カルヴァンの町

 雪は勤勉だ。
 青年の父はよく語った。雪は勤勉だ、毎日欠かさずにどこの家の屋根にも同じだけ降り積もるのだから。
 青年は、だから、雪が嫌いだった。
 青年の住む町は肩をそびやかす青い山脈の陰になって、太陽をのぞむことができない。その代りを雪が務めている。雪はいつでも人々の上に注ぎ、暖かい祝福の代わりに冷たい口づけをいくつもいくつも送っていくのだった。
 人々は勤勉であった。夜という怠惰がなく、寸断ない雪の中でひたすら己の仕事に就いていた。たとえば髭の先まですっかり凍らせた釣り人やら。たとえば雪より冷たく青白くなった指の洗い女やら。ランタンの微かな灯が雪に振りまかれて、かれらをぬぅっと照らしだす。
 進まぬ筆をもてあます若い作家は、窓の外に冷たい死の結晶たちを見送っている。ランタンの頼りない光が彼の顔を辛うじて生者のそれに見せていた。
 せめて心をくすぐるぬくもりでもあれば。青年はついに筆を置き、冷たい壁にすがって青い山の向こうを思った。
 照り輝く日の色は何か。卵の中身のようだとも。ランタンの火とそう変わらないとも。
 暖かいのに火を焚くのだという。明るいのに灯をともすのだという。
 太陽に愛された人々は朝目覚めてから朝食が出来上がるまで、床で語らい過ごすのだ。夕方に家に帰り、夜は眠る。語らいは労働の友である。怠惰は優越である。退屈こそ不幸である。
 青年は粛々たる労働の合間に、太陽を夢に見た。許されぬ一瞬の睡眠は鮮やかな色を連れてきた。暖炉のそばに座って聞く昔話、老婦人が口を閉じるころには暖かな魚のパイが湯気を上げてオーブンから取り出されてくるのだ。すべて見もせぬ、夢想であった。
 その光景はこんなにも鮮明に浮かんでくるのに、筆は一向に進まない。よい夢ほど忘れるように彼はその温もりを知らないのだった。
「わたしはこれを書上げなくてはならない」
 青年はそのように己を励ました。
 書き上げることに意味はない。労働は不断であり、永遠であり、達成はないからだ。青年の父は大工であったが彼は鋸を膝に置き、引きもせず眺めていた。それはつまり労働という一個の存在意義である。薄暗い生命をしたためるために、青年はしきりに筆を握りなおす。
 窓からは人々が見えた。外は暗い。暗い中に白くわだかまるのが我が人々であった。労働を絶やさぬ勤勉な人々。彼らはみな雪に愛され、いつとも知れず連れ去られていった。窓の中には青年が一人。筆もて語る、その職務のためにのぞき窓とランタンを与えられた青年が一人。
 知らず知らずに頬を涙が転げ落ちた。青年はその熱さに驚き、次に頬の冷たさにぞっとした。雪は優しく人から生を奪う。胸郭に降り積もり、その心臓を凍らせて、やがて死の幻想へ魂を連れて上昇していく。
 折しもランタンの灯がか細く揺らいだ。青年は恐怖した。胸をたたいて涙を流し続け、涙の熱が凍りかけた心臓をすっかり溶かしてしまうまで、ずっと膝を抱えて泣いていた。生の重さがその身に戻っても、子供のようにうずくまっていた。
「おとうさんさむいよ」
 彼の父は戸口の脇で、鋸と共に雪像となっている。
 雪はふりつもり、降りこめられた魂がほのかに青く天へのぼる。凍てつく稜線はるかなる、ここは罪の町である。ソドムとゴモラに続く第三の、罪深き町である。勤勉なる人々の町であった。
 カルヴァンの町に雪は降り積もり、小さな窓の小さな灯がまた一つ、いま消えた。
 

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