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最後の三島由紀夫④ー『春の雪』のなかからみえるものー「生命の尊重」のみから「生命の尊厳」へー

小林秀雄は、三島由紀夫事件に際して、この事件には思想やイデオロギーで簡単に処理できない「日本的なもの」「孤独なもの」が感じられると言ったようである。

三島由紀夫は、「豊饒の海」の第1巻である『春の雪』のなかで、松枝清顕に、

「かつては人並みに西洋に憧れたこともあったが、心が日本のもっとも繊細もっとも美しい一点に執着している今では、世界地図を広げてみても、広漠とした海外の国々はおろか、赤く塗られた小さい海老のような日本でさえ俗悪な感じがした。
彼の知っている日本は、もっと青い、不定形な、霧のような悲しみの立ち込めている国だった」
と考えさせている。

『春の雪』が発表された1965年、戦後の苦難を生きてゆく上で、日本人の多くは、心のどこかで、日本が戦争に負けたのは、日本の文化や伝統が間違っていたからだ……と考えるようになったのかもしれない、そしてかすかな記憶しかなかった子どもたちも、「大てい大人からの受け売りで、自分のあるかなきかの記憶を彩っているにすぎな」いまま大人になっていたのかもしれない。

『春の雪』には、はじめに「日露戦役写真集」のなかの「得利寺附近の戦死者の弔祭」と題する写真の描写が配置されている。

多くの日本人にとって、日露戦争は、太平洋戦争とは異なり、日本の近代化のひとつの到達点、急速な西欧化・近代化の成果、西洋の代表的な軍事強国への勝利であるかもしれない。

しかし、三島由紀夫は、「日露戦役」写真集のなかで、清顕の心にもっともしみ入るのは「得利寺附近の戦死者」の写真であり、その写真は、
「すべては中央の、小さな白い祭壇と、花と、墓標に向かって、波のように押し寄せる心を捧げている」のである。

三島由紀夫は、戦後の日本人に何を言いたかったのだろうか。

三島由紀夫は、1968年『栄誉の絆でつなげ菊と刀』のなかで、

「西洋人からみてばからしいものは一切やめよう、西洋人からみて蒙昧なもの、グロテスクなもの、美しくないもの、不道徳なものは全部やめようじゃないか--というのが文明開化主義である。
西洋人からみて浪花節は下品であり、特攻隊はばからしいもの、切腹は野蛮である、神道は無知単純だ、と、そういうものを全部否定していったら、日本には何が残るか--何も残るものはない。
日本文化というものは西洋人の目から見て進んでいるとかおくれているとか判断できるものではないのである」
と書いている。

三島由紀夫は、論理的手続きを無視して、何かファナティックなことを、興奮して話していたわけではなく、ある意味では常識論を常識的に話したのかもしれないが、やはり敗戦という現実を体験し、自信を喪失した戦後の日本人の多くは、三島由紀夫が、三島由紀夫なりに深く日本史や日本文化を分析し、考察し、構築した論理に対して、「飛躍している」とか「破綻している」と言って嘲笑したようである。

戦後の苦難を生きてゆく上で、日本人の多くは、心のどこかで、古い日本を全否定し、勝った側の文化や伝統に転向することに、生きる活路や希望を見出した部分もあるだろう。

三島由紀夫は、それは自己欺瞞であり、虚偽であると言いたかったのではないだろうか。

三島由紀夫が、そのように考える背景には、より本質論的な理論的前提があり、当時の日本人について、
「ぼくは民衆もやっぱり絶対者をどこかで求めているだろうと思いますね。
民衆が相対的なものだけで満足するとは思えない。
日本人の歴史からいって、そうですよ。
だって、日本は完全相対主義というものになっているけど、それはいまのほんのちょっとの、ここ10年ぐらいの現象ですよ。
長い歴史から見たら、ごくわずかな期間です。
しかもそのいまでさえ現象の奥に底流しているものは、現実に満足できぬという風潮です。
いま、哲学・仏教その他いろんなものに対する関心が起こっていますが、これは絶対者へのあこがれですよ。
日本人という国民はそんな、つまり相対主義的な幸福に落ち着くとは、ぼくは見ていないんです」
と分析している。

