「兵庫県」は日本の守りの「要」なのです。
兵庫県の範囲は近隣の府県に比べて、不思議な形をしていると思いませんか?
日本海側と瀬戸内側の両方を有している上に、淡路島まで所轄しています。
海域まで含めるとかなり広く感じます。
淡路島などは、面積の狭い大阪府にしてしまっても良かったのでは?
と思ってしまいます。
これは明治政府が、西からの攻撃を非常に恐れた結果なのです。
西南戦争や佐賀の乱、萩の乱があったことからも判るように、西から反乱軍が攻めてくると考えていたのです。
現在の言い方をすれば一番の仮想敵国は、旧佐賀藩である佐賀県です。
佐賀藩は陶磁器による外貨獲得により経済的な繁栄を保ち、長崎の出島を管理していたのも佐賀藩だったのです。
つまり外国とのつながりが大きく、海外からの最新技術を多く擁していたのです。
実際に明治維新の経費は佐賀が拠出していたのです。
このため明治に佐賀藩から佐賀県に成りはしたものの、焼き物で有名な伊万里につながる伊万里湾内の島々は長崎県の所轄となり、伊万里から外海に出る船は、常に長崎県側から監視されているという形になっているのです。
唐津や玄海があるというものの、主要産品の出る伊万里からの船は自由に外海に出られなくされているのです。
佐賀の乱のときには「近代日本司法制度の父」と呼ばれる江藤新平を、逮捕して後、死刑判決の出せない地方で即座に死刑判決を下し、あっという間に斬首、梟首という獄門扱いにしてしまいます。
もし江藤が存命であれば、どれ程日本の法体系が良くなっていたのか図り知れません。
しかし、それほど明治政府は佐賀を恐れていたのです。
このような経緯があるために、兵庫県は山陰・山陽、瀬戸内海を通ってくる反乱軍を一元的に防ぐことができるように今の形になっているのです。
しかも初代の県知事は伊藤博文。
現在も引き継がれているかは確認していませんが、明治時代の都道府県のリストでは県の第一位にくるのが、京都・大阪の守りを担うという意味で兵庫県なのです。
徳川家康も西からの敵に対する備えとして、数々の城を廃止させていたにも関わらず、姫路城は増築させて、あのような大天守が残っているのです。
当時であれば、攻めて来たとしても、あの姫路城に驚かないものはいないと思われます。
いろいろの事由は言われていますが、明治政府も廃城令を出しても姫路城は残したのです。
この一帯は歴史上、京都・大阪の守りとして認識されてきたのです。
兵庫(つわものぐら)の由来も、大化の改新後に兵器庫が置かれたことによると言います。
瀬戸内を東進してくる水軍に備えたものだったと想像できます。
「兵庫県」は日本の守りの「要」なのです。
兵庫県民の皆さん、日本をどうすれば守っていけるのか?
皆さんの行動に、日本中の目が向けられてことを考えていただきたいと思いいます。
今後の日本は、その結果に追従していくことになると思っています。
今回が政治やマスコミに対する評価を見直す最大のチャンスなのです。
それにしても、昔から気になっているのですが、
大阪湾と淡路島東部の海岸線が作る、きれいな楕円はどうしてできたのでしょうか?もしかしたら隕石の落下が原因?
地形形成に関する説をご存じの方がいらっしゃれば、教えていただけないでしょうか?
判ったような、判らないような文章だったかも知れません。
お読みいただき、ありがとうございました。