見出し画像

小説『アテネ・ガーディアン』7 狙われたアテナ (1)

 少し拗ねたように、頬を膨らます舞。ドレスを着て、薄い化粧をしていながらも、彼女はやはり十四歳の少女だった。バック・ミラーの中で、つまらなそうな横顔をしている。
 除け者にされたのが不満なのか。やはり子供だなと、レンは納得した。
 スニオン岬からアテネ市内までは、海岸沿いのアポロコーストを抜けて、約二時間。
 行きはアンジェラの運転するリムジンだったが、帰りはなぜか頑丈なランドクルーザーに変わった。それも、レン自身が運転している。
 アンジェラは、資金不足でアテネにはリムジンが一台しかないと言った。出発前に、レンは狩野から車の説明を受けた。FISの特殊車両という仕立てになっていた。
 緊急信号用の発信機がアクセルの奥に、窓は強化ガラス。その程度のものですがと、狩野は苦笑ぎみに言い添えた。
 季節は十月の半ばを過ぎていた。夜ともなれば、気温は下がる。舞は肩に柔らかいショールを巻き付け、海を眺めている。月の無い晩である。彼方の島影に、街明かりが点々と灯るのみ。ゆらゆらと浮かぶ、ヨットかクルーザーの白い明かりも、海に浮かぶ星明かりのように映る。
「……海が、見たい……」
 平坦に呟いた声に、感情は無かった。黙って、レンは路肩に車を止めた。瞬きをしてから、舞はレンを見返し車が停車したことに気付いたようだった。
「少しだけです。俺は、夜の海は嫌いじゃないので」
 先に車を降り、レンは後部ドアを開けた。レンの手を借りた舞は、慎重に降り立った。ヒールのある靴に慣れていなかった。その上、道を外れると、草むらに転がる大小の石くれに足をとられるはめになる。
 レンは腕を支え、慎重に海へと近付いた。細い肩に自分の上着を掛けてやる。
「何も見えませんね」
「音だけね。波の音だけ。広くて、深い海だわ……」
 同じだと、レンは感じた。遺跡の中で目を閉じた時と、同じくらい彼女は心を浸している。今は、地中海に心を沈め、受け止めて。舞の瞑想が破綻するのを承知で、レンは彼女の腕を引いた。
「戻りましょう。早く」
 追い立てるようにして車に戻る。レンは後部座席ではなく、助手席のドアを開けた。
「こっちでいいんですか?」
「ええ。……この方が仕事がしやすいので」
 舞は勘のいい子供だった。素早く助手席に乗り込み、頬を引き締めた。

 ◇◇◇

 パーティーの喧騒は届かなかった。
 広い別荘の奥部屋。紅いビロード張りのビリヤード・ホール中央に、丸テーブルと三つの椅子が並べられた。テーブルについたのは、別荘の主人レオドス、従兄弟の政府高官エメダイン。
 もう一つの椅子は、先の二人に比べれば、孫のような若さの青年。雪村紫月が付いた。
 背後に二人の部下が従い、紫月はリラックスした表情で、老獪な二人を見比べた。
「始めてくれ。シヅキ・ユキムラ。リストネルから、君のビジネスの希望は聞かされている。単刀直入に聞こう。立会い人として、このエメダインも同席する」
「君もこの国での慣例を知っているだろう? わが国では、血の繋がりは何よりも優先される。喜びも悲しみも我々は一身に受ける」
「承知しています。リスクもリターンも、血縁者同志分け合うということですね」
 ギリシャ経済界の実力者でもある彼等へ、臆することなく告げる紫月に、二人は不快げに鼻を鳴らした。
「私も、率直なやりとりは好んでいます」
 紫月は、老人たちを安心させるように微笑んだ。すぐに、堅牢な老人たちの威厳に敬意を表し、頬を引き締めた。
「私や、私のFISは若年ですが、自負しています。いずれ世界最高のセキュリティ機関となれると確信しています。
 いえ。現在でも。我々は、最高水準のガード・システムを確立しているのです」
 背筋を伸ばし、紫月は真摯な瞳で二人を交互に見た。
「ぜひ我々に、託して下さい。
 あなたのグランド・エルターニュを」
 レオドスは、頭を振った。
「君の力を借りねばならない理由はないね。
 私のグランド・エルターニュは、アテネ一のサービス、セキュリティで各国要人、国内要人をもてなしている。
 何の心配も無い。話しはこれで終わりだな」
「残念ですが、あなたのホテルは欠陥だらけです。無論、私が言及できるのは、セキュリティに関してのみですが」
 老人たちは顔色を変えた。即座に言い返そうとするレオドスを、エメダインが押し止めた。
「この数日、宿泊してよくわかりました。
 私が、1フロアを借り切ったのは、ご存知ですね。日本人の小僧がふざけた真似をして、さぞお腹立ちだったことでしょう。この場を借りて、お詫び致します」
 頭を下げる紫月に、エメダインは尊大に尋ねた。
「訳があったんだろう? 酔狂にしては金が掛かりすぎたはずだ」
「試させてもらいました。
 その上で、アテネ一のホテルは、非常に危険だと判断しました」
 老人たちは、顎を引いて顔を見合わせた。
「……我々の情報網では、すでに実害が出ていると聞いています。
 ですので、リストネル氏を通し、こんな形での話し合いを急いだ次第です」
 顔を見合わせる二人が、一瞬、頬を引きつらせた。レオドスは観念したように、一度うなずいた。
「君の情報収集能力は評価しよう。
 その通りだ。我々は一度、失態を犯したよ。緘口令を敷いたつもりなのだがね」
「悪い噂は、簡単に広まるものです。
 だから、一度としてよくない前例を出してはならない。どの業界にも当てはまる鉄則です」
「レオドス。折角の機会だ。FISのセールス・ポイントを聞くだけでも聞いてやろう」
 紫月は、一歩前進だとテーブルの上で両手を組み直した。これからが本当の勝負だ。
 カードはいくつでも用意してある。彼等を納得させるためのカード。紫月と紫月のFISを必要とさせるカードなら。完璧に。
 その時。静寂を破り、メイヤーの持つブリーフ・ケースが高い電子音を立て始めた。

