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文学のなかの芸術、芸術のなかの文学⑰ーシンクレア・ルイス『ここでは起こりえない(It Can't Happen Here) 』ー(トランプ氏の大統領就任まであと3日)

1559年に、ピーテル・ブリューゲルが描いた『ネーデルランドのことわざ』のなかでは、どの人物も、他者のことなどかまわず、自らの愚かともいえるような行いに没頭しているようである。

『ネーデルランドのことわざ』のなかの登場人物たちが私たちに見せる情景は、当時の社会を反映させてブリューゲルが描いたものであり、たとえば、農家の壁に取り付けられた地球儀を見ると、十字架が天ではなく地を向いているように、正義もひっくり返ったような、現実には起こり得ないような、さまざまなことがさかさまになった世界が描かれているのだろう。

また、ブリューゲルは、当時の社会をものごとのあるべき姿や起こり得るであろうこととは反対のことを示すことわざを用いることにより、当時の社会を裏側から描いているのではないだろうか。

ブリューゲルが、『ネーデルランドのことわざ』を描いたころ、西ヨーロッパは中世からの転換期を迎えており、16世紀のネーデルランドは、いくつか大きな港があり、商業が繁栄し、豊かな国だったが、スペインのハプスブルク家の支配下にあったようである。

ハプスブルク家は、教会の権威を用いて民衆を抑圧し、異端者や反逆者を取り締まるため、宗教裁判を行っており、ブリューゲルは、神の教えを歪める教会や、社会の不平等、他国の支配、己のことしか考えない富裕層に対する批判を、うさぎが猟師を追いかけ、豚の毛を刈り、貧しい者が富める者に施し、召使いが馬に乗り、王様が歩いているような、起こり得ないような世界、さかさまの世界を描いた『ネーデルランドのことわざ』という絵に込めたのだろう。

当時の社会のなかにいる他者のことなどかまわず、自らの愚かともいえるような行いに没頭している者たちの精神を描き出すような『ネーデルランドのことわざ』と同時に、どこかで現代も、他者のことなどかまわず、自らの愚かともいえるような行いに没頭している者たちの精神を描き出すようなディストピア小説、特に、愛国心と恐怖を煽り、思い切った経済・社会改革を約束し、愛国心と伝統的価値観への回帰を推進した後、アメリカ合衆国大統領に選出された扇動家バズ・ウィンドリップの台頭を描いた小説である『ここでは起こりえない(It Can't Happen Here 』を、トランプ氏の就任が「また」近づくと「また」想起するのは私だけだろうか。

シンクレア・ルイスが『It Can't Happen Here(ここでは起こりえない)』を出版してから80年以上が経った2016年のトランプの大統領選の後に、再びベストセラーになっているが、「芸術が人生を模倣するように、人生が実際に芸術を模倣することがある」と思った人が多かったからではないか、と私は考えている。

ただ、バズ・ウィンドリップのほぼ生き写しや、ヒューイ・ロングの再来とトランプは恐れられているようであるが、本当に恐れるべきは、彼の台頭に映し出されている私たちの精神ではないだろうか、とも私には、思われる。

確かに、トランプは、唯一無二の例外的な人間であって、アメリカ国民やアメリカの民主主義を反映した存在でない、と考えることは気休めにはなるだろう。

しかし、彼の台頭は全く予測出来なかったことではなく、私たちの精神を映し出したものであったようにも私には、思われる。

ルイスの小説『ここでは起こりえない』(1935年)は今(2025年)読んでも本当に、十二分に恐ろしい。

やり手のカリスマ扇動政治家バズ・ウィンドリップが、恐ろしい不景気を産む土壌が十分に整っていた中で、驚異的な経済的利益の獲得という、大げさな約束を掲げ、有権者の怒りと恐怖を煽り、さらに、愛国心や、伝統的なアメリカの価値観、ユダヤ人や外国人に対する嫌悪の念に訴えかけることによって、アメリカ大統領に当選し、その後、ウィンドリップは、民兵の後ろ盾を得て、独裁的な権力を振るうのである。

