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柄谷行人と吉本隆明、そして小林秀雄にとってのマルクスを理解するための下準備①-商学部だったことを思い出したので......⑨&哲学に触れてみたいから③-

疎外論は、人間の本性一般についての超歴史的な理論であり、資本主義的生産の特殊歴史性を捉えるものとしては、不十分なのであろうか。

フォイエルバッハのキリスト教批判の骨子は、

「信仰において、人間は自らの本質を神に託しながら、他者として神を措定するが、その結果、神への信仰に呪縛される結果となってしまった」
というものであり、本来は自己の内的本質であったものを、自己の外に投影したうえ、その起源を忘れ、主体が外化されたものに従属し、呪縛されてしまう事態を疎外というようである。

マルクスは、労働主体が自らの労働によって生み出した資本に従属し、その労働の成果の剰余労働を収奪される資本主義的生産のなかに、この論理を当てはめて批判したのだろう。

もし、資本主義的生産が、疎外一般のひとつの事例でしかないとすれば、それがマルクスのいうような歴史的段階において克服される必然性は見出されないのかもしれない。

というのも、宗教も、国家も法も疎外であり、文化一般、ひいては言語すらも疎外のひとつと言わざるを得ないからである。

このように考えると、冒頭に述べた、疎外論は、人間本性一般についての超歴史的理論であり、資本主義的生産の特殊歴史性を捉えるものとしては、不十分なのか、という疑問に突き当たってしまうのだが、マルクスは、『資本論』のなかで、それまでの労働中心、人間中心、生産力中心ではなく、言ってみれば、資本を中心にしたのであり、これにより、資本の特殊歴史性とそれを克服するための歴史的な客観的可能性を浮き彫りにしようとしたのだろう。

このときに、重要な要素のひとつとなるのが、商品の物神性の謎を解くカギである物象化論である。

貨幣は、それ自身がひとつの商品であるのだが、他の商品とは違い、常に他の商品と交換可能であるという力を持っている。

また、資本は、それ自身で利潤を生み出す力が備わっているように見え、利子生み資本(→貸付資本、利子付資本金ともいう)は、自然に利子を生むかのように見える。

このような貨幣の力や資本の見え方を「価値形態論」が、解明するのである。

それまでの古典経済学は、商品、貨幣、資本などはすべて、』価値の諸形態だ」とするだけで、その形態に注目をしなかったために、それらの形態がもつ力を解明してこなかったのであろう。

マルクスは、単純な商品交換が行われるときも、等価交換のみかけの下で、実際には社会的力関係が支配していることにも注目しているようである。

そのような社会的力関係は、商品同士をただ見比べているだけではわからず、その商品を所有している人の実際の在り方にも注目したのである。

例えば、比較的ゆとりを持たずに市場に赴く人の所有する商品(→相対的価値形態)は、交換を急げば急ぐほど、値踏みをされてしまい、受動的立場に立たされてしまうのだが、ゆとりを持って市場に赴く人が所有する商品(→等価形態)は、交換を急がなければ、急がないほど、交換の主導権を握り、相手を値踏みする立場に立つのである。

確かに、イノベーションなど、あらゆるチャンスを捉えて投資することが可能にするためには、単に商品を持つのではなく、貨幣を持っていなければならないだろう。

いつでもどのような商品とでも交換できる貨幣の流動性が重要なのはそのためであり、より高い収益が期待される投資機会が現れるかもしれないという、将来の不確実性のために、流動性の高い貨幣を所有することに十分な意味があり、私たちは流動性の高い貨幣を所有したがる(→流動性選好)のであろう。

生産の場面を、価値が生産手段の間を移動する過程としてしか見なければ、流通過程と同様、等価交換の流れしか見られないし、価値増殖と利潤発生がなぜ起こるかわからないかもしれないが、実際には、生産過程は、一度購入された労働力が企業家のイニシアチブの下で使役される人と人の関係であり、ここでは、場合には利潤を生み出し得ることがあるだろう。

企業家が、労働力の使用により、労働力の賃金より大きな生産をなし得る水準の技術で生産をしている場合に、利潤が生じるのであり、ここでも、企業家と労働者の人間関係(→階級関係)が労働の売買という流通過程と見做されてしまい、生産が価値の移動という物象的関係と見えてしまうことが、物象化の問題であろう。

しかし、物象化論はあくまでも商品貨幣経済における価値形態の物神性について考えるためのものであり、ただ共同主観的な現象であるというだけで、文化一般の超歴史的現象に拡大適用されてはならないのではないだろうか。

なぜなら、それは、一見すると、物象化論の射程を拡大する理論的深化のように見えるのだが、実際には、物象化論の真価をなくしてしまうものだからである。

もしも、言語すらも物象化のひとつであるとしたら、物象化の克服が歴史的・政治的課題となるはずはないだろう。

物象化現象が、ひとつの社会的言語ないし社会的暗号として解読されねばならないとしても、言語が物象化現象として解明される訳ではないだろう。

貨幣や資本の物象化は、克服可能かという問題について、私たちは、利子生み資本を認めないイスラム銀行や、各種の地域通貨や、巨額の投機的マネーに課税するトービン税などにその萌芽をみることができるのかもしれない。

地域通貨のなかには、退蔵することが不利になるように、時間が経つにつれて劣化するようになるものもあるようであり、そのため、それを手にするものは、なるべく早くそれを購買に回すことになるが、これは、貨幣を持つ者にあるゆとりに基づく優位性が少しはなくなるとは、言えないだろうか。

これらは、今は、ごく部分的現象に留まってはいるが、言語などとは異なり、物象化現象が制御可能であり、克服可能であることを示しているようにも思われるのである。

ここまで、読んで下さり、ありがとうございます。

商学部だったことを思い出したので……シリーズと哲学に触れてみたいからシリーズのハイブリッドつもりで描きました。

今日も頑張り過ぎず、頑張りたいですね。

では、また、次回。









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