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「勝った側の文化や伝統に転向してゆく日本」に三島由紀夫が言いたかったであろうこと-三島由紀夫という作家について⑨-

「人生は短いが、私は、永遠に生きたい……。」

三島事件のあと、三島由紀夫の部屋で見つかった遺書風の書き置きに書かれていたことばである。

三島由紀夫は、私たちにさまざまな問いを投げかけながら、生き続けているように、私には、思われる。

三島由紀夫を「事件」に駆り立てたものは何だろうか。
三島由紀夫は、何を言いたかったのだろうか。
そして、三島由紀夫の悲劇は何を意味するのだろうか。

敗戦という現実を体験し、自信を喪失した戦後の日本人の多くは、三島由紀夫が、三島由紀夫なりに深く日本史や日本文化を分析し、考察し、構築した論理に対して、
「飛躍している」とか「破綻している」と言って嘲笑したようである。

戦後の苦難を生きてゆく上で、日本人の多くは、心のどこかで、日本が戦争に負けたのは、日本の文化や伝統が間違っていたからだ……と考えるようになったのかもしれない。

さらには、古い日本を全否定し、勝った側の文化や伝統に転向することに、生きる活路や希望を見出した部分もあるだろう。

三島由紀夫は、それは自己欺瞞であり、虚偽であると言いたかったのではないだろうか。

三島由紀夫が、そのように考える背景には、より本質論的な理論的前提があり、当時の日本人について、
「ぼくは民衆もやっぱり絶対者をどこかで求めているだろうと思いますね。
民衆が相対的なものだけで満足するとは思えない。
日本人の歴史からいって、そうですよ。
だって、日本は完全相対主義というものになっているけど、それはいまのほんのちょっとの、ここ10年ぐらいの現象ですよ。
長い歴史から見たら、ごくわずかな期間です。
しかもそのいまでさえ現象の奥に底流しているものは、現実に満足できぬという風潮です。
いま、哲学・仏教その他いろんなものに対する関心が起こっていますが、これは絶対者へのあこがれですよ。
日本人という国民はそんな、つまり相対主義的な幸福に落ち着くとは、ぼくは見ていないんです」
と分析している。

相対主義を気取っている日本人にも「絶対者へのあこがれ」があり、もしその絶対者にあたるものを探すとすれば、それは三島のなかでは天皇であったのだろう。

三島由紀夫は、つねに醒めた相対主義者でもあったのではないだろうか。

三島由紀夫は、熱狂的に二・二六事件を、神風連を、仏教を唯識論を語ったが、それらの思想を相対化する力の持ち主であるため、つねに醒めていたのである。

三島の思想や発言は、「仮面の告白」のようなものであり、三島由紀夫の本質は、そこに在り、そこに無かったのだろう。

三島由紀夫が、「絶対者へのあこがれ」について徹底的に考え抜いた挙げ句に、
「文化概念としての天皇」と言ったとき、それを嘲笑した人々は、果たして、三島由紀夫よりも徹底的に考え抜き、三島由紀夫よりも論理的であり、そして、困難な時局に遭遇しても(ふたたび)熱狂的に「絶対者」を求めないほど高尚なる人々なのだろうか……。

私たちは、矛盾することを恐れて、問題を回避した思考をしがちであり、矛盾に直面しない思考が合理的思考であり、矛盾をはらむ思考が非合理的思考であるとすら、考えてしまうところがあるようである。

だからこそ、三島由紀夫の「文化概念としての天皇」という考え方やそれに至るまでの論理展開に対して、非合理主義者やファシストの考え方などという短絡的な呼び方をしがちなのだろう。

やはり、矛盾にぶつからない思考が合理的なのではなく、矛盾にぶつかることを恐れない思考が合理的なのではないだろうか。

三島由紀夫は、確かに、当時の日本人の現実を無視して、あまりにも論理的に冷徹であり過ぎたのかもしれないが、「日本を守る」とすれば、「日本の何を守るのか」と考え、そこに天皇という日本的文化があることに気づき、日本が日本であることの最終的な根拠を「文化概念としての天皇」に見出したのであろう。

そして、三島由紀夫は、一見すると、自衛隊市ヶ谷駐屯地で「事件」を起こし、自衛隊にことばを発したようには見えるが、テレビカメラやマスコミ関係者を用意周到に呼んだことからもわかるように、日本人に対して、人間の生き方の根本にかかわる問題を提示したのだろう。

三島由紀夫は、戦後日本の精神的荒廃の根拠について徹底的に考え、『栄誉の絆でつなげ菊と刀』のなかで、
「西洋人からみてばからしいものは一切やめよう、西洋人からみて蒙昧なもの、グロテスクなもの、美しくないもの、不道徳なものは全部やめようじゃないか--というのが文明開化主義である。
西洋人からみて浪花節は下品であり、特攻隊はばからしいもの、切腹は野蛮である、神道は無知単純だ、と、そういうものを全部否定していったら、日本には何が残るか--何も残るものはない。
日本文化というものは西洋人の目から見て進んでいるとかおくれているとか判断できるものではないのである」
と書いている。

三島は、ある意味では常識論を常識的に主張したに過ぎないのだが、敗戦という現実を体験し、自信を喪失した多くの戦後の日本人には、それは常識ではなくなっており、三島の言うことは理解されなくなっていたのではないだろうか。

三島由紀夫は、自決を前にして、遺書代わりに「武」という文字を書く予定だったようである。

しかし、小賀正義が準備していた色紙を差し出したとき、少し投げやりな口調で、
「もういいよ」
と三島由紀夫は淋しく笑いながら言ったようである。

「文人三島由紀夫」ではなく「武人三島由紀夫」として、物書きとして生きてきた人間として、「武」と最後に書き残したかったことばは、「演説」のあとには、「演説」に対する反応を眼の前にしたあとには、書く気にはなれなかったのだろう。

『豊饒の海』第4巻の『天人五衰』ラストに本多繁邦が悟ったように、三島由紀夫もまた「計画と現実は違った」ことをこのとき身に沁みて悟ったのかもしれない。

前日のうちに、朝10時に取りに来るように打ち合わせておいた『豊饒の海』の最終原稿は、編集者の手に渡ることまで計画の一部としていたように、三島由紀夫というひとは、綿密な計画と訓練を繰り返し、その結末までを納得しなければ、行動しなかったのに……。

三島由紀夫は、「事件」のなかで、はじめて、現実的な行為、つまり、失敗するかもしれない行為であり、無残な結果に終わるかもしれない行為に挑戦したのではないだろうか。

私たちは、三島由紀夫の「事件」のなかに、大きな失敗や挫折のない者の大きな挫折の際に、はじめて、「挫折とは何か」や「失敗とは何か」を感じ取ることが出来るだろう。

三島由紀夫が、読む作品ではなく、私たちに見せてくれたのは、そのような偉大なるものの挫折の光景だったのかもしれない。

そして、確かに、冒頭の三島のこれもまた計画の一部かもしれないことば通りかもしれない。

「人生は短いが、私は、永遠に生きたい……。」

三島は、まだ、私たちの世界のなかに生きているようだから。

ここまで、読んで下さり、ありがとうございます。

今日も、頑張りすぎず、頑張りたいですね。

では、また、次回。












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