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三島由紀夫という作家について

三島由紀夫の小説の主人公たちは、自分の「意見」とか「思想」というものを持っていないようである。

一見して、「意見」や「思想」のように見えるものも、実は、相手との関係性の中に発生した役割としての「意見」であり「思想」でしかないようなのだ。

たとえば、三島由紀夫は、『仮面の告白』を

「永いあいだ、私は自分が生まれたときの光景を見たことがあると言い張っていたそれを言い出すたびに大人たちは笑い、しまいには自分がからかわれているのかと思って、この蒼ざめた子供らしくない子供の顔を、かるい憎しみの色さした目つきで眺めた。

それがたまたま馴染みの浅い客の前で言い出されたりすると、白痴と思われかねないことを心配した祖母は険のある声でさえぎって、むこうへ行って遊んでおいでと言った」

と書き出している。

この書き出しの一節には、三島由紀夫の特質がよく出ているように、私には、思われる。

『仮面の告白』の主人公自身も、その事実関係に拘泥しているわけではなく、むしろ、この主人公は、個のような突飛な意見が、まわりの他人に対してどういう反応を惹起するのか、という役割の問題に拘っているのではないだろうか。

三島由紀夫はさらに続けて、

「笑う大人はたいてい何か科学的な説明で説き伏せようとしだすのが常だった。

そのとき赤ん坊はまだ目が明いていないのだとか、たとえ万一明いていたにしても記憶に残るようなはっきりとした観念が得られた筈はないのだとか、子供の心に呑み込めるように砕いて説明してやろうと息込むときの多少芝居がかった熱心さで喋り出すのが定石だった。

ねえそうだろう、とまだ疑り深そうにしている私のちいさな肩をゆすぶっているうちに、彼らは私の企みに危うく掛かるところだったと気がつくらしかった」

と書いている。

この大人たちの過剰反応こそが、この主人公の告白=意見の目的であろう。

この主人公の突飛な意見の目的は、これら大人たちの過剰反応によって、十分に達成されたわけである。

自分が話題の中心人物になること、つまり関係のネットワークの中に存在の場所を獲得すること、それがこの告白=意見の第一の目的だといってよいかもしれない。

したがって、この主人公が正しいか正しくないかを議論することは無意味であり、敢えて言うならば、正しくないことは、この主人公にははじめからわかりきっているのであり、科学的な説明や子供にも呑み込めるような砕いた説明も不要なのであろう。

三島由紀夫は、「告白」を嫌い、自己を語ることを極度に嫌悪していたが、それにもかかわらず、三島由紀夫は、誰にもまして、自己を語ることの好きな作家であったようである。

この矛盾は、単に批判・否定すれば済むような問題ではないだろう。

三島由紀夫が、『告白』ではなく『仮面の告白』というタイトルをつけたのは、そのことによって、告白という形式に依拠する近代文学を批判・否定したかっのではないだろうか。

この告白批判は、小林秀雄の「批評」という名の文学批判とその問題意識を共有するものであろう。

小林秀雄は「告白」について『批評家失格』のなかで、

「どんな切実な告白でも、聴手は何か滑稽を感ずるものである。

滑稽を感じさせない告白とは人を食った告白に限る。

人を食った告白なんぞ実生活では、何の役にも立たぬとしても、芸術上では人を食った告白でなければ何の役にも立たない」

と書いている。

「どんな切実な告白でも......」という点で、小林秀雄は「告白」という形式それ自体が、必然的に滑稽たらざるを得ないと言っているのである。

小林秀雄以前の批評家たちは、告白が正確であるかどうかを問題にしただけであり、告白という形式それ自体を問題にしたわけではなく、正直にそして正確に告白しているかどうかという点に、文学的価値の基準を置いていたようである。

無論、田山花袋の『蒲団』に始まる「私小説」という近代文学の基本構造を否定したり、批判すればそれでいいということではなく、問題は小林秀雄にいたってはじめて「告白」という形式それ自体の行きづまりが自覚されたという点にあるだろう。

文学批判としての小林秀雄の「批評」の意味は、「告白」不可能性の自覚以外の何ものでもないのだろう。

三島由紀夫は、『仮面の告白』の月報ノートに

「肉にまで喰い入った仮面、肉づきの仮面だけが、告白をすることができる。

『告白の本質は不可能だ』ということだ」

と書いている。

三島由紀夫は「仮面」をかぶることによって素顔を隠したのだろうか?

三島由紀夫の「仮面」の下にははたして素顔が隠されていたのであろうか?

