「ひ・よみ」補1…「石(一四)ものいうぞ」
○「石(一四)ものいうぞ」
「石物いふ時来るぞ、…」(天つ巻 第二十七帖)
「…石物言ふ時ぞ。…」(地つ巻 第十五帖)
「…石もの云ふ時来たぞ、…」(日の出の巻 第一帖)
「…金もの云ふ時から、物もの云ふ時来るぞ。誠もの云う時来るぞ。石もの云ふ時来るぞ。」(松の巻 第五帖)
「…地にむかへ、草にむかへ、生物にむかへ、木にむかへ、石もの云ふぞ。草もの云ふぞ。」(松の巻 第二十八帖 )
「…石物云ふ時来たぞ。…」(夜明けの巻 第五帖)
「…手握りてやれよ。石もの云ふぞ、…」(雨の巻 第十七帖)
「イシもの言ふぞと申してありたが、イセにはモノ言ふイシがあると昔から知らしてあろうがな、五の一四(イシ)がもの言ふのであるぞ、ひらけば五十となり、五百となり、五千となる。握れば元の五となる、五本の指のように一と四であるぞ、…」(五十黙示録 扶桑の巻 第一帖)
これだけ「石もの言うぞ」、というのが出てくるのですが、
どうやら「おおもと」にはないようです。
これらに目を通していると、
四国遍路の元祖とされる衛門三郎伝説ゆかりの寺、
石手寺が思い出されます。
石(一四)とは手。
指が一(親指)と四(他)本、のことと思われます。
「石もの言うぞ」ということは、
「手指もの言うぞ」と言い換えることができます。
これは、手指を使ってサニワができる、ということです。
私は八年ほど前から病気の関係で、まったく別方面から、
この方法にたどり着いていました。
この方法に気づくことがなければ、
私は生きることを諦めていた、と思います。
きっかけは、他人から知ったものでした。
あとで分かったことは、それは、
現在インチキとされているものの変形だったようです。
営利目的のものは信用できません。
「確かに何かあるな。」
検査者と被験者を分けて考えるものは、
両人の信頼関係が余程しっかりしていなければ、
正確な結果は出ません。
「これを一人でやる方法はないのだろうか?」
当時、原因がなかなか分からず、
ほぼ毎日、夕食後、夜中過ぎになると、
背中の右肋骨下あたりに激痛が起こり、
朝方まで転げまわっていました。
本当に夕食を食べるのが、恐くなっていました。
しばらく試行錯誤の日々でしたが、
やっと確実な方法を一つ発見しました。
その時の原因は醤油でした。
とんでもなく劣化していた醤油を使っていたのです。
餃子を食べるのに、私は醤油、家族はポン酢しょうゆ。
誰も気付きませんでした。
家族皆で同じものを食べる、
というのも必要なことだと思いました。
この方法は、手指を使って、
自分にとって良いものと悪いものを、判断する方法です。
指、一本ずつにも、すべて異なった意味がありました。
初期には、軽微な症状はまだ見逃すことが多かったのですが、
激烈な症状からは、かなり解放されました。
誰も気付いていないようなのですが、誰にでも、できる方法です。
元々、人間が持っていた感覚が、忘れ去られていたものと思われます。
どうして、そのように言えるかというと、
人類の大移動時に必要な感覚だったと考えられるからです。
人類はアフリカで発生して、全世界に広がったとされています。
一般に、動物は食べ物がある程度決まっているので、
食べ物となるものが存在する、気候帯・植生帯に依存しています。
このため、動物の移動は、気候変動など、
依存している気候帯・植生帯が移動した場合に、
付き従って移動していきます。
ところが、人類はこの気候帯・植生帯を突き抜けた大移動をしています。
そのために移動してきた人々は、
その都度まったく違うものを食べ物として見い出し、
確保しなければならなくなります。
このときに食毒判断ができなければ、
中毒や餓死など全滅の危機に陥ることでしょう。
移動集団も、多人数では満足な食糧確保は難しいでしょうし、
少人数では、情報収集能力が劣り、
事故や病気などでの被害がすぐに集団全体に及んで、
生き残りが難しくなります。
せいぜい十数人程度の移動集団だったのではないかと想定されます。
そのうち数人がこの感覚を研ぎ澄ましていればよかったのです。
それが、安住の地を見つけて食料の品目も固定され、
この感覚は忘れ去られていったものと思われます。
私の場合は、前例がないために、暗中模索の状態でしたが、
私の経験を整理して、紹介しようと思います。
十本指、十通りの組み合わせ、
もしかしたら「十種の神宝」とはこのことなのか、とも思っています。
ここから先の具体的な方法については、
「石ものいうぞ」(14says)として説明する予定です。
それで少しずつ、何をやっているのか理解していただけるよう、
「つぶやき」を投稿することにしたのです。
140字制限で、ギリギリ詰め込んでいます。
かえってわかりにくくなっていませんでしょうか?
「テキスト」投稿は、時間の余裕もあるので、太字にしてあります。
でないと、自分がよく見えない、ということもあります。
「つぶやき」投稿は、すぐ書かないと忘れてしまうので、
標準文字で、画像はあればつけて、なければ後から追加しています。
具体的に何と何を区別できるかということを…。
なんで、こんなことわかるの?
という疑問を持っていただけたら、と思います。
「わかるんです。一瞬で。」
ひとつひとつ購入して、家に持ち帰って調べていたら、
お金がいくらあっても足りません。
店頭の棚の前で、包装の上から、
食べられるかどうか、分かるのです。
そのまま言うと、世を惑わす大嘘つきとか詐欺師とか、
言われてしまうのかな、と心配しています。
金品は一切いただくつもりはありません。
「…金儲けさせんぞ、欲すてて下されよ。」(下つ巻 第一帖)
と、はっきり明記されています。
「○○法違反」とか言われてしまうのかな。
どうなんでしょう?
ここがまだ、考えのまとまらないところです。
どの程度、ぼかす必要があるのか。
近々、麻賀多神社へ行って、
稚産霊命様と大杉さんに、
相談して来ようと思います。