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フィリップ・グラス 弦楽四重奏3番「MISHIMA」をきいて-音楽から眺めてみる世界から⑫-

三島由紀夫の自決は、日本のみならず、世界にも衝撃を与えた。

富士山のように大きな山は、麓からはその威容は計り知れないため、少し距離をおいて眺める必要がある。

富士山の麓には深い樹海が在り、そこに入れば必ず迷う。

三島は自らの死をあのように演出することで、日本人の喉元に解きがたい難題と謎を突きつけたかのように見える。

しかし、外国から見た三島という富士山は、簡明な、規矩正しい稜線を持った姿に見えるようなのである。

それは、戦後日本という絶対的価値喪失のなかで生きざるを得ず、仏教的虚無感に至るまで絶望した魂の姿のようである。

そして、三島自身結局自分の思いは外国人にしか解らないと考えていた節もある。

もっとも心奥の秘密を語った相手のひとりはドナルド・キーン氏であったし、不在の死に堪えなければならない苦痛を描いた小説『真夏の死』では、主人公の女性はアメリカ人と対話することで、はじめて、素直に自らの思いを語るのである。

三島の自決から15年後の1985年、フランシス・フォード・コッポラとジョージ・ルーカスのプロデュースのもと、ポール・シュレーダーを監督として、映画『MISHIMA』が制作された。

三島自身が自決の直前、東武において自らの人生を回顧する展覧会を開いた折、

「書物の河」、「舞台の河」、「肉体の河」、「行動の河」と、人生の局面を4つに分けたことに倣って、

『金閣寺』、『鏡子の家』、『奔馬』、『太陽と鉄』の4作品を劇中劇として取り上げながら、三島の心象風景を炙り出してゆくものである。

この映画の音楽作曲に選ばれたのが、新進気鋭の現代作曲家フィリップ・グラスであった。

グラスは、ミニマリズムという作曲技法を代表する現代作曲家のひとりである。

ミニマリズムとは徹底的に音楽を根源まで遡り、リズムと和音という最小単位まで分解しようという先鋭的な運動であった。

どれほど先鋭であったかというと、グラスのデビュー作であるオペラ『渚のアインシュタイン』では、ひたすら、

「one,two,three,four......」という無意味な歌詞が分散和音で歌われ、しかもそれが延々4時間も繰り返されるのである。

......。

聴衆はひたすら繰り返しの苦痛に耐えねばならないであろう。

しかし、この「繰り返し」を特徴とするミニマリズムという技法は、同時に、有為転変し、同じ過ち、同じ苦しみを繰り返す人間の世界に対する透徹した仏教的感覚を表現するのに最も適していた。

グラスはシュレーダー監督から

「私の考える三島を描きたい。

三島への共感など必要ない。

ひとつの孤独な魂が、孤独という苦しみからの解放を国家に求めて、そこに絶望して死んでゆく魂を描きたい」

と言われ、小説作品のBGMには、絢爛豪華なオーケストラを使い、三島の現実生活、すなわち、名声が高まれば高まるほど、高まる空虚感を表すため、簡素な弦楽四重奏を用いた。

その弦楽四重奏部分をクロノス・カルテットの委嘱によりまとめたのが「MISHIMA」である。

音楽はひたすら内省的で、三島が死に惹かれてゆく様子を静かに美しく、悲劇的に描き出す。

グラスは自ら

「世俗的成功の絶頂に、そうではないと現実を否定する精神、そのようなひとりの人間の美しい生き方そのものを描きたいと思った」と。

幼年の三島に狂気の老婆が与えた死の刻印を表した第3楽章「祖母と公威」や、切腹するのに相応しい腹筋を鍛える様子に付された第4楽章「ボディビル」はひたすら惨たるものがあり、終楽章は三島の魂を慰撫するようにひたすら美しくもある。

三島由紀夫は、このように外国人が自らの死を熱心に、芸術的解釈しようとすることに、どのような思いを持つだろうか。

少なくとも、アメリカ人の三島解釈には、同じ日本人だというだけで私がする解釈よりも侮りがたいものがあることは、事実であり、私は、こっそりと冷や汗を流すのである。

ここまで読んで下さりありがとうございます。

音楽から眺めてみる世界からシリーズでした😊


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