おそらく、そうではなく、はじめから「素顔」などというものはどこにも存在していないように、私には、思われる。

私たちが、「素顔」と思い込んでいるものは、近代的な認識論的布置が、作り上げた幻想にすぎず、三島由紀夫が「告白の本質は不可能だ」というのは、「素顔」などどこにもない、と言っているのではないだろうか。

例えば、福田恆存は「『仮面の告白』について」のなかで、

「『仮面の告白』において三島由紀夫は自己の芸術家のいるべき揺るぎなき岩盤を発見している。

あるいは、そこから出発してこの作品を書いている。

この作品に『仮面の告白』と題したゆえんは、つまり作者が仮面のうしろに自己の素顔を自覚していたことの何よりの証拠ではないか」

と書いているが、私は、そうは思わない。

福田恆存は、「仮面」と「素顔」の二項対立が、それ自体近代的な知の産物でしかないとは思っていないのであろう。

「仮面」のうしろに「素面」があるはずだというのは、幻想であり、一般に「素面」と思われているものも「仮面」でしかなく、このことを指して三島由紀夫は、

「告白の本質は不可能だ」

と言っているのではないか、と、私には、思われるのである。

『仮面の告白』は三島文学を理解する上で重要な作品であり、それと同時に日本の近代文学の認識風景のなかに置くから、反面教師的な意味で問題作たり得るのかもしれない。

いわば『仮面の告白』は近代文学批判の書ではないだろうか。

三島由紀夫は、内面の秘密などを語るために『仮面の告白』を書いたのではなくて、むしろこの作品で語られている内面の秘密こそが、『仮面の告白』という作品を成立させるために仮構された作り話なのではないだろうか。

たとえ、その作り話が、三島由紀夫の伝記的事実とどれだけ一致していようとも、作り話であることに変わりはないのではないだろう。

三島由紀夫は、『私の文学を語る』のなかで秋山駿のインタビューに答えて

「自分に対するこだわりだけを『誠』と思っているでしょう。

一度ぐらいこだわってみせないと、だれも信用しないですね。

僕の場合は『仮面の告白』でちょっとこだわってみせたら、たちまち信用を博したのです。

後はどんな絵空ごとを書いても大丈夫だ。

ところが、それを一生繰り返している人がいるからじつに神経がタフだと思って感心している」

と語っている。

三島由紀夫は、『仮面の告白』のなかで、「告白」という形式への批判と、作中人物と作者自身とを同一化する物たちへの批判を企図したのであろう。

三島由紀夫が、「自分」に関心を持ちすぎる文学に生理的嫌悪を感ずるのは、「告白」という行為につきまとう自己欺瞞が耐え難いからであろう。

さらにいえば、自分にこだわっているふりをすることへの嫌悪があるからであろう。

「告白」という行為において、私たちは、自分自身に直面することなどないのかもしれない。

三島由紀夫にはオリジナルな「思想」がない、と、思うときが、私には、ある。

危険な思想家が危険なのではなく、思想を持たない思想家が危険なのだとも、思うが、もし、三島由紀夫が、危険な思想家、危険な文学者であったとすれば、それは、三島由紀夫がファシズムやテロリズム、あるいは美や殉教の思想と関係していたからではなく、三島由紀夫がいかなる思想も相対化し、思想を単なる役割として捉える視点を獲得していたからではないか、と思う。

私たちは、三島由紀夫というとすぐに「美学」や「美意識」を持ち出すが、それは、三島由紀夫の思想ではありえても、三島由紀夫の存在本質を表すことばではないだろう。

「詩は認識である」という三島由紀夫のことばがあるが、三島由紀夫の問題は、「美」や「美意識」のレベルで語るべきではなく、「論理」や「認識」を通して語るべきではないだろうか。

論理的思考が衰弱したとき、私たちは「思想」を作り出すこともあるのではないか。

論理は単に実在を記述し、説明するための道具ではなく、実在との対応関係によってその真偽が確定されるものでもないだろう。

いわば、論理にとっては「意味」は問題ではなくて、論理と論理の形式的な普遍妥当性が問題になるのではないだろうか。

三島由紀夫の小説は、テーマが論理に在り、いわゆる生活の問題に無いため、無味乾燥な印象を与えることがあるかもしれないが、むしろ、私たちは、三島由紀夫の小説=作品から非実体的な論理操作のもたらす現実感の欠如を感じ取っているのかもしれない。

三島由紀夫の最初の長編小説である『盗賊』の登場人物たちはことばの「意味」を誰も信じておらず、言葉の「論理」だけで生きており、ことばの「意味」に拘る人はたちまちのうちに、その論理的な恋愛劇に敗れる他はないようである。

「意味」を信じないということは、内面を信じないということであり、また、自己意識を信じないということであろう。

三島由紀夫が主張するのは、あくまでも対抗としての思想であり、いわゆるテーゼではないように思う。

つまり、三島由紀夫の思想は、テーゼに対するアンチテーゼとしての思想であるため、あくまでもテーゼを前提とした上での思想であり、それ自体が独立した思想体系たり得ているわけではないようにも、思う。

三島由紀夫の思想とは、反対のための反対の思想なのだろうか。

そのようなことを、次回、考えたいゆきたいと思う。

ここまで、読んで下さり、ありがとうございました。

今日も、頑張り過ぎず、頑張りたいですね。

では、また、次回。(→gooblogの連載のままです😌)

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