 ◇◇◇

 ためらわず、レンは緊急発信装置を右足で蹴り付けた。非常事態。小さな赤い点滅を確認して、前方に向いた。
「見城さん……!」
「心配無い。身体を低くして下さい」
 レンはアクセルを踏み込んだ。追っ手は三台のセダン。囲まれ、路上から追い落とすつもりらしく、二台が車体をぶつけてくる。頑丈なランドクルーザーの車体には影響は無い。車道を降りても、荒地は振動が激しいが走行は出来る。
 焦れた敵は、銃で威嚇射撃を始めた。それも効果が無いと悟ると、車体を狙い始める。
 ガクンと、ランド・クルーザーのスピードが減速した。
「! お嬢さん、しっかりと俺に掴まれ……!」
 細い腕が、レンの胸にからみついた。
 薄い生地越しに、舞の跳ね上がる脈拍が伝わる。かき消すように、銃弾が車体に撃ち込まれた。今度は至近距離。駆動部に受けたらしい。エンジンが不機嫌な咳き込みを始めた。
 レンは片手で、タキシードのポケットに突っ込んである弾丸のカートリッジを確かめる。敵は何人だ? アテネからどのくらいで、支部の連中は駆けつける?
 ……急げよ!? 俺が今度はお前たちを試してやるぜ。
 エンジンが鈍く小さな爆発を起した。
「車を捨てます。お嬢さん?」
「私は大丈夫。怖くありません」
 少女は、邪魔になるショールを首に結び、ドレスの裾をしっかりと膝に抱えた。
 レンは急ブレーキをかけた。車が、荒地の上で激しく左右に振れる。ハンドルを一杯に左に切り、スピンさせる。追いかける車は、巻き込まれないように遅れた。
 遠心力に振り回され、大きく弧を描く車が停車する前に、舞を抱え飛び降りた。暗闇の草地に伏せる。無軌道に疾走する車をやり過ごす。少女のドレスが、夜の中で白く浮かぶ。レンは自分の上着を着せ掛けた。
「ここは。アテネからどれくらいの場所ですか……?」
 震える唇で尋ねたのは、レンが耳を疑うほど冷静な質問だった。
「まだ半分も戻っていないでしょう」
 それだけ、援軍が来るまでには時間がかかるということだ。
「心配ありません。俺がなんとか……」
 闇雲な銃撃が始まる。敵は多勢。数に任せた攻撃方法は、訓練を受けた者たちではないとレンに教えてくれる。それは好材料だ。このまま闇に紛れ奴等をやり過ごせたなら。
 その時。停車したランドクルーザーが火を噴いた。爆音と共にボンネットを吹き飛ばし、燃え上がる。周囲を煌々と照らし出し、レンと舞の影を長く映した。


