昭和の子どもの生活 7 渡辺健二 2024年9月7日 21:44 茨城県の鹿島町。現在は鹿嶋市になっているが、そこに私は生まれた。戦争が終わって5年経った昭和は25年(1950年)のことである。 その中の、低い山を切り開いてつくられた「鉢形」という地区が生活の舞台であった。。 ここは鹿島の中でも特に辺(へん)鄙(ぴ)な所で、バスは通っておらず、自動車が通ることもまずなかった。 ほとんどの家は農業をしており、米作りがその中心であった。 これから、そこを中心にした私の子ども時代の生活を書いていこうと思う。 子どもの生活に焦点を当ててそれを詳しく書いたものは、私の知る限り日本のどの時代にも存在しない。 生きていたのは大人だけではない。子どもも同じ時代を立派に生きていたのである。 記憶は薄れてきており、時と場所も限られてはしまうが、ここでは昭和の一時代の子どもの生活を、できる限り具体的に文字として残しておきたい。・・・・・[囲炉裏とマムシ/祖父と孫] 私が幼いころも家に電気は通っており、裸電球が天井からぶら下がっていた。ただ、まだ使えそうなランプを見た記憶も残っている。 ラジオもあった。NHKで放送していた「三つの歌」の、「三つの歌です君もぼくも、あなたも私もほがらかに・・・」の歌詞とメロディーは今でも遠くから聞こえてくる。 ストーブやこたつはなかったので、冬の夜は囲炉裏で暖をとった。祖父や祖母は、かごを背負って山から焚き木をとってきて小屋に蓄えていた。そこから持ってきて火をつけると、はじめは白い煙が出るが、やがて勢いよく燃えだした。 この火は非常にありがたいものであった。 囲炉裏の側に座って冷たい手をあぶり、小さな体を温めた。火が弱くなると床に置いてある枯れ枝を折って焼(く)べたりした。 祖父は毎日鉄瓶で湯を沸かした。この湯を急須に入れて大人たちは食後に茶を飲んだ。子どもたちもたまには飲むことがあった。 また、祖父はどこからかつかまえてきた鳥を、焼いて食べる時があった。ほとんどは雀だったと思う。私にも時々「けんじ、食うか」と言った。はじめは気味が悪かったが、腹が空いている時などは「うん」とうなずいて、少しだけ食べた。美味くもまずくもなかった。 ここまではまあいいのだが、祖父は蛇も焼いて食うことがあった。一度だけ「けんじ、食うか」と私にすすめたが、もちろん「気持ち悪い!」と強く断った。 だが、話はこれで終わらず、後日私は食いたくない蛇を食うことになってしまった。 その日、「けんじ、食うか」と祖父は言った。「蛇と違うね」と確かめた。「違う、鳥だ」。「それじゃ食う」。 私は、何の疑いもなく手に取って、むしゃむしゃと食べた。歯ごたえにも味にも、特にいつもと違うところはなかったように思う。 食べ終わったところで、祖父はびっくりすることを言った。 「それは蛇だ。マムシだ」 「えー、マムシ!?」 『うそをついてマムシを食わせたのか?』そう思ったが、それ以上は騒がなかった。祖父が怖いからというわけではなく、悪気があってやったわけではないということが何となくわかったからだ。 では、なぜそんなことをしたのか。それは長くわからなかった。いや、実を明かせば、この一節を書く前に「マムシを食べる」ということについて少し調べたのだが、その時にはじめて気がついた。 日本ではマムシを食べると体が強くなる、薬になると考えられてきており、祖父もそれを信じていたのだ。だから孫の私にそれを食べさせようとした。 なぜマムシを鳥と偽ってまでしてそうしようと思ったのか。 考えてみると、祖父は2人の子どもを病気で亡くしていた。そういう祖父にとって何よりも大切なことは、かわいい孫が死なないこと、丈夫に育つことであったのだ。 これに気がつかないで私は、「あの時はうそをついたなあ」と単純に思い続けて何十年も過ごしてしまった。なぜもっと深く考えてみようとしなかったのか。時間はいくらでもあったのだ。全くもって不肖の孫である。 ・・・それでも私はできるだけのことはした。遅くなってはしまったが、この文章を書く筆を措いて「気がついたよ」とそっと語りかけた。