オッサンに威嚇され恐怖をおぼえた話
出来事
今朝のこと。
私は毎朝、7時5分に長男・次男と三人で車で保育園へ行き、
次男を預けて、
一旦長男と帰宅し、
7:40に長男が家を出る準備を始め、
7:45に通学班で集合し、
私は8:10の始業に間に合うように車で向かう。
なかなかヘビーな朝。
長男と帰宅してから出る準備まで毎朝だいたい10分前後。
この10分で、
洗濯物を畳んだり、片づけをしたり、
余裕がある時は読書をしたり。
なかなか貴重な時間である。1分でも多いとありがたい。
何時に仕事から帰って来れるかわからないし、
帰ってくるとヘトヘトで、何もできなくなることもあるから。
その出来事は次男を保育園に送った帰りに起きた。
保育園と家の経路に、遊歩道を挟んだ横断歩道がある。
その横断歩道の少し先が交差点になっていて、
この信号が赤になっていて信号待ちの車が多い状態だと、
気をつけないと遊歩道の横断歩道の上に停車してしまうこともある。
それを今日、やらかした。
横断歩道より前に、もう少し前の車とのスペースがあると思って詰めたら、
(今思えば意味がないのに、家での時間を確保したくて焦りが生じて少しでも前に出ようとしたのだと思う)
意外と距離がなく、車が横断歩道の上に停車してしまった。
そんなタイミングで、遊歩道からオッサンがやってきた。
ウォーキングだか、ランニングだか。
そんな格好をしていた。
「うわー、やってしまった。申し訳ない」
と思いつつ、
こういうパターンの時は車を回避して渡る歩行者が多いし、そうなるだろうと思っていたら、
オッサンが車に近づいてきて、運転席の真横部分の車体を叩いてきた!
そして、なんか暴言を吐かれた。
怖くて、どんな言葉か覚えていないけれど。
幸い後ろの車が車間距離を空けてくれていたので、
車を後ろに下げることができて、
オッサンはそこを横断していった。
車を叩かれ、暴言を吐かれたことが凄まじくこわかった。
久しぶりに、「恐怖」を感じ、
ぞっとして、心拍数が激しく上がった。
考えたこと
たしかに落ち度はこちらにあるけれども、
その敵意をむき出しにすることは勘弁してほしい。
私一人で乗っている車ではないし、
後ろに長男乗っていたし。
幸い長男は飄々としていて、我関せず、だった。
これが繊細な次男が乗っていたらと思うと…恐ろしい。
トラウマを植えつけてしまっていたかもしれない。
これで私がイカつい風体の男だったら、こんな威嚇されていなかったのかも
なんて思いが頭に巡って、悔しかった。
いや、女性でも童顔じゃなかったら?
小さくなかったら?
(座高でも小ささは伝わるかもしれない)
そうやって見た目で判断されて威嚇されたのか、
きっとこういうのは人を選んでやるんだろうな、と思ったら悔しかった。
実際、「自分は小さいし幼く見えるから、見くびられてこんな目に遭うんだろうな」と思わずにはいられないことはたまにある。
これが自分で生み出したコンプレックスなのかもしれないけど。
そして、
自分の家族がこんなことをやっていたら絶対に嫌だ。
父より年上の人だったけど、
父が生涯において誰かにこんなことをしたら絶対に嫌だ。
それと同時に、オッサンにも思いを馳せた。
いわゆる認知症とか何かなのかもしれない。
オッサンにもオッサンの事情があって、
何かしらの「八つ当たり」なのかもしれないし。
「価値観の衝突」ではなく、「個人への攻撃」
最近、
「人と対立するときは、互いの『価値観』がぶつかっているだけで、その人そのものが攻撃されているわけではない」
と考えて、
意見の食い違いとか、衝突とか、対立へのマイナスな感情が払拭されて、
人との間に透明シールドが一枚できたような気がして、
気持ちが楽になっていた。
でも今日の経験は、違った。
あれは、明らかに私に対する敵意だ。
私の性別や、見た目、雰囲気を見て、
彼は「怒り」という感情と「威嚇」という行動を選択したのだと思う。
つまり、「その人そのもの」が「選ばれて」攻撃の対象となることがあるという事実を知った。
そして、こんなに敵意をむき出しにされることは、
自分にとって滅多にない。
「生きるか・死ぬか」という感覚。
心臓のバクバク。
脳の扁桃体がフル活動するような感覚。
「恐怖」ってこういうものなんだとを味わった。
狩猟採集時代じゃあるまいし、
人間同士の日々の生活の中でこのような経験をすることは極力避けたい。
正直、あの遊歩道と横断歩道と交差点のエリアを通る時にフラッシュバックレベルでトラウマになりそう。
今日の帰りも、暗くなって雰囲気はだいぶ変わっていたものの、
同じエリアを通ったらちょっとこわい感覚があった。
保育園への送迎も、あと半年。
保育園の卒園は名残惜しいけれど、早く次男が小学生になってほしいな、という思いが強まった。
(ただでさえ朝早く次男を保育園に送ること、帰りも保育園と学童をはしごしなければいけないことがしんどい2歳差)
言語化は自分を救う
ただ、衝撃を受けた反面、
数分後には
「敵意をむき出しにされた恐怖ってこんな感じなんだ」
「相手の価値観とぶつかっているだけでなく、相手そのものを攻撃するパターンってあるんだ」
と自分の中で学んだことの言語化がサッと行われ、
その瞬間の恐怖や負の感情をずっと引きずらずには済んだ。(フラッシュバック的なトラウマになりそうなのは別として)
これは、日頃から思考の言語化(ジャーナリング)に取り組んでいたことが功を奏していて、
自分のマイナス時間から抜け出す時間が早かった。
自己理解と、言語化に救われた気がする。
すごく恐かったし、嫌だったし、選べるとしたらもちろんしたくない経験だったし、
「この経験をしてよかった」とは後にも先にも決して思わないけれど、
やはりマイナスな出来事や感情が与えてくれる気づきやメッセージって大きいのだと実感した。
また、
「なぜオッサンはあんなことをしたのだろう?」という相手の立場に思いを馳せることができるようになったのも、今までの自分と変わったと思うところだ。
自己理解が進んだからこその、他者を理解しようとする考え方なのかもしれない。
今までの自分だったら、
いつまでも引きずって「今日は最悪な日だ」なんて決めつけて、
その後も自分でダメな一日を引き起こしていたかもしれないし、
オッサンに対する攻撃的な感情をいつまでも抱えてモヤモヤしていたかもしれない。
オッサンに対する恨みはないけれど、
「こわいので、その方法は勘弁してもらえませんか」と思う。
だから、言語化が自分を救ってくれることを実感した出来事でもあったのだった。
でも、やっぱり幼くて小さいのは損だな。と思ってしまった瞬間でもああった。
もちろんオッサンが認知症レベルで、誰にでもけしかけるのかもしれないけれど。
でもこういうマイナスな出来事の時は、どうしてもコンプレックスを想起せずにはいられない。
実際がどうなのかは置いておいて。
コンプレックスの存在とその想起するタイミングを自覚した。
そういえば学生の頃も駅ですれ違っただけでオッサンに罵声浴びせられたこともあったなぁ。
オッサン、こわい。
そんな出来事と、その考察でした!
今回も最後までお読みいただき、
ありがとうございました!