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墓場で未来予知した話

こんにちは。
デザイナーのこうじろうです。

今年の夏も暑いですね。みなさま、お元気でしょうか。
水分をとり、元気を出していきましょう。

夏といえば「怪談」ですね。
子どもの頃は「怖い話 1時間SP」みたいなTV番組を思い出しては、
トイレに行けなくなり、夜な夜な枕とシーツを濡らしておりました。

大人になった今でこそ、オバケ的なものは信じていない私ですが、ふとした瞬間に思い出す不思議な体験がいくつかあります。

決して「怪談」と呼べるようなものではないですが、暇つぶしに読んでいただければありがたいです。

読みづらかったらごめんなさい。m(_ _)m

1 墓場で未来予知した話


みなさまは「デジャヴ=既視感」の経験がありますでしょうか。

友達と話してる時など、ふとした瞬間に「あれ...この光景前にも見たな...」みたいになっちゃうアレです。
目の前の光景がまるで"過去に全く同じ経験をしている"ように錯覚してしまう、不思議な体験ですよね。

私も幼い頃、何度かデジャヴを経験していました。
そのほとんどは記憶にも残らないような、些細な出来事ですが、
そのなかで、小学生の夏休みに起きたある経験が記憶に残っています。

私の家では、お盆になると毎年、父方の祖母の家に泊まりに行っていました。
いつものように父が運転し、お墓まいりに向かう道中のことです。
霊園のあるお寺に近づき、混み合ってきた道でアイドリングを繰り返す車の助手席でボーッとしてたら、
突然、デジャヴに襲われました。

「あ、いつものあの気持ち悪い感じだ......。」
と思っていました。
助手席から見る父の横顔、
後部座席の祖母と父の会話、
だらだらと続く車の列の光景...それらがまるで映画の再放送のように「思い出されて」いる感覚に陥りました。

しかし、その時はいつものデジャヴよりも強い既視感がありました。
なんというか、「その次の光景」が思い浮かんだのです。
いま目の前に広がる光景に、重なるような形で、

【左から原付が追い越す】ことが、光景としてはっきり頭に思い浮かびました。

そして、私のデジャヴが終了した、その2-3秒後、
左から原付が追い越していきました。
数秒前にはっきりと、架空の網膜に像を結んだ光景が、そっくりそのまま
実際に再現されてしまったのです。

私は「!?!(^^;;)」となり、父親に向かって
「いま通っていった人、なんか、くると思ったらきた!!」などと、ハイテンションでよくわからないことを言っていたと思います。

未来予知しちゃったかも!!と興奮していた私でしたが、当然父は怪訝な様子でした。

その後、信号待ちかなにかでその原付と並行する形で停車していたとき、
後部座席に乗っていた祖母が、その原付の人物にむかって
「あれ、〇〇ちゃん!」と話しかけたのです。
父も窓を開けてその人物となにか話をしていました。
その原付に乗っていた人物は、当時の私はしらなかったのですが、私の親戚だったようです。"未来予知"みたいなことをしただけではなく、ただのモブキャラではなく自分の親戚であるというとこに驚愕していました。

デジャヴの原因は諸説あります。

有力な説としては、脳の中で、長期記憶をストックしたり、引き出したりする"側頭葉"がバグを起こすことが原因だというものです。
また、有名な精神科医フロイトは「デジャヴは過去に一度見た夢である」と言っています。人はみた夢を無意識に記憶していて、無意識に思い出している、それがデジャヴとして表出しているのである、とのこと。
じゃあその時点で、我々は未来に起こることを夢に見ちゃってるってことなのかな...?なんかロマンを感じますね。

はたまたある人物は、"輪廻転生"が実在することが前提とした上で「前世の記憶を見ているのだ」という面白い説も提唱しています。
これは論理的根拠も乏しく、信憑性は低いかもしれませんが、かなり胸アツです。
もし輪廻転生があるとしたら、来世はプラナリアとかになってみたいですね。そしてその記憶を引き継いでふたたび人間になり、前世でプラナリアとして体の一部を分裂させまくった時のこととかを武勇伝として語ってみたいです。


