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ねずみのゆび
ねずみだ、と認識するまでに少し時間がかかったのは、ゆびに目がいってしまったからだと思う。すんなりと細長くしなやかな肌色のゆびに。
古いビルの1階に入っている喫茶店。入り口ドアの両側には実のなる木や季節の花を鉢に植えて並べてある。扉の右側にあるかねのなる木の鉢のふちに、そのねずみは右前脚をかけて上に伸び上がるように頭を上げていた。じぶんのまわりを確認するようにふんふんと鼻先を動かしている。ひとしきりそうした後、鼻先だけではなく頭もふりながらふんふんとやりはじめた。離れたところから漂ってくる匂いをかたっぱしから捕まえてはひとつひとつ念入りに調べているように見える。
ふんふんやりながら鉢と鉢の隙間へ一歩、二歩と入り込む。手を伸ばせば触れられそうなところで絶えず鼻先を動かしている。目がくぼんでいるように見えるのだが盲目のねずみもいるのだろうか。それともねずみの目とはこのように小さくくぼんだように見えるものなのか。そもそもこんなにも人間を気にしないで大丈夫か?それとも私は人間の気配が薄めなのか。
ねずみの佇まいや挙動から目が離せない。植物に水をやったら逃げてしまうかもしれない。仕事などしている場合いではない。
齧歯目というのは前足を手のように使えるのではなかったか。リスやハムスターが種を持つ仕草を思い浮かべていると、ねずみがゆるりと向きを変え今来た隙間を引き返しはじめた。大きな尻から伸びた太い尻尾をひるがえしてビルとビルの間に消えた。
「野生のねずみって、あんなに繊細な指をしているものなんだね」
シフトが一緒の林田さんに今見たことを話すと、眉間にくっとシワを寄せた。
「ねずみ、増えているんだって。ほんとかどうかわからないけど、野良猫やカラスが減っているからだとか誰かからきいたな」
店に入ってこないようにしなくちゃ。といってどこかへ行ってしまった。
ほどなくして林田さんは手に何かの缶を持ってきてそのまま店の外へ出た。
後について出てみると林田さんが缶の蓋を開けると同時に不思議な刺激臭が広がった。
「これ、ねずみが嫌いな匂いなんだって」
なるほど、喫茶店の店員としては、ねずみのゆびをじっくり見ている場合いではなかったのか。
林田さんは缶をビルとビルの間に押し込むと、店長に話してくるね、と言って店の中に入っていった。
もうあのねずみには会えなくなるのか。あんなに夢中で匂いを嗅いでいたのだ。もうとっくにこの刺激臭の存在を知ってさっそく嫌な気持ちになっていることだろう。
かねのなる木の鉢のあたりをしばらく眺めてから、扉の左側にあるブルーベリーに目を移すとそろっと鉢を登ってくる茶褐色のものが見えた。今朝出会ったねずみよりもこぶりで、くっきりとした黒い目をしている。と見ている間にとん、と音を立て細くて長いしっぽをひるがえして消えてしまった。ほんの一瞬だけ見えたゆびはすんなりとほそ長くて肌色だった。