「白さ」と「甘さ」という感覚質(クオリア)-哲学に触れてみたいから②-
子どものころ、永井均先生の御本で、「甘いと白いと黒い」仲間分けについて拝読してから、面白いなあ、と思うようになった。
白いと黒いは「目」で区別されるが、白さと甘さはそれぞれが「目」と「舌」とで感知され、たがいに区別される。
しかし、のちに、複数の感覚で感知される「白さ」と「甘さ」の区別が、アリストテレスに「共通感覚」によって可能になっていると言われていることを知り、さらに、どうも、共通感覚≠自己意識であり、そのことをめぐって『デ・マニア』と言う作品のなかでは、アリストテレスが悪戦苦闘をしているなどと知ってしまうと、途端に、難しいなあ……となってしまったことを思い出してしまう。
白さや甘さは、よく「感覚質(クオリア)」と呼ばれているようであり、物理的現象に還元不可能な心的領域を形成するとされるようである。
これは、物理主義や機能主義的な見方で心を説明しようとするとき、もっとも頑固に抵抗するもののひとつだろう。
すべての感覚質は、はじめから単独で知覚対象の性質を表示(represent)するものではない。
例えば、私たちが、硫黄泉に入るとき、はじめは独特の匂いが気になるのだが、そこに長くいると、不思議とあまり匂いが気にならないようになってくる。
つまり、物理的には、硫化水素を感知していても、慣れてしまうと感覚質としては、普通の空気に近く感じられるのである。
このことから、クオリアとしての硫黄泉の匂いは他の匂いとともに可能的嗅覚の体系(シニフィアンの体系)をなしており、それぞれのクオリアの記号的弁別特性を使って、外界の特性の区別を表示(represent)していることがわかる。
クオリアの差異(シニフィアン)が、外界の差異(シニフィエ)の表現として使用され、またそのように学習されるのである。
硫黄泉に入るとき、外的刺激が全体として体系的にシフトしても、その記号的差異関係がそっくり維持されている限り、同じように外界を表現するように、容易く翻訳を変更することが出来るのであろう。
この点は、耐え難い環境下(V・E・フランクルが『夜と霧』のなかで描いたように)でずっと生活しているうちに、身近なものから慣れてくることにも言えるのかもしれない。
それは、元の環境下のクオリアかが、耐え難い環境下の下でのクオリアに再解釈、最翻訳された結果とみることはできないだろうか。
身体的運動的感覚質への適合ということは、すべてのクオリアにとって重要であるようだ。
それは、生きて活動する上で、その感覚が特に重要な連関を持つということであり、それ自身生物進化の結果なのだろう。
それを考えるとき、身体運動という場で、複数の感覚が交差し合うことは当然であり、そこに共通感覚が成立する。
アリストテレスは、共通感覚の果たす役割に注目していた。
同じ志向的対象、例えば丸い形、を表示する異なるクオリアとして、視覚と触覚が区別されることになるだろう。
視覚に属するクオリア、ここでは、丸の視覚は、他の視覚的クオリア、例えば四角の視覚などと、いわば共時的な差異関係で結ばれ、 「視空間」ともいえるものを形成し、触覚的クオリアも同様に「触覚空間」を形成し、各クオリアの系列が、それぞれのクオリア空間を形成する結果、「白さ」や「甘さ」という、それぞれ異なる系列の感覚質を区別することが可能になるのだろう。
硫黄泉に入るとき(や、収容所などの耐え難い環境下)など、同じクオリアが異なる外界の性質を表示するように、意味の翻訳対応関係が変化することは、いわばシニフィエの変更であろう。
しかし、シニフィアンとしての同一性が、それ自体他のクオリアの弁別的差異の束としてしかたあたえられないことは、RとLを区別する習慣のない私たち日本人が、同じクオリアとして感じられることが、表している。
だから、シニフィアンとしてのクオリアは、それが実際にどう使用されているかということを離れて確立されている純粋に心的な実体ではないだろう。
環境への適応を通じて、私たちが、偶々習得することを覚えたシニフィアンとして、クオリアは私たちの生活適応のかたちが複雑になるにつれて、洗練され、複雑化してゆくのだろう。
哲学は、難しいなあ、甘いと紅茶でも飲もうかな、白くて甘い上白糖をたっぷり入れて。
ここまで、読んで下さり、ありがとうございます。
哲学に触れてみたいからシリーズでした。