信心深かった祖父は、「今ごろわかったか」と天にて微笑んだかもしれない。[山の湧き水と魚・蛇] 近所の家には井戸があったが、私の家にはそれがなく山の湧き水を使っていた。家の裏にある山の斜面に竹を突き入れ、出てきた水を桶に溜めた。 そこから柄杓(ひしゃく)で汲んで水を飲み、調理にも用いた。桶からあふれた水は小さな池に溜め、洗濯や風呂の水など生活の全てに使った。 小学生になると、近くの小川で釣ったり捕まえたりした鮒やそれよりも小さな魚を、この池に生かしておいた。育つのが楽しみであり、元気に泳ぐ姿が澄んだ水の中によく見えた。時には山から下りてきた蛇も泳いでいた。 ふだんは澄んでいる水も雨が降ると濁る。魚も見えにくくなる。それでも父などが、その水をバケツで風呂へ何度も運んだ。雨が止んでいない時は合羽(かっぱ)を着て運んだ。時には気づかずに魚も一緒に運んだ。 こういう日に最初に風呂に入ると、一緒に運ばれてしまった魚が浮いていることがあった。死んでいる魚を見ながら湯につかるのは気持ちのよいものではないが、「かわいそうに」とそっと手ですくってやった。かわいがっていた魚なのだ。 この小さな悲劇が何度か生じた。 今でも、薄暗い風呂の中で浮いている魚が目に浮かぶことがある。時には、池をくねくねと泳ぐ蛇も見えてくる。 そして、これは後で気づいたのだが、蛇は池に遊びにきていたわけではなかった。魚を食べにきていたのだ。 小さな池で逃げ惑い、食べられていった魚たち。それを思うと、何十年の時を経ても心が痛む。[漫画本と竹馬の友] 楽しみの一つは漫画本であった。3つ違いの兄は月刊の漫画本を読んでいた。それを時々読んでもらったが、いつも読んでくれるわけではない。家にいないことも多い。 もちろん母親も本や漫画本を読んでくれたが、洗濯などで忙しい時は「後で」ということになる。 「字が読めるようになればいつでも好きな漫画が読める。覚えよう」。誰に言われたわけではないが、そう思った。「漫画を読みたい」という思いを満たすには、それしかなかった。 漫画ではないが、子ども向けの本「ドリトル先生」も非常におもしろかった。母親に何度か読んでもらっていて、けっこう頭に入っていた。 「これで覚えよう」。そう決めて、物語の初めの一文字から母親に読み方を教わっていった。おおよその話はわかっているし、途中で同じ文字が何度も出てくるので、無理なく覚えていった。そして、ほどなくひらがなが全部読めるようになった。ある程度のカタカナも覚えた。 こうして私は、漫画本がほぼ自由に読めるという楽しさを手に入れた。そこには読めないカタカナや漢字も多少あったはずだが、大体の意味はわかった。十分楽しめた。 だが、それ以上に楽しかったのは、何と言っても遊ぶことであり、雨が降っていない日は、道路や空き地、山などで、朝から晩まで遊んだ。自動車などというものはまず通らないので、交通事故の心配はなかった。 また、幼稚園や保育園というようなものもない。ピアノやそろばんなどの習い事をを教える所も、もちろんない。 そのような時代と地域であったから、学校へ入る前の自分たちが外でやることは、体を使って遊ぶこと、これだけであった。 特に近所の3,4人とはよく遊んだ。男も女もいた。いろいろなことをした。危ない遊びもした。親には言えない秘密のこともした。 我が竹馬の友たちと共に過ごしたこの数年間は、その後二度とは訪れなかった自由な時間であった。貴重な日々であった。心配事は何もない。ただやりたいことをやっていればよかった。 このように過ごせたのは、言うまでもなく世の中が平和になったからである。そのほんの10年ほど前は、日本は戦争をしていたのだ。小さな子どもだったので、そのようなことは全くわからなかったが、もちろん今はわかる。それ以上のこともわかる。―― 『平和ほど尊いものはない』 自分の幼い頃の生活がそれを教えてくれていたのであった。・・・今回はここまでです。また近いうちにお会いしましょう ダウンロード copy いいなと思ったら応援しよう! チップで応援する #昭和 #祖父 #囲炉裏 7