相対主義を気取っている日本人にも「絶対者へのあこがれ」があり、もしその絶対者にあたるものを探すとすれば、それは三島のなかでは天皇であったのだろう。

三島由紀夫は、つねに醒めた相対主義者でもあったのではないだろうか。

三島由紀夫は、熱狂的に2・26事件を、神風連を、仏教を唯識論を語ったが、それらの思想を相対化する力の持ち主であったため、つねに醒めていたのである。

三島の思想や発言は、「仮面の告白」のようなものであり、三島由紀夫の本質は、そこに在り、そこに無かったのだろう。

三島由紀夫が、「絶対者へのあこがれ」について徹底的に考え抜いた挙げ句に、
「文化概念としての天皇」と言ったとき、それを嘲笑した人々は、そして今の私たちは、果たして、三島由紀夫よりも徹底的に考え抜き、三島由紀夫よりも論理的であり、そして、困難な時局に遭遇しても(ふたたび)熱狂的に「絶対者」を求めないほど高尚なる人々であるのだろうか……。

私たちは、矛盾することを恐れて、問題を回避した思考をしがちであり、矛盾に直面しない思考が合理的思考であり、矛盾をはらむ思考が非合理的思考であるとすら、考えてしまうところがあるようである。

だからこそ、三島由紀夫の「文化概念としての天皇」という考え方やそれに至るまでの論理展開に対して、非合理主義者やファシストの考え方などという短絡的な呼び方をしがちなのだろう。

やはり、矛盾にぶつからない思考が合理的なのではなく、矛盾にぶつかることを恐れない思考が合理的なのではないだろうか。

三島由紀夫は、確かに、当時の日本人の現実を無視して、あまりにも論理的に冷徹であり過ぎたのかもしれないが、「日本を守る」とすれば、「日本の何を守るのか」と考え、そこに天皇という日本的文化があることに気づき、日本が日本であることの最終的な根拠を「文化概念としての天皇」に見出したのであろう。

そして、三島由紀夫は、一見すると、自衛隊市ヶ谷駐屯地で「事件」を起こし、自衛隊にことばを発したようには見えるが、テレビカメラやマスコミ関係者を用意周到に呼んだことからもわかるように、自ら舞台を用意し、日本人に対して人間の生き方の根本にかかわる問題を提示したのではないだろうか。

三島由紀夫は、ある意味では常識論を常識的に主張したに過ぎないのだが、敗戦という現実を体験し、自信を喪失した多くの戦後の日本人には、それは常識ではなくなっており、三島の言うことは理解されなくなっていたのだろう。

三島由紀夫は、自決を前にして、遺書代わりに「武」という文字を書く予定だったようである。

しかし、小賀正義が準備していた色紙を差し出したとき、少し投げやりな口調で、
「もういいよ」
と三島由紀夫は淋しく笑いながら言ったようである。

「文人三島由紀夫」ではなく「武人三島由紀夫」として、物書きとして生きてきた人間として、「武」と最後に書き残したかったことばは、「演説」のあとには、「演説」に対する人々の反応を眼の前にしたあとには、やはり、とても書く気にはなれなかったのだろう。

『豊饒の海』第4巻の『天人五衰』ラストに本多繁邦が悟ったように、三島由紀夫もまた「計画と現実は違った」ことをこのとき身に沁みて悟ったのかもしれない。

戦後の日本人のなかで、まず生きることが先行し、恥も外聞もなく必死で生きてきたことは当然であろう。

しかし、徐々に生き延びることこそが至上の価値であり、そのためならどのようなこともし、ただ金儲けに熱中し、人間的なプライドや精神的な価値をかなぐり捨て、「生命尊重」という美名ために「生命の尊厳」を顧みなくなった私たちに、三島由紀夫は、

「生命尊重のみで魂は死んでもよいのか……」
と人間的なプライドや精神的な価値や「生命の尊厳」に対して眼を向けることを私たちに言いたかったのではないか、と私には思われる。

また、松本清張や司馬遼太郎が、三島由紀夫の辞世の句や檄文にケチをつけたのは、「魂は死んでもよいのか……」と三島に問いを突き付けられ、自らの文学の根底を覆される可能性を認識したからではないか、とも思われる。

なぜなら、彼らは、戦後的価値観を前提に、大衆の無意識の願望を代弁して大衆小説を書いていたたからであろう。

そして、「人生は短いが、私は、永遠に生きたい……。」
という三島の最後にたどり着いた思想であり、本音であろうことば通り、三島由紀夫は、まだ、私たちの世界のなかに生きているようである。

ところで、冒頭で小林秀雄が、三島由紀夫事件には、思想やイデオロギーで簡単に処理できない「日本的なもの」「孤独なもの」が感じられると言ったことについてふれたが、戦後、私たち日本人が何かを喪失していることは、明らかなようである。

そのひとつに民族としてのプライドもあるだろう。

民族というものは、「新しくて新しい」問題である。

「古くて新しい」わけでもないし、「新しくて古い」問題でもない。

19世紀以降、すべての差異を塗りつぶして普遍化していくような近代主義が出現してから、それに抵抗して
「そうではない、私たちには、普遍化から守るべき独自性があるのだ」
という形で見出されたもの、それが「民族」という神話なのではないだろうか。

