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歪んだ診断の鏡がもたらすもの①-時流に乗ってしまった自閉症の診断」-過去の流行を知ることから④-

私は、自らの闘病経験や、知人の闘病生活についての情報から、特に精神科の医療において

「正確な診断と治療は、人生や人命を救い得、不正確な診断と治療は人生や人命を奪い得る」
と考えている。

もちろん、私にも、診断を受け、治療を開始する日が在った。

多くの人々にとって、最初に診断を受け、治療を開始する日は、先行きに大きな影響を及ぼす転換点になる。

診断が正しく行われ、有効な治療に繋がれば、最初に診断を受け、治療を開始する日は、素晴らしい1日となるが、診断が軽率、無神経に行われれば、それは無益どころが有害な長期治療の引き金となり得る。

病に苦しみ、さらにそれに付随する現実の問題に加えて、歪んだ診断の鏡に向き合わされることは、非常な苦痛である。

歪んだ診断の鏡は、自分の真の姿や、こうありたいと願う姿とは、著しく違う、誰かを映し出す。

私は、そのような歪んだ診断の鏡に向き合った闘病生活を経て、多剤処方の後遺症から立ち直ろうとしている人間としての視座から、過去に在った問題を考えてみようと思う。

山ほどの味気ない統計よりも、数個の痛ましい具体例は、有用であると思う。

精神医学が適切に用いられない場合、どれだけ多くの人々が、どれほどひどい害を被っているかを知り、また、良くない精神科の診断は、良くない精神科の治療をもたらし、そのふたつの組み合わせは、さらに良くない結果を招くことを学ぶことは、精神医学の分野に何より必要なことではないだろうか。

ただし、精神医学をむやみやたらに批判することは、あまりに無分別である、と思っている。

さて、自閉症の診断は、過去30年間で爆発的に増えた時期がある。

DSM-4以前、自閉症は、極めてまれな疾患で、診断される子どもは、2000人に1人だった。

しかし、今から十数年前には、アメリカでは80人に1人、お隣の国、韓国では、なんと38人に1人の割合にまでになっていたことがあるのである。

イギリスの週刊医学誌「ランセット」に、予防接種が自閉症の原因になり得るとする論文が掲載されたことが発端となり、憶測が憶測を呼び、さらに予防接種が自閉症の発症時期と重なるという偶然の一致が不安を強め(→のちにこの論文が捏造出あることが暴かれても)、親の恐怖は根強く残ることとなった。

わずか20年ほどで、20倍にも診断は増えてしまったのだが、それは、ただ、診断の習慣が根底から変わってしまったためであり、子どもたちに自閉症の症状が、いきなり出始めたためではないのである。

自閉症が「流行」 してしまったことには、3つの原因がある。

1つ目は、医師、教師、家族が注意深くなり、自閉症を見つけやすくなったこと。

2つ目は、DSM-4がアスペルガー障害をはじめて載せたこと。

3つ目には、不適当な診断を受けても、充実した精神保健医療が受けられるサービスが出来たこと、である。

の深刻な症状を抱えた人は、わずかであり、そのような症状は、特段の注意を払わなくとも、ごく容易くみつけられるものである。

これに対して、アスペルガー障害は、興味の対象が限られたり、目につきやすい行動をしたり、対人関係がうまくいかなかったりはするものの、従来型自閉症のように、意思疎通が出来ず、知能指数が低くなってしまうなどの問題は、まず見られない人を指して使われるのである。

ただ、アスペルガー障害ではないが、社交下手な人と、アスペルガー障害の人との間に明確な境界線は、ない。

また、DSM-4作成委員たちが、アスペルガー障害と見なされる人は重度の従来型自閉症の患者の3倍に達するだろうと試算していたのだが、アスペルガー障害ではないがアスペルガー障害と誤診されり、他の精神疾患をかかえた多くの人たちが、かかりつけ医、学校、親、さらには患者自身によって、自閉症と誤診されたために、有病率は、人為的に上昇させられることになってしまったのである。

確かに、自閉症が流行するきっかけを作ったのはDSM-4かもしれない。

しかし、特にアメリカにおいてだが、予想も出来なかったほどに流行を推し進めてしまった力のなかで、最も重要なのは、活発な患者支援運動と、自閉症の診断を条件にして教育や治療のプログラムを提供するシステムとの間に在る、正のフィードバックグループであろう。

「自閉症」の患者と家族が増えるにしたがって、さまざなま追加サービスを求める声が高まる。

時には、訴訟を起こして勝つことによってまで、追加サービスは求められてゆく。

そして、追加されたサービスは、診断の増加を求めるさらなる動機になる。

診断される人が増加するにしたがって、もっと多くのサービスを求める支援者も増えるのである。

確かに、自閉症への偏見が軽いものにはなった。

インターネットは、コミュニケーションや社会的支援や連帯の機会を快適かつ便利に提供した。

また、自閉症は、出版物やテレビで好意を持って詳細に取り上げられ、映画やドキュメンタリーでも描かれた。

さらに、多くの成功者が、自分はアスペルガー障害の定義にあてはまると認め、名誉の勲章のように扱う者も現れた。

その結果、アスペルガー障害そのものが、他にない魅力を持つまでになり、特にハイテク好きの人たちの間で人気になった。

確かに、こうした評判は、診断に伴う苦しみを減らすという、好ましい効果があったが、やはり、行きすぎも在った。

アスペルガー障害は、突然、医師の「本日のオススメの診断」となり、医師にも患者にも気軽に診断されやすくなってしまい、個人のあらゆる差異を説明するものになってしまった。

2010年度前後でいえば、診断されている子どものおよそ半数は、基準を慎重に適用すれば、実際にそれを満たさなく、再評価したら、もう、自閉症でなくなる子どもたちが、半数にのぼると試算されたのである。

自閉症の流行には、正負の面が在った。

正しくレッテルを貼られた患者は、診断により、よりよい教育や治療のサービスという利益を得られ、偏見が軽くなり、家族の理解が深まり、孤立感が和らぎ、インターネットで支援も受けられていった。

一方で、誤ってレッテルを貼られた患者は、偏見が本人の負担になり、自分や家族が期待をあまり抱けなくなっていった。

また、きわめて希少かつ貴重な資源を誤って配分するという、社会的損失についても忘れてはならない。

教育のことをあまり考えず、臨床のことだけを考えて生み出された精神科の診断に、学校の決定をあまり深く結びけるべきではないだろう。

誤ったレッテルを貼られた子どもたちの多くは、特別な注意を払うべき問題を他に抱えていることも多い。

自閉症の不正確な診断に伴う偏見を余計に着せる必要はまったくなく、学校のサービスは、学校のニーズに基づくべきであり、精神科の診断に、基づくべきではない。

DSM-4の作成委員の長であった医師が、アスペルガー障害の過剰な診断の激増を予見できなかっことに責任を感じていた。

その彼が、

「レッテルの意味するものと意味しないものとを、つまり、子どもたちが変わったのではなく、診断のされ方が変わっただけであることを、人々やメディアに教えるという事前措置を講じるべきだった」

と述べていたことを想い起こす。

さらに、彼は、続けた。

「流行は、終わらせるより、はじめる方が容易い」

と。

そのことばを、今、また、私は、かみしめよう、と思う。

今回は、どんな味がするだろうか。

ここまで、読んで下さり、ありがとうございます。

過去の診断の流行を知ることからシリーズでした😊

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