部屋は、なにか逃れられないものに気づくと、「暗黒の」、閉じ込められた「岩屋」のようなものになってしまうのだろうか、そして、求めて遂に得られぬものを同じくしたふたり
ゴッホとゴーギャンのふたりは、それぞれ命があるうちに、
「今でもべつにお前のことをおこってはいないんだ」
と言えるときがきたのであろうか。

ロシアの日本文学者、グリゴリ・チハルチシビリは、井伏の『山椒魚』の源泉となっている可能性のある作品としてチェーホフ『敵』という短編を挙げているが、『敵』はそれぞれ地主と医師である二人の男が互いに憎みあい、相手を非難し続けあう話で、『山椒魚』のような和解に至る場面はない。

谷川の岩屋から外の光景を眺めることを好み、岩屋を棲家にしていた山椒魚は、あるとき自分が岩屋の外に出られなくなっており、岩屋が「永遠の棲家」へと変わったことに気がつく。

2年間、岩屋で過ごしているうちに体が大きくなり、頭が出入り口に「コロップの栓」のようにつかえるようになってしまったのだが、ろくに動き回ることもできない狭い岩屋のなかで山椒魚は悲嘆にくれ、幽閉生活と化した生活によって「よくない性質を帯びて来た」山椒魚は岩屋に飛び込んできた蛙を閉じ込める。

蛙は安全な窪みのなかに逃げ込んで虚勢を張り、ふたりは激しい口論を始める。

ふたりのどちらも外に出られず、互いに反目しあった緊張状態のままま1年が過ぎ、2年が過ぎ、蛙は岩屋内の杉苔の花粉が去年と同じようにを散る光景を見て思わず深い嘆息を漏らし、それを聞きとめた山椒魚は、
「もう、そこから降りてきてよろしい」
呼びかけるのだが、蛙は空腹で動けず、もう死ぬばかりになっており、
「お前は今何を考えているようなのだろうか?」
という山椒魚の問いかけに対して蛙は、
「今でも別にお前のことを怒ってはいないんだ」と答える。

私には、この会話は、ある特殊な同じ闇のなかにおり、求めて遂に得られぬものを同じくしたふたりだからこそ、することのできた会話のように思われる。

『フィンセントの部屋』にあるふたつの椅子とはまた別に、ゴッホはふたつの椅子の絵を描いている。

質素な椅子は「ゴッホの椅子」、そして肘掛けの付いた方は「ゴーギャンの椅子」だったようである。

1888年秋、ゴーギャンはゴッホが待つ南仏・アルルへ移るが、制作への姿勢も対照的なふたりは対立し、ゴッホが夢見た共同生活は長続きしなかった。

しかし、アルルで描いたゴーギャンの『ブドウの収穫、人間の悲惨』を、ゴッホは弟・テオへ宛てた手紙のなかで、

「今、彼は完全に記憶からブドウ園の女性たちを描いている。彼が、この絵を台無しにしたり、途中で投げ出したりしないなら、とても素晴らしく、かつてない作品となるだろう」
と称賛している。

その手紙は、ふたりの生活が破綻した「事件」の1カ月前に書かれたようである。

ゴーギャンはゴッホとの生活を、のちに『前語録』のなかで、

「破局は急に訪れたし、制作に没頭していたにもかかわらず、あの時期は1世紀もの長さに感じられる。世間の気づかないうちに、二人の男はそこで、どちらにとっても有益な膨大な量の仕事をした」
と述べている。

そしてゴッホの死から11年後、タヒチで制作していたゴーギャンは『肘掛け椅子のひまわり』を描いた。
まるでゴッホが描いた『ゴーギャンの椅子』に呼応するように、そのひまわりは肘掛け椅子の上に置かれている。

小林秀雄は、『ゴッホの手紙』のなかで、
「タヒチやマルキイズの島々は、ゴーガンが自ら孤立した死所として設計した隔離室であった」
と書いているが、やはり、タヒチでゴーギャンは、ゴッホとのある特殊な同じ闇のなかにおり、求めて遂に得られぬものを同じくした時間を思い肘掛け椅子にひまわりを置いて描いたのだろう。

『山椒魚』のなかでは、月日が過ぎ、しきりに杉苔の花粉の散る光景を見て思わず嘆息を洩らした蛙に、
山椒魚は「友情を瞳に込めて」話しかけ、その対話は
「今でもべつにお前のことをおこつてはいないんだ」という、蛙の最後のゆるしのようなことばに続く。

ゴーギャンもゴッホも、

「今でもべつにお前のことをおこってはいないんだ」
と思いながら、永遠の休息と眠りについたのだと、私は考えたい。

ここまで、読んで下さり、ありがとうございます。

今日も、頑張りすぎず、頑張りたいですね。

では、また、次回。




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