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私たちが直面しているあいまいな境界線から①ー子どもに対するDMDDー【番外編の日記】
私たちは「正常」と「異常」という、相反する2語をよく知っているようで知らない。
「正常」と「異常」の両者の大体の意味は、本能的直感的に解っているが、具体的に「どういうことか」と、述べたり、「こうだ」と、断定したりすることは難しい。
しかし、「正常(normal)」という語は、さまざまな場面に出てくる。
かつて大工の差し金を意味するラテン語として「normal」という語は生を受け、今も、幾何学では、直角や垂直を表すのに使われている。
その自然な成り行きとして、いくつもの「正しい」という含みを持つようになった。
例えば、「正常(normal)」を内包しているものとして、通常、標準、普通、日常、典型、平均、予想通り、習慣、適合、共通、妥当、慣例、などがある。
そこから一歩進んで、「正常(normal)」は
「生物学的にも心理学的にも良好に機能している」≒「心身の病気にかかっていない」状態
を表すようになったのである。
辞書は、「正常(normal)」を定義できているようで出来ていない。
何が正常かを知るためには、何が異常かを知らなければならないのに、辞書で異常は、
「正常でないもの、通常でないもの、自然でないもの、典型でないもの、基準に適合しないもの」
などとなる。
辞書の(このシリーズの②では哲学、③は統計学などから、また、それ以降は、偽薬、区別の困難な双極Ⅱ型障害などさまざまな見方からの予定)「正常(normal)」の定義を検証してみながら描いていきたいと思う。
「正常(normal)」は一方の語の他方の語の反意語としての定義するだけであり、「正常(normal)」も「異常」きちんとした定義はなく、また、両者の間に有意義な線引きはされていない。
まず、辞書のなかでは、
「正常」と「異常」について、現実世界で問題を整理するのに役立つような、普遍的で超越的な定義は存在しないのである。
しかし、かつても今も小児精神科の医療はしばしば、その未踏の地にまで足を踏み入れ、毎回、子どもがその代償を払っているようである。
実際、10年ほど前なら日本でも、
「僕たちと子どもとは用いる言葉ひとつ取っても、言葉のニュアンスが違うからとても難しい。」
と臨床医たちも躊躇していたし、私もまだよくそのような意見を聞けていたように思う。
しかし、特にここ何年軽く診断する傾向を、私は感じる。
さらに、「正常」と「異常」の曖昧さが悪用されたかたちで、子ども特有の周囲への反応の仕方すべてに精神疾患のレッテルを貼ろうとする一部の小児専門医がアメリカでは10年以上前から現れ始めている。
そのような小児精神科医たちのある研究に拠れば、21歳になるまでに未成年の83%が精神疾患の診断条件を満たすという。
また、DSM-5にかかわった専門家たちが(よかれと思ってらしいのだが)、「機嫌調節不安障害」と言う名称を「重篤な気分調節不安障害(DMDD)」という名称に変更した。
どう名付けようとも、私たちより多くの言葉を知らない子どもが、怒りや悩みを伝える手段として起こす癇癪(かんしゃく)を、
精神疾患にする発想自体がおかしいように私は、思うし、先に述べたように私たちとて、それが「正常」であるか「異常」であるかなど、判断する以前にそもそも、私たちは、「正常」と「異常」の定義すら出来ないことを忘れてはならないと考える。
確かにDMDDへの名称変更にかかわった専門家たちは、小児双極性障害のすさまじいまでの誤謬を認識していたため、それらを是正すべく、DMDDという名称に置き換えようとした。
しかし、DMDDに置き換えたことによるリスクの方が大きかった。
DMDDは小児双極性障害を置き換えるだけにはとどまらず、あまりに対象範囲が広いものになってしまい、理解不足の人々が手にすれば、そもそも診断が必要ないか、あるいはもっと踏み込んだ診断が必要なあらゆる子どもたちにレッテルを貼ることに使われてしまう危険性をはらむものとなった。
子どもは私たちより、初めてのことが多く、興味や関心の範囲も、広い。
だからこそ、いろいろな手段で周囲に反応するのであり、その過程で生じる怒りや悩みを伝達する手段として癇癪をよく用いる。
よって癇癪そのものや癇癪に付随するものに独立した正式な診断という地位を与えたことは誤りであり、DMDDはよくある、ありふれた、そしてアタリマエの症状を精神疾患に変えているだけともいえる、と、やはり私は思う。
癇癪がこれほどありふれといるのは、生存上の大きな利点があったからである。
私たち霊長類の祖先であるチンパンジーの親も子もも騒がしいものにかまったり、ひいきしたりする。
いわんや、人間においての癇癪やそれに近いものの大半は、人生の階段をのぼっているときの証拠に過ぎない。
DMDDの確固たる研究データは乏しく、わずかなグループの数年間のデータが基軸である。
また、子ども全体に予想される有病率もわかっていない。
「正常」な癇癪と「異常」な癇癪を区別できるのかすら解っていない。
さらに、他の疾患との関係も、経過も、望ましい治療法も解っていない。
私は、確かに病にも悩んだが、その後の診断インフレと過剰処方、そこからの離脱にさらに苦しんだが、自らの経験や、そのときどき、そのところところから学び蓄積したことを、描いていくことも、なんらかの意味があると信じている。
(基本的な私の考えは前年にも記し、その際、前年には子どもの障がいと生きてきたという方から励みになるようなまた、ありがたいご意見もいただいたので、今年はまた、改良しながら描きたいと思う。)
ゴーギャンが絵で私たちに語りかけた
「私たちはどこから来たのか 私たちは何者か 私たちはどこへ行くのか」ということをも可能なかぎり考えてみることができたら、と思う。
ここまで、読んでくださり、ありがとうございます。
先日、楽しい講義に参加させていただく機会を得たので、久々にこのテーマを【番外編の日記】として描いてみたいと思います😊
いつもの日記はそのままです😊
学部生時代から悩んだ病の延長からくる過剰診断と過剰処方から抜け出すことを8年ほど前に決意し、収まってきたとはいうものの波のある離脱症状に、日々コツコツと耐えているうちに快方に向かい、今は少しずつですが活動することができるようになりました😌
そんな視点から描いてみたいと思いますし、それが私に出来るひとつのことであるとも考えました😊
では、【番外編の日記】も、また、次回。