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文学のなかの美術、美術のなかの文学①―梶井基次郎『檸檬』―
梶井基次郎の『檸檬』の主人公は、現代社会においては、「健康」にも「裕福」にも、そして「正常」にも分類されないであろう。
貧乏学生で、借金持ちで友人の下宿を泊まり歩いている。
さらに、神経症で肺病とされており、アルコール中毒的な描写もある。
しかし、主人公は、その状況を改善しようと躍起になっておらず、少しも気にしていない。
たとえ、「憂鬱」で「苦しい」と外部に規定されるような日々を送っているとしても、彼自身は、自分の生を悪いものだとか、否定的なものだとか思ってはいないから、絶望していないのであろう。
私には、むしろ彼は、非常に堂々と日々を送っているようにすら見えるのである。
現代では(当時でも)
「多くの問題を抱えて未来もない駄目なひと」というレッテルを貼られるであろう彼は、どのようにして自己を肯定していたのだろうか。
私は、その理由は、彼が外的な(社会的な)評価よりも、自己の裡に強固な内面世界を持っているからであるからであると考える。
さらに、注目したいのは、彼が彼自身の考える「美しいもの≒美術」と一貫して関わることで、外的評価にとらわれない自己を完成させているところである。
彼の意識は、その美しさに浸ることで、外的な社会規範から離脱し、「純粋経験」をしているようにすらみえる。
『檸檬』が発表されたのは1924年、人も物も情報も容易に海を越えることは出来なかった時代である。
主人公にとっては、丸善の店に並ぶ舶来品の数々は、便利、高品質といった日常的な意味を超えて、非日常的で、非現実的な、もしかしたら、「神聖な」輝きさえ放っていたかもしれない。
しかし、彼は、それを無批判に受け入れ、称賛し続けるのではなく、「自己が満足する美」を模索し、手に入れようとする。
模索の過程で、彼は、幼児期の思い出の中に在る、お祭りの夜の出店のような「身近にあって安っぽくて愛おしい、色、光、興奮」に「自分が満足する美」を感じる。
彼が最後に手に入れた「自己が満足する美」は舶来品に比べては「劣る」と外的な評価を受けかねない、タイトルにあるひとつの「檸檬」である。
ある日の散歩の途中に、主人公はひとつの檸檬を買う。
食べるためではなく、檸檬自体の色や形や重さを味わうため、香りや冷たさを楽しむために、そして「美しさを感じるため」手に取ったのである。
確かに、主人公は、外的な(社会概念的な)世界のなかでの時間を暗く重い気持ちで過ごしている描写もある。
しかし、内的な自己の時間では、主人公は、対象としての美に出会い、対象を内的な世界で昇華し、明るい時間を生きているようである。
そのとき、自分が生きている外的な世界は相対化され、遠く退いてゆくような不思議な意識状態を体験する。
彼は、この美的体験に、単なる面白さや楽しさではなく、それ以上の価値を見い出している。
この体験によってこそ、彼は、生と世界を肯定しているのではないだろうか。
檸檬を手に入れた彼は、舶来品に代表されるような既存の美しさには美を感じなくなり、遂には、
「既存の美しさに不満があるならば、自分で作り出せばよいのだ」
というコペルニクス的発想の転換を遂げる。
この転換は、受動的な芸術鑑賞とは異なり、自分が必要とする美しさは、自分の手で作り出してやろう、「いま・ここ」で、という能動的な創造活動に彼を導く。
自らが満足できる美を外的に相対化し、同時に絶対的な価値を知らしめるこの行為は、「肯定できない・肯定されない生」を「生きるに値するもの」にする方法なのかもしれない。
主人公は、自分が没入できない画集ならば、巨匠の名画であろうと「自分にとっての価値」はないと考え、画集の外観、表紙や背表紙の色を「ただの着色された物質」として「自身が考える美しいもの」である「創作物」の「素材」として利用する。
輸入画集の売場で、突如、彼はオブジェ制作を始める。
画集を重ね、山を作っては崩し、順番や組み合わせを変えては、また重ねる。
そのたびに、山の色が変わり、形が変わり、ボリュームが変わる。
やがて出来上がった色彩の山の頂上に、主人公は、「レモンイエロウの絵具をチューブから絞り出して固めたような」檸檬をひとつ置く。
このとき主人公は、「自分自身」が創り出した「檸檬と画集によるオブジェ」によって、「不吉なかたまり」を心のなかから消し去って、美を感じることができたのではないだろうか。
1924年、つまり『檸檬』が発表された年は、アンドレ・ブルトンが「シュルレアリスム宣言」を発表した年でもある。
レディメイド(→既成の物品をそのまま使い作品化する)やアッサンブラージュ(→既成の物品の集積で作品をつくる)は、シュルレアリストやその先駆者であるダダイストが好んで用いた技法である。
インスタレーション(→特定の場所に一定期間仮設され、設置期間込みで鑑賞される作品)は、1960年代あるいは1970年代に一般化する制作・展示方法だが、源流を求めれば、やはりダダに辿り着く。
しかし、私には、梶井基次郎が流行を意識して『檸檬』という小説を書いたのではなく、梶井基次郎自身が、
「いかにして外的に否定された生を肯定するか」
についてのひとつの答えを示したように思われるのである。
主人公の芸術行為は、
「自分の満足する美」としてのオブジェを
「そのままの形でその場に放置する」ことに決めたことにあるのだろう。
このオブジェに気づくひとの心のなかで、いったい何が起こるのだろうか。
主人公自身が感じているこの美しさ、この絶対的価値を、オブジェに気づいたその人も感じてくれるだろうか。
自分が作ったものが、自分の知らないところで、不特定多数の人々に関わりを持つ。
そしてそのような関わりは、他の「生を肯定する」重大な関わりになるかもしれない。
「いま・ここ」の自分を表現することは、その過程において、他者と「生を肯定し」合えることもあるのではないだろうか。
『檸檬』のなかの「檸檬」の存在は、外的な評価やそれに付随する圧力に抗う手段としての「自己の満足する美を創造」することの意義を教えてくれるように、私には
、思われる。
ここまで、読んでくださり、ありがとうございます。
新シリーズです😊
今日も、頑張りすぎず、頑張りたいですね。
では、また、次回。