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昭和の子どもの生活 ーNo.6 戦争中の「ほら穴探検」

 年に1,2度、学校が早く終わることがあった。先生たちの都合だという話だったが、どこかに集まって研究会か何かをしたのであろう。
 そんなある日、学校から早々と解放された元気いっぱいの我々は、なぜか気が向いて、めったに通らない山の下の道を通って帰ることにした。遠回りになるのでふだんは全く通らない田んぼのあぜ道である。時間はたっぷりあるので、時々山に入っていって何かをしたりしながら、わいわい帰っていった。
 そして、そんなことをしているうちに、誰かがそれまでは知らなかったほら穴を偶然見つけ出した。行ってみると、腰を少し曲げれば何とか入れるぐらいの大きさであった。
 中は崩れかけてはいたが入れないことはない。それを見た『つとむ』だったか『たかじ』だったかが、無謀というか勇気があるというか、ためらうことなく中へ入っていった。崩れてくれば生き埋めになるが、入ってみたいという思いが勝り、残りの者もおっかなびっくり後に続いた。が、3,4メートルも行くと先は崩れた土で完全にふさがれていて、それ以上は進めない。「だめか」と残念に思ったが、やむなく引き返した。
 だが、それでやめてしまう我々ではない。「おもしろくなってきた」「ほかにないか」と、意気込んで山の中を探し歩き、草をかき分けたり枝をどけたりしていくと、次々と見つかってきた。それらの多くは入り口付近が土でふさがっていたが、ついに、かなり中まで入っていけそうな穴が姿を現した。
 「いいのがあった」と誰かが真っ先に入り、他も続いた。
 6,7メートルも進んでいくと、その先は半分土で埋まっていたが、腹ばいで進めば行けないことはない。だがこれは危険極まりないことで、崩れてくれば即座に生き埋めだ。それでも先頭の者は行きかけたが、この勇者もさすがに物怖(お)じし、バックで引き返してきた。
 そして、「もっと行きたかった」「しかたがない」、そんなことを思いながら皆ぞろぞろと穴を出た。外には元の青い空が広がっていた。
 書けばこれだけのことだが、こわごわもぐっていった者にとっては、命の危険をおかしてのスリル十分な探検であった。もっと先まで行きたかったという思いは残ったが、それでも「やった」という満足感を十分味わった。この日のクライマックスであった。
 ーー我々は、その後も疲れを知らずに穴探しを続けたが、手頃なものはもう見つからなかった。ないものはない。残念ではあるが「ここまでだ」と、山からあぜ道へ次々と飛び降りた。・・・こうして生まれて初めてのほら穴探検は幕を閉じた。

 この探検は、命はほしいので二度とはやらなかった。その後の人生でもこのようなことをやることはなかった。たった一度だけの経験である。それだけに今でも記憶の中で異色を放って輝いている。

 さて、ここで当然出てくる疑問であるが、このいくつものほら穴は、一体誰が、いつ、何のために掘ったのであろうか。年月を経た今でもこれをふと考えることがあるのだが、結論は出ていない。「多分…だろう」としか言いようがない。
 まず思いつくのは、「縄文人あたりではないか」というものであるが、これははっきりと否定できる。詳しくは後日書く予定だが、山の上には縄文人が海から採って食べた貝殻が多数集まっている場所ーー貝塚を自分たちは見つけている。山の下に広がる田んぼはその頃は明らかに海であった。そのすぐ上にほら穴はつくれない。海水が入ってきてしまう。
 すると、残る可能性としては戦争中の防空壕ということになるであろう。
 ここからそう遠くないところには太平洋が広がっており、海岸近くの陸地には飛行場がつくられていた。だから、戦争も末期の頃になると、米軍の爆撃機に攻撃される恐れがあった。現に飛行場から数キロしか離れていない所には、米軍のパイロットがパラシュートで飛び降りてきている。日本の戦闘機に撃墜されたのである。
 話が飛んでしまうが、これにはさらに生々しい話が伝わっていて、「鬼畜米英」の思いを持つ住民たちは、何とそのパイロットを竹槍で突き殺してしまったという。戦争中とはいえ、むごいことをしたものである。日本人の怒りはわかるが、死んでいった米兵の恐怖と無念さはそれ以上にわかる。書いていて胸が痛くなる。
 そしてこの事件は、日本が戦争で負けた後にまで尾を引いた。
 日本を占領した米国の進駐軍は、実に細かく戦争中の情報を集めていたようで、この東京から遠く離れた場所で起こった事件も見逃してはいなかった。彼らは、はるばる鹿島までやってきて調べ上げ、自国の兵士を殺した者たちを連行していった。
 私が聞いている話はここまでで、連れていかれた人たちがその後どうなったかはわからない。家族がいたはずだが、その人たちについても何も聞いていない。
 戦後日本人が裁かれたものとしては「東京裁判」がよく知られているが、その陰で、このような民間人の逮捕・連行も行われていた。おそらく鹿島以外の地でも同様のことはあったであろう。書いておかないとこの種の「陰の東京裁判」は時間と共に消え去ってしまう。

 ・・・話を本題に戻すことにすると、以上の事柄から考えて、我々が探検した洞穴は多分戦争中に掘ったものなのであろう。「子どもが身をかがめなければ入れないほど小さいのはどうしてか」という疑問が残るが、理由は、崩れやすい土にあったようだ。崩れる恐れがあったので大きくは掘れなかったのだろう。
 その大きさでは「大人が入れないではないか」。当然そう思うが、それはまた別の所に掘ったのではないか。あの狭い穴は、学校に来ている小学生のためだったのだろう。それを学校の近くにいくつも掘っておいたのだと思う。

 さて、近い過去の歴史に触れたので、次にはもっと遠い過去ーー縄文時代に触れた経験を書くつもりでいたのだが、予定を変更することにしたい。というのも、世界では今も悲惨な戦争が起きているからである。
 私は、上に述べた鹿島での事件のほかにも、戦争中の出来事を母親や伯母から聞いており、それを優先させることにした。縄文人とは間接的な手の触れ合いをしたのだが、それについてはその後で書くこととする。

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