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ジェンダー論
東大の前期教養課程にはジェンダー論という有名な講義があるんだけど、ふと思い出したのでそれについて話そうかと思う。
いやー点数こなかった..(60点並感) もう三年前のことだけどテスト問題みた瞬間になにこれってなった。やっぱ受けてる人がみんなガチだから...
という愚痴はさておき、可しかとれなかった自分でもそれなりに得るところはあったなと思えるのがこの講義。
といっても今思い出そうとして浮かんでくるのは、
・理科一類を東京男子短期大学と言い放つ瀬地山先生
・共働きをすることは三億円の宝くじをあてるのと同じだと言い放つ瀬地山先生
・ジェンダーに関係のあるあらゆる価値観は社会的に作られたものである可能性がある
ということくらい。一つ目と二つ目はともかく、(二つ目は割と重要な考えではあるけど)三つ目に関しては当時の自分にはなかなか衝撃的な観点だった。
特にいまでも覚えてるのがマスタベーション経験率が国によって違うということ。日本だと成人男性の99%がマスタベーション経験者なんだけど、中国はたしか30%とかだった。びっくりじゃない?
それまでマスタベーションは人間の本能であり、遺伝的に刻まれたものだと思っていたので驚きだった。俺たちのマスタベーション欲はどこから掻き立てられているんだろう。まとめサイトのエロ漫画バナー広告だろうか。
もちろんマスタベーションは一例で、ほかにもいろいろな社会的通念が実は作られたものだとわかる。男らしさ、女らしさとかも多分けっこう影響を受けてる。
で、じゃあこれを学べたことの何が良いのかっていうと、この視点が自分を守ることに少なからず貢献しているわけ。今って情報化社会だから、性にまつわるメディアを目にすることは多いし、その全部が自分にとって心地いい内容とは限らない。中にはこのライターぶんなぐってやりてえなと思う内容だってあるかもしれない。メディア以外にも友達と話しているときに受け入れられない価値観を耳にしちゃったとか。まあいろいろあると思う。
でもそんなときに「これは社会的に作られたものかもしれない、すべての時代、国で共通なものではないのかもしれない」って思えることが救いになる。自分を無理に曲げる必要がなくなる。この視点の得られた意味はそこにあると思う。
よく聞くやつで、女子のほうが数学できないってのがあるけど普通に嘘らしい。社会的にそう思われてるせいで現実もそうなってしまっている。でもこの視点があれば数学をやりたい女子は救われるよね。
学問をする意味みたいな話の文脈で、「心が自由であるために学問をする」みたいなことを聞いたことがある。ジェンダー論をの講義を受けた後ならこの言葉の意味するところが少しわかったような気がする。確かに点数は取りづらいけど、社会的に規定されたあらゆるジェンダー的価値観から自由であるためにジェンダー論を学ぶのも悪くない。