出会った人は 自分
旅に出ると、
知らなかった街と出会う
初めて行く場所や、その時だけ言葉を交わす人
旅に出ると
知らなかった自分と出会う
いつもの自分を いつもとは違う見方で見ることができる
出会いが教えてくれるのは、究極的には 自分の姿だ
出会ったものへの向き合い方から、自分がどんな人間かを知ることができる
とすると、出会うものに 感謝の気持ちを伝えたくもなる
大事なことを教えてくれてありがとう
出会うものは 何かを伝えに 自分のところにやってくるメッセンジャーなのだ
敬意をもって向き合いたい
最近、改めて気づいたことがある。
自分は、相手によって 態度を使い分けることを 好まないということ。
これまで、時々 自分が「よくない」態度の方を割り当てられることがあった。大したことないと思う人もいるだろうけど、された方は、やはりおもしろくない。他の人には、こうするのに、私にはそうせず、雑な振る舞いだ、と気づいてしまうとね。
そういうことをする人は、私に「あなたとは仲良くしたくない」などと伝えたいのかもしれない。仲良くしたくないと思うのは、別にいいけど、それをネガティブな表現で伝える必要はない。
それにしても、幼い振る舞いだ。極端に表現すると、Aさんとにこやかにしゃべってて、そこにBさんが声をかけると黙り込む、みたいな。この状況、実はされてる人より、してる人の方が惨めなのだ。自分の幼さを撒き散らしているのだから。そして、こういう人が雑に扱っているのは、相手はもちろんのこと、他でもない自分だったりもするのだ。
人間は、自分が知覚したもののイメージに左右されやすい。自分のいる空間が殺伐としていれば、気持ちは荒む。そして、何よりも自分の近くにあるもの、いつもともにあるもの、すなわち自分の振る舞いこそ、その後の自分に影響を与えるのだ。つまり、他者を雑に扱う自分は、自分のことも雑に扱うことになっているのだ。ネガティブな空気を自分にまとわせて。自分をどんどんネガティブな存在にしていく。そして、出会いの可能性、自分の成長の可能性、そういうものの幅を狭めていくのだ。
相手によって態度を使い分けることは、結局は自分を粗末に扱い、出会いの可能性を狭めることになる。自分を、そういう人間ですよ(分け隔てしますよ、人を選びますよ)と周囲に知らせることになる。誰が、「自分を見下す人」にわざわざ近づくか。それとも、自分が相手を選べるくらいの「立派な」人間だと思って、態度を使い分けるのか。勘違いも甚だしい。
他者とどう出会うか、は 旅を楽しいものにしてくれる鍵となるのだ。
他者と向き合うことは、自分がどう生きていくかということにつながることなのだ。
人生の旅で出会う相手、それは究極的には、自分、なのだと思う。最後まで旅をともにするのは、自分しかいないのだから。