「どうした?」
 慌ててブリーフ・ケースを開けたメイヤーに、振り返らず紫月は尋ねた。
「あ……、いえ……」
「舞に渡した試作品か?」
 ブリーフ・ケースの電子音は、蓋を開けたせいで、さらに大きな音で鳴り続けている。青ざめ眼鏡を何度も押し上げるメイヤーに、狩野が向き直った。
「ご説明しろ。何があった?」
「そういえば、何の試作品か、僕も聞いていなかったな。どうした? 何が起きている?」
 紫月はメイヤーを振り返った。
 ますます、メイヤーは震え上がった。
 呼応する電子音は、その間隔を狭めていた。
「私も聞きたいな。君は、技術部門の天才だそうじゃないか?」
 エメダインが提案した。レオドスも遅れて同意を示した。
「早くご説明を。……ボスに恥をかかせるな」
 狩野の囁きに、メイヤーは観念した。
 歩み寄り自分のブリーフ・ケースをテーブルに乗せた。中のパソコンの画面に、三本の軌跡でバイオリズム波形が描かれている。その背景は緊急を示すかのようにオールレッド。
「ボス。大至急、機動部に連絡をして下さい。
 レディ・舞が危険な状態にあります。
 ……この波形は、レディの脈拍血圧体温の上昇を記録したものです。イヤリングで計測し、ネックレスに仕込んだ発信機でここへ。ですから……!」
 メイヤーは振り絞るように声を上げた。
 その場が、一瞬で凍り付く。
「誤報ではないのか? 似たような状態に陥ることは……」
「……いいえ! その判別分類をする為に、これまで研究・試作を重ねてきたんです。間違いはありません」
「狩野」
 素早く、紫月の声を受け狩屋が動いた。自分のブリーフ・ケースをテーブルに大きく広げる。パソコンを開きながら、携帯電話をプッシュ。
「狩野だ。機動部の出動を。緊急だ。メイヤー、レディの位置データを転送しろ」
 振るえかける指先で、メイヤーが支部のコンピューターとのリンクを完了させる。
「急いで下さい。心拍数が跳ね上がっています」
「……遠いな。ここからの方が近いくらいだ。
 急げ。8分? 5分以内で到着しろ!」
 語気を強めた狩野に、エメダインとレオドスは肩をびくりとさせた。
「お騒がせして申し訳ありません。話しを続けましょう」
 狩野とメイヤーは、信じ難いものを見る目で、揃って紫月を見た。顔色一つ変えないボスを確かめ、我に返った二人は、すぐに自分のブリーフ・ケースを隣のビリヤード台に移動させようとした。
「待ちなさい。ここで構わん」
「君達の手並みを見せてもらおう。
 無論。君が現場に掛け付けたいのなら、今夜の話し合いはこれで終了してもいい」
「ご心配なく。続けます。
 今日のようなチャンスを、私のような若輩が何度も得られると自惚れてはいません」
「本当に構わんのか? 君の妹だぞ」
 紫月の部下ですら、ボスを凝視している。レオドスは代弁のつもりで声を大きくした。
「私には最高のスタッフがおります。アテネ支部の有能さが、すぐにでもお二人の耳に届くでしょう」
「君は、自分の肉親の危機もビジネスに利用するのかね?」
 残酷な質問にも、紫月は冷静に答えた。
「いいえ。事実を述べただけです」
「絶対に無事であると?」
「私がそうたるべきと、彼等を教育させたのです。彼等の能力は、私自身の手足と同じものです。
 私の信頼がある限り、彼等は最高の結果を出します」
「なるほど。FISのガードたちは、君そのものか」
「はい」
「肉親として、心配ではないのかね?」
 レオドスは、困惑で眉間の皺を深くしながら、頭を振って尋ねた。
「誤解の無いように、一つお断りしなければなりません」
 心配顔の二人に、紫月は口調を柔らかくした。
「私の意志は彼等と同一ではありますが、能力は別です。
 ペンとファイルしか持つことの無い私と違って、彼等は真実の力を持っています。
 非力な私の身体が駆けつけることには、何の意味もありません」
 老人たちは沈黙した。血の絆の強い彼等ギリシャ人には理解し難い発想なのだろう。
「人には、それぞれ存在すべき場所があります。
 今私が必要とされている場所は、このテーブルであると、誰もが思っていることでしょう。無論。私の妹も」
 沈黙していたレオドスが、重い口を開いた。
「君はどうあれ、私は落ち着かない……。
 彼女は心の真っ直ぐな良い娘だ。あの子が、命の危険に晒されているのかと思うと。とても、落ち着いてなどいられんよ……」
「では、しばらく時間を置きましょう。
 ビジネスに感情を持ち込んでいただくのは、お互いのためにも、あまり良いことではありません」
 助け船を出したのは紫月の方だった。
 席を立ち上がり、壁際のミニ・バーで、シェリー酒を二つグラスに注いで戻ってきた。
 レオドスとエメダインの前に置く。
 狩野が携帯電話に耳を当てた。
「……わかった。
 ボス。レディの乗った車からSOS発信があったそうですが、先ほど途絶えました」
「メイヤー? 舞は生きているんだろうな?」
 老人たちの鋭い視線を同時に浴びて、メイヤーは縮み上がった。
「はいっ。脈拍の停止は見られません」
「狩野。機動部の現場到着まであと何分だ?」
「予定では、あと5分……」
 苦渋ある返答に、紫月はそれ以上かかるのだと聞き取った。
「お二人とも、心臓に疾患はありませんか?」
 紫月が尋ねた。
「いや。差し当たり……」
「……あまり、心臓にはよくないな……」
 だが二人とも、席を立つ素振りは無かった。
「ご心配なく。舞には腕のいいボディ・ガードがついています。
 彼が、命を捨てて守ってくれるでしょう」

※ 7 狙われたアテナ (2) に続きます。

いいなと思ったら応援しよう!

サトコ
ここまで、お読み頂き有難うございました。感謝致します。心の支えになります。亀以下の歩みですが、進みます。皆様に幸いが有りますように。