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ゆるす、というよりは みとめることかな

noteでの、記念すべき初めての文章を見てみたら、「まず自分をゆるすこと」が書かれていて
自分をゆるすどころか、責めてばっかりの日々が多かったぞ、去年の自分、って思いました。
社会人になって長い間、休日さえ上手に楽しめない日の方が多かったのです。

自分を楽にしてあげることができないものだから、他の人のことも許せない、でも、それを悟られたくなくて、穏やかな人柄で過ごす、という苦行を何年も続けていたらしいです。他の人からは「穏やかな人柄だ」って言われていたので、そうなんでしょう。
よくある話ですが、両親が自分にも他人にも厳しくて、「ゆっくりする」ことを軽視していたことは、少なからず影響をしていたのだろうとは思います。

さて、自分がしたいことに熱中したり、自分のことをとことん楽しんでいると、悲しみなどから解放されているひとときが確実にあるということに、ある時から気づいていました。それでも、悲しみを感じている自分や、悲しみの原因そのものを忘れてしまって、処理をしていないことはよくないのではないか、という思いもあって、いつまでも「手放す」ことを許せずにいました。さて、どっちをとるか、という葛藤が長い間自分の中にあったようです。楽しんでしまうことで忘れる、ということが果たして根本的な解決になるんだろうか、という思い。

自分が自分であることを根っこから肯定したとき、他者のことも「そういうものなのだな」と思っている自分に気づきました。そして、「合わないなら、とにかく近づかないようにする、別の世界を生きるようにする」ことができれば、なんとかなりそうだということ。

難しいのは、「それは違うよね」ということをする人の行動がこちらに影響を及ぼし、私の大切な人や私の領域にぐいぐい入り込んでくるときです。それにどうしても対処しなければならないときの、心の調整は、少しスキルが必要です。これも、なんとなく なんとかなるかなというところまできつつあるのですが、このあたりのことは、もう少し整理する必要がありそう。

どちらにしても、自分が思ったことそのものを、自分の中ではまず まるまる肯定すること、ここに立てないといろいろやりづらいことがあるようです。

許すというよりは、認める、という感じかもしれない。


自分の思いを、これまでいろいろあった自分についてのできごとを 大切に「そうだったのか」と認めてあげながら、今日のくらしを楽しみたいものです。


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