・・・・・この部分は毎回書きます・・・・・
茨城県の鹿島町。現在は鹿嶋市になっているが、そこに私は生まれた。戦争が終わって5年経った昭和は25年(1950年)のことである。
その中の、低い山を切り開いてつくられた「鉢形」という地区が生活の舞台であった。。
ここは鹿島の中でも特に辺鄙(へんぴ)な所で、バスは通っておらず、自動車が通ることもまずなかった。
ほとんどの家は農業をしており、米作りがその中心であった。
これから、そこを中心にした私の子ども時代の生活を書いていこうと思う。
子どもの生活に焦点を当ててそれを詳しく書いたものは、私の知る限り日本のどの時代にも存在しない。
生きていたのは大人だけではない。子どもも同じ時代を立派に生きていたのである。
記憶は薄れてきており、時と場所も限られてはしまうが、ここでは昭和の一時代の子どもの生活を、できる限り具体的に文字として残しておきたい。
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〈チャンバラ〉
小学校に入る前。一番の友達は、近くに住む同じ年の「勉(つとむ)」であった。彼とは特に仲が良かった。
最初の出会いは覚えていないが、とにかく四才頃にはほぼ毎日遊んでいた。勉は自分と同じぐらいの身長で、運動神経がよく、かけ足も速かった。よきライバルであった。
彼とは、かけ足や、石投げ、木登りなどいろいろやった。互いに負けまいとがんばるから、二人とも運動能力は高いものを持つようになっていった。
すこし後の話になるが、勉は中学三年の時に八十メートルハードルで町の中学生陸上競技会に出場し、見事に優勝した。また、高校では剣道部に入り、詳しくは聞いていないが、相当活躍したようである。
これはおそらく、子ども時代の私との「剣の修行」がその基礎を成しているのだと思う。
実は、幼い頃の勉との遊びで一番よくやったものは、かけ足や石投げなどではなく、「剣の修行」すなわち「チャンバラ」であった。
場所は裏山の中腹にある平地。周りは木がうっそうと茂っていて、人はまず誰も来ない。時折鳥が姿を見せるだけであった。
建物は一つだけあり、そこには村の産土神(うぶすながみ)が祀ってあった。その前で、神に見守られながら、毎日のように斬り合いをした。刀は山の木を切って作った細い棒である。運動神経は同じくらいであるから、勝ったり負けたりのいい勝負。互いに技を工夫して腕を磨きあった。
チャンバラは危険を伴う遊びである。棒が目に入れば最悪失明する。これはよくわかっていた。だから互いに手加減はしていた。
しかし、ものには間違いというものがある。それが小学校に入ってから起こった。
そのころは漫画「赤胴鈴之助」の人気が絶大であり、鈴之助の「真空切り」を会得しようとして、日々勉と練習に励んだ。剣を相手よりも素早く動かさなければ、勝負に負ける。熱が入る。手加減を忘れがちになる。
そんなある日、とうとう自分の棒が相手の目に当たってしまった。「しまった」と思ったがもう遅い。一瞬の出来事であった。二年生か三年生の時である。
――父は、勉を自転車に乗せて目医者へ連れていった。失明したら大変である。
――心配しながら父の帰りを待っていたが、帰宅するなり父は「大丈夫だ」と言った。その時のほっとした気持ちは今もよく覚えている。
その後は、視力が落ちることも、傷が残ることもなく、元通りの目になった。勉もそして自分も、運がよかった。あるいは、産土神が村の子どもの目を守ってくれたものなのか・・・。
「もし失明でもしていたら」と考えると今でもぞっとする。勉の人生は大きく変わり、自分も生涯彼に詫び続けることになったはずだ。
運の良い人もいれば、運の悪い人もいる。これはどうしようもない。
「剣も人生も紙一重。なるようになる」。
どうやら、幼い日の勉との剣の修行は、年月を経てこんな剣豪の境地にも似た地点に到達したようだ。
・・・今回はここまでです。また近いうちにお会いしましょう。