「そうではない」という否定から始まっているから、積極的に、肯定的に「民族」を定義することはなかなかに難しい。

確かに、私たち日本人が『荒城の月』を聴くとき、曰く言い難い心境にとらわれる。

それを、日本にゆかりのない人たちに説明することは、ほとんど不可能であろう。

芸術は、言語を超えた言語である。

『荒城の月』という言語には、日本人が自覚・無自覚を問わず受け継いできた、「平家物語的な無常観」が語られている。

かつて、ここには人が生きて、喜び、哀しみ、怒り、笑っていたが、その人々は、もう地上にはいないという感傷というより、世界観が語られているのである。

そして、そのような、明示不可能な世界観というもの、どうやらこれが「民族」の概念の中心にあるようでる。

このような近代に生まれた「民族」の概念に、(今のところ)1番困ったのは、今はなきソビエト連邦であろう。

巨大な版面を擁するソ連は、必然的に多くの「民族」を抱えることになった。

本来、様々な差異を持つ人間を「労働者」と「資本家」に強引に区分けしようとするのが、共産主義の根本思想である。

そのような区分け、あるいは普遍化への抵抗は、民族運動として表出してくるのだが、そもそも、「民族」というものが捉えがたい概念のため、なかなか有効な対応策は無いのである。

民族概念の根本は、地縁や血縁ではないか、と思い付いたスターリンは、地域部族の強制移住などを試している。

そのような、ムチ政策に対しては、同時にアメ政策も採られた。

つまり、

「民族性を強調するな」と厳しく排除の原理で当たるのではなくて、

「あたなたちも私たちソビエト国民の一員なのですよ」

と抱擁して、国家に抵抗する民族の独立性の概念を、日本でいえば、関東弁と関西弁の違い程度に、矮小化しようとするのである。

しかも、このスターリンの抱擁は、

「強く強く強すぎるほど抱き締めて、相手を窒息死させようとする抱擁」であり、いわば抱きつくフリをして、民族概念を絞め殺す恐ろしい政策なのだろう。アルメニア生まれの作曲家アラム・ハチャトゥリアン(1930~1978年)は、政治にも思想にもあまり興味はなかったのであるが、ハチャトゥリアンの卓越した才能を時代は見逃してはくれなかった。

ハチャトゥリアンに期待されたことは、西洋音楽の語法の中にアルメニアをはじめとする辺境の民族の音楽を取り込んでしまうことであった。

しかし、ハチャトゥリアンはあまり政治的に敏感ではなかったようである。

ハチャトゥリアンは「純粋に」故郷アルメニアを中心として民族音楽を採集し、研究をした。

そして、その結果、政府当局者が予想だにしなかった、極めてアルメニア的な、決して「労働者の勝利」などという普遍的イデオロギーとは結びつくはずもない、民族の魂や郷愁に訴えるような素晴らしい曲を作ってしまったのである。

その曲こそ、ハチャトゥリアンのヴァイオリン協奏曲なのである。

曲は、冒頭から西洋的ではない。

荒々しき激しいリズムに始まり、西洋でも東洋でもない、コーカサス地方特有の感性に満ちている。

約30分の音楽のなかで騎馬民族特有の激しいリズムも民族の嘆きや哀しみのような哀切極まるメロディーも出てくる。

このような素晴らしい、魂に触れるような音楽を聴いた暁には、誰でも政治などという、どうで死ぬ身の人間の愚かな喜悲劇など忘れてしまうだろう。

実際、そのようなつもりで作曲させたわけではなかったソ連の当局者は大いに困り、この民族色溢れる音楽に、1941年、「スターリン賞」を与えざるを得なかったのである。

ちなみに、アルメニアと近いグルジア出身のスターリンがこの音楽をどう思っていたのかは、伝えられては、いない。

しかし、スターリンの言葉や著書は時が流れれば流れるほど、忘れられていくが、ハチャトゥリアンのヴァイオリン協奏曲は時が流れた今でも愛聴されている。

やはり、政治はひとつ時代が終われば終わるのかもしれないが、芸術は終わりがなく、永遠あるようにすら私は、思われるのである。

明示不可能な世界観が「民族」概念の中心にあり、ハチャトゥリアンの音楽に私たちはただただ聴き惚れる。

小林秀雄は、言う
「解釈を拒絶するものだけが美しい……」と。

ここまで、読んで下さり、ありがとうございます。

今日も、頑張りすぎず、頑張りたいですね。

では、また、次回。

※「高度経済成長」の時代に突入したころの話もあり、チャップリンの『モダン・タイムス』を思い出し見出し画像にしました😊

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