話が逸れましたが、いずれにせよデジャヴとは、詳細がいまだ解明されきっていない、神秘的な領域なようです。

以上から、そのときの私の体験を論理的に解釈するのであれば、
側頭葉のバグに引き起こされた"記憶ちがい "により、「存在しない原付の記憶」を「思い出し」てしまい、
偶然その光景が実際に再現され、
偶然その対象が私の親戚だった、ということになるのだとおもいます。

ただ奇跡的な偶然が重なっていたり、お墓まいりに向かう道中だった等の事から、なんらかの必然性を感じてしまい、
若干曲解してでも、「ご先祖様の神秘に触れたのではないか」などと、ロマンを感じずにはいられない出来事でした。

2 ひょっとこのお面

こちらも、私が祖母の家の近くで経験した事です。

幼い頃、祖母の家の周りで遊ぶのが好きでした。
私の祖母の家は、坂を登った少し高台のところに位置しています。
坂の途中で分岐する道の上に、「Yさん家」がありました。

幼い頃は、祖母家のちかくにある駄菓子屋によく、姉と2人で遊びに行っていました。
そして、その坂道を登ろうとすると

「おーーい。」

と呼びかけられることがよくありました。

上を見ると、10mくらい上にある「Yさん家」の窓から、坂道を見下ろすようにかわいらしい女の子がこちらに顔を出し、最近あった出来事などを一方的に話しかけてくるのです。

話の内容は今となってはほとんど思い出せません。
私と姉は幼いながらに、(なにか不思議な子だな)とおもいながらも
年に数度我々が祖母家に遊びにくると、毎回窓から顔を出すその子に対して、新鮮な気持ちを抱きながら見上げて、なんとなくお話を聞く、というのが恒例になっていました。

ある時はおもちゃを見せながら、
「私いっつも家でさ、暇なんだよね。遊びに来てよ。」

と言われました。
おもしろそうだけど、なんとなく不気味だったので、姉と二人で笑ってごまかしたりしていました。

そんなある時、いつものように姉と二人でその坂を登ると、

「おーーい。」

と、また声をかけられました。
見上げると、その女の子がなぜかお祭りで売っているような「ひょっとこ」のお面をつけた状態でこちらを見下ろしていました。

姉と私は、その女の子が、僕たちと仲良くなるためにふざけているのだと思い、
窓から見下ろすひょっとこの滑稽な風貌を、クスクスと笑いながら見上げていました。

そうすると、その女の子はこちらを見下ろしながら、ちょっと怒ったような口調で話しだしました。

「笑い事じゃないよ。あのね、
もう私たちは会えないと思んだよね。
じゃあね。」

と言いのこし、ひょっとこのお面のまま、部屋の中に消えて行きました。

「なんだろう。笑って悪かったかな。」と思い、私と姉は顔を見合わせました。しかし、些細なこととして気にせず祖母の家に帰り、その女の子のことは特に親に話すこともなく過ごしていました。

それ以降はその女の子は窓から顔を出すこともありませんでした。

それから数ヶ月経ったある日、父から
「Yさん家」で火事があったらしい、と言う話を聞きました。
記憶が曖昧ですが、全焼か半焼だかで、とにかくその家には住める状態でなくなり、一家で引っ越してしまったとのこと。

直接的ではなく、父と祖母が電話で話しているのを聞いた形です。
「Yさん家」と私が、奇妙な友人関係であることは話していなかったため、私に直接伝える理由がなかったからです。


以上の出来事を思い返した時、
あの女の子と最後に会った際のセリフを思い出してしまいます。


「もう私たちは会えないと思うんだよね。
じゃあね。」

火災から数ヶ月も空いているので、このセリフとの因果関係はなく、お面をかぶった子どものおふざけと捉えるのが妥当です。
ただ、今思い返すと、必死な口ぶりやいつもと違う様子に、子どもながら我々になにかのメッセージを伝えたかったのではないか、と考えてしまいます。


口をすぼめた、ひょうきんな男の面、「ひょっとこ」。
その存在は、民間の昔話において"かまどの神"と関係するなど、「火」と関わりの強いもののようです。
「ひょっとこ」という名自体、「火男(ひおとこ)」が訛った言い回しという説があり、火災除けの神様とされることも多いようです。

