平成26年2月23日
その男がバイオリンの弦───小さなアクリルの透明な抽斗の中にあったものを全て、ごっそり掴んでコートに入れたのを見たあと、ぼくたちは何mも離れていたのにばっちり目が合った。
棚卸しが合わないなと気付き始めた今日この頃、よく見かける怪しい男がいる───とぼくに相談していた同僚に、「アイツです」と耳打ちされたぼくは、少し離れた陳列棚に隠れ、ギターピックを整理しているフリをしながら男を見張っていた。
男の死角になる音楽教室の入り口の方に退がらせた彼女の顔色は少し悪い。管楽器の専門学校出身の大人しい彼女にとって、目の前で行われる犯罪行為は、それ自体の大小とは無関係に、ひたすらに得体の知れない恐怖なのだろう。西成区在住、中卒フリーター、現役バンドマンのぼくには、まぁ…。
男がその場から歩き始める。店の外まで8m。
ぼくは彼女を安心させようと少し笑おうとしたが、緊張の余り頬が上手く動かなかった。エプロンのポケットにある荷捌き用のカッターナイフに触れて確かめる。同時に、こんなものがあって何になるのだろう、とも思った。
あと4m、ぼくも歩き始めた。
レジ横を抜けて、店の正面のエスカレーターから別の階に逃げるのだろう。ふとシフトが視界の端に見えて、棚卸しの不付合で彼女を責めるボンクラ店長の顔を思い出す。今日休みだったよな。こんなに緊迫しているのに、このあと第一報を受ける時の顔を想像したら少し愉快で、アドレナリンの所為か声を出して笑いそうになる。
あと2m。
ショッピングモールの床の、店と通路の境界を示す銀色のラインに男の脚が、後2歩。焦る男の上着が触れ、レジ横のチャームが揺れる。速足に近付く自分と、相手との距離が近付く。自分の心音しか聞こえない。1歩。
出た。
肩を掴んで「おわかりですよね」と問うた。訊いておきながら返事も聞かずに、左手でベルトを掴み店の中に引きずり戻す。「話を聞かせていただきます」万引きGメンで見た通り、ベルトを掴むと思いのほか相手は自由が効かない。テレビもたまには役に立つものだ。
決して示し合わせてはいないのに、レジに入っていたベテランのスタッフがもう受話器を持っていて、目が合うとぼくが「警備!」と言い終わるより先に頷いていた。
そこから後のことはあんまり覚えていない。気が付くとぼくは─────取調室にいた。