ルイスは、ヒューイ・ロングの人格と野望をもとに、ウィンドリップを描いた。

ヒューイ・ロングは、大恐慌時代のルイジアナ州で活動した大衆的な扇動政治家であり、アメリカの歴史上、最もトランプを彷彿とさせる人物かもしれない。

ロングは、自らを「キングフィッシュ」と名乗り、

「誰もが王様」

というスローガンを掲げていた。

既に、ルイジアナ州知事として、ほぼ独裁的と言ってもいい権力を振るっていたが、上院議員に選出されてからも長くその姿勢を維持していた。

1935年に暗殺されるまで、ルーズベルトに最も嫌われ、大統領選のライバルと恐れられており、ルーズベルトには個人的な、ロングをヒトラーに例えていたようである。

ロングの支持基盤は、トランプの場合よりもずっと組織化され、その分だけ規模も大きかった。

驚くべきことに、750万人の「富の共有」クラブ会員、2500万人のラジオ聴取者を従え、支持者から1週間に6万通の手紙を受け取っていたのである。

トランプと同様に、ロングも選挙集会での聴衆からの追随と、盛り上がった集会の雰囲気を堪能していたのかもしれない。

『ネーデルランドのことわざ』のなかにも、皆で不思議な夢をみているように、どの人物も、他者のことなどかまわず、自らの愚かな行いに没頭しているのだが、それだけではない、と思わせる部分がいくつかある。

そのひとつが、熊を踊らせている男が描かれている部分であろう。

ネーデルランドでは、「熊を踊らせる」とは、心から人の幸せを願うことであり、ハンガリーには「熊はまだ後ろにいる」というこれから良いことがあり、すべてうまくいくことを意味することばがあるからである。

また、海に浮かぶ帆かけ舟は、希望を表し、当時も舟に乗るものは「天候に恵まれ、順風にのって航海すること」を祈り、帆には当時の神のシンボルである大きな瞳が描かれ、海の向こうにはわずかに教会の塔がブリューゲルの見出した希望のように描かれている。

しかし、丘の上では、ブリューゲルの絵によく登場する盲人の行列が描かれており、崖に向かって歩いていており、対岸には絞首台も見えるだろう。

ルイスは、ロングが暗殺されず、1936年の大統領選で、ルーズベルトに勝利した場合に、アメリカで起きることを想像してフィクションを描いたようである。

フィリップ・ロスの著書『プロット・アゲインスト・アメリカ』も同種の物語であるが、その設定は、1940年のアメリカ大統領選挙でリンドバーグがルーズベルトに勝利する、というものである。

ルイスは、扇動的に大衆の気を引くロングの振る舞いと、当時、ドイツやイタリア、スペインで権力を握ったファシスト政府とを重ね合わせることで、アメリカが架空のファシストに支配されることを想像したのである。

ニーチェは、

「狂気は、個人にあっては稀有なことである。
しかし、集団・党派・民俗・時代にあっては通例である」
と述べている。

どの時代でも、どの場所でも、どのような人物でも、他者のことなどかまわず、しかし、その世界では周囲の他者もそうだからと、自らの愚かともいえるような行いに没頭してしまうことはあるだろう。

しかし、気づいたり、過去から学んだり、皆で正しいとか良いと思われる方向に軌道修正することは、私たちにもできるはずではないだろうか。

ベンジャミン・フランクリンの
「私たちは皆団結しなければならない。
さもなくば間違いなく、めいめいが絞首刑に処せられるだろう」
ということばは、今の時代の私たちにも当てはまるだろう。

トランプが大統領に再び就任する世界を、私たちは恐れるのではなく、彼のいまだ健在な力の理由やその背景、それを恐れる世界に映し出された私たちの精神を見つめ直す時期に、また、来ているのかもしれない。

私たちは、彼の台頭は間違いなく予測できたことであり、私たちの精神を反映したものであろうから。

また、私たちが抱えていたり、直面するであろう問題をすべてトランプのせいにすることは、それを可能にした社会に潜むものを見逃してしまうことになるから。

そして、トランプは、危機に瀕する世界に現れた症状のひとつであり、その唯一の原因ではないのだから。

ここまで、読んで下さり、ありがとうございます。

今日も、頑張り過ぎず、頑張りたいですね。

では、また、次回。


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