穿ち過ぎかもしれませんが、大人になり、「火事」と「ひょっとこのお面」を結びつける知識を得た今、そのことを思い出すと少々どきっとしてしまいます。

女の子は、家の中に不審な点を感じた、
あるいは数ヶ月後に起こる不幸な出来事をなにかしらの方法で予見し、子どもなりの手段で、私たちにSOSを発していたのかもしれない。

そのように考えると、少々不思議な気分になってしまいます。


3 甥っ子が見た「おんなのこ」


2011.3.11の震災の頃、祖母の家は海から近く、地盤的にも危険なところに位置していました。そのため祖母は仙台にある私の家に長い間泊まっていました。
本来、家族同士で助け合わなければいけない時に、高校生で思春期まっさかりな私は、
一人でゲームをしたいときにも自分の部屋にいる祖母に、イライラしたそぶりを取るなど、陰湿な態度を取ってしまっていました。
震災から何ヶ月か経ち、祖母の家のまわりも修繕が進み、祖母が帰っていったあとも、たまに電話をする程度で、私はあまり積極的にコミュニケーションを取ろうとしていませんでした。

月日は流れ、私が大学2年の頃に祖母は他界しました。

毎日連絡を取っていた父が、その日は連絡がつかず、虫の知らせを感じて東京から駆けつけたところ、いつも座っていた堀りごたつに、眠るようにして亡くなっていたようです。

震災の頃や、それ以降も、もっと素直に話をしていればよかった。もっとお話し聞きたかったと後悔しています。
お葬式での、私の兄が読んだ手紙の中で、祖母に対する感謝と共に、
「あなたに、ひ孫の顔を見せたかった。」と言って泣いていたのが、今でも忘れられません。

それからしばらくして、私の兄に男子が生まれました。わたしにとっては初めての「甥っ子」です。

すでに祖父は他界しているため、祖母の家にはもうだれもいませんが、お盆シーズンや年末年始などには、その年以降も家族で集まっていました。

甥っ子があちこち走り回ったり、言葉をしゃべれるようになった頃、
いつものように年末、家族で祖母の家に集まりました。

元気に走り回る甥っ子は、ガキンチョ特有の言葉遊び的なものをはじめました。
僕の父を指差して、「おとこのこ!」
母を指差して「おんなのこ!」
私を指差して「おとこのこ!」
と、家族を「おとこのこ」か「おんなのこ」で呼ぶという、何がおもしろいのかわかりませんが、そういったゲームをしていたのです。

そしてひととおり一周したと思ったところで、



甥っ子は天井の隅っこのところを指差して、満面の笑顔で
「おんなのこ!!」と言い放ちました。


家族は皆、
「あ。」というような表情で、顔を見合わせました。


甥っ子が指差したところは、かつて祖母がいつも座っていたコタツの真上だったからです。


幼い頃、僕はそのコタツで、おばあちゃんのとなりに座り、
おばあちゃんが小さなまな板とナイフで、ナシやリンゴを切ってくれるのを待つのが楽しみでした。

年末はおばあちゃんが毎回お寿司を取ってくれて、家族でコタツを囲んで食べるのが大好きでした。

夏の夜は、お庭で家族で花火を楽しむのが恒例でした。腰の悪いおばあちゃんは、そのコタツに座りながら、お庭で遊ぶ僕たちを見ては、ニコニコしながら見守ってくれていました。

思い返すのは、そんなたわいもない思い出ばかりですが、どのおばあちゃんもやさしい表情ばかりです。

もしかしたら、甥っ子の言葉は、じゃべることを覚えたての子どもによる、適当な行動かもしれません。
僕は幽霊は見たことがありません。しかし甥っこが「おんなのこ」を見たのだとしても、僕は怖くはありませんでした。

ひさしぶりに家族で入ったコタツが、あたたかかったからです。


4 おわりに

ほかにもいろいろあったのですが、3の終盤を書いてたら感傷的になってなんか泣けてきちゃったのでやめます。
「私」とか言ってたのに、終盤は一人称「僕」になっちゃっていますね。笑

コロナで今年は帰省したりできませんが、zoomで顔見せよかなと思っております。

なんか最後趣旨が変わっちゃいましたが、
みなさん、熱中症など気をつけてお過ごしください。

いい夢見てね。


ISHIGURO